食卓
銀月の奥の卓へ着くと、マスターが何も言わずに皿を三つ運んできた。
湯気の立つスープ。
固めのパン。
焼いた肉と、付け合わせの温野菜。
豪華ではない。
だが、仕事の後の身体にはそれで十分だった。
ユウは椅子へ座りながら、向かいへ目をやる。
ユイは帽子を被ったままだった。
つばは深く、髪もほとんど覗かない。
タチバナに言いつけられているのだろう。
銀月の中とはいえ、ここは完全な拠点じゃない。
付き合いの浅いロストも出入りする。
そこは一応、分かっているらしい。
それでも、スープを前にした仕草や声の置き方までは隠しきれていない。
ユイはそんなことには気づいていないみたいに、皿を前へ寄せて素直に言う。
「いただきます」
それからすぐにスープへ手を伸ばす。
タチバナは短く「……ああ」とだけ返し、自分の皿へ目を落とした。
食事の最初しばらくは静かだった。
スプーンが皿へ当たる音。
パンをちぎる音。
店の奥で誰かが小さく笑う声。
グラスの触れ合う乾いた音。
銀月の中ではいつもの夜が回っている。
ただこの卓だけが、少しだけ違う重さを持っていた。
ユウはスープを一口飲む。
熱が、ようやく身体の内側へ落ちていく。
戦闘の後は、身体の方が先に静かになることがある。
頭が仕事を反芻していても、食い物と熱が入ると、筋肉だけが先に今日の終わりを受け取る。
今がまさにそれだった。
タチバナがそこで、パンを半分に割りながら言った。
「荷物がなくても、一度寝床へは戻れ」
ユウは顔を上げる。
「使うものの確認くらいはしろ。置きっぱなしで困る物がないか、自分で見るんだ」
いつもの調子だった。
正式加入だろうが何だろうが、言う時は事務的に言う。
タチバナらしい。
ユウは短く頷く。
「分かった」
「その上で、また銀月に来い」
そこまで聞いたところで、向かいのユイがぴたりと動きを止めた。
スプーンを持ったまま、目だけがタチバナへ向く。
「……寝るところがないなら」
少しだけ間を置いてから、当然みたいに言った。
「正式に加入したんですし、家に来ればいいじゃないですか」
卓の上の空気が、一瞬だけ止まる。
ユウは反射でタチバナを見た。
案の定、苦い顔をしている。
ほんの少し前、銀月へ入った時とよく似た顔だ。
嫌そうというより、返し方に困った時の顔。
ユイはそんなこととは関係なく、素直に続けた。
「寝床があるにしても、荷物なんてほとんどないんですよね?」
話の流れとしては間違っていない。
むしろ正しい。
正しすぎるくらいだ。
ユウは答えにくくて、曖昧に言う。
「……まあ、そうだな」
「だったら、なおさらです」
ユイはぱっと表情を明るくした。
「ご飯食べ終わったら三人で行きましょう。私、案内してあげますよ!」
善意だった。
限りなく善意。
タチバナの顔が、さらに一段渋くなる。
返事をしないタチバナを見て、ユウは結局そっちへ向かって聞いた。
「……こう言ってるけど、どうする?」
その問いに、ユイの目も一緒にタチバナへ向く。
二人分の視線を受けて、タチバナはしばらく黙っていた。
店の中のざわめきだけが、そこへ薄く流れ込んでくる。
やがて、低く言う。
「……食い終わってからだ」
即答ではなかった。
だが、断りでもない。
ユイはその一言で、もう半分くらい結論が出た顔をした。
「じゃあ、その後で行きましょう」
受け取り方が早い。
しかも明るい。
タチバナは小さく息を吐く。
その吐き方に、どうやら娘相手だと強く切れないらしいことが、ユウにも少し分かった。
ユウはそこで初めて、内心で少しだけ納得する。
この男、仕事のことならすぐ切る。
人の配置も、命の線も、情報の要不要も迷いなく切る。
なのに、娘がこういう顔で押してくると、急に返しが鈍る。
別の意味で分かりやすい。
ユイはもう話がまとまったものとして、少し嬉しそうにスープへ戻っていた。
友達ができた、くらいの顔だ。
異性とかそういう空気ではない。
単純に年の近い誰かが自分たちの内側へ来る、それが嬉しい。
そんなふうに見える。
それがまた、ユウには少しやりにくい。
警戒される方がまだ楽だ。
値踏みされる方がまだ分かる。
こういうまっすぐな善意は、受け方が難しい。
ユウはスープをもう一口飲み、それからぼそりと言った。
「……部屋とか、落ち着かなさそうだな」
ユイがすぐに顔を上げる。
「そうですか?」
「眠れりゃ十分だろ」
事実だった。
寝床に必要なのは、雨がしのげて、襲われにくくて、すぐ武器が取れることだ。
落ち着くとか、広いとか、そういう基準で考えたことはほとんどない。
ユイは少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
「じゃあ、少しずつですね」
その言い方に、ユウは少しだけ眉を寄せる。
少しずつ。
何が少しずつなのか、すぐには分からない。
部屋に慣れることか。
こっちの生活に慣れることか。
もしかしたら、その両方かもしれない。
タチバナがパンを置き、低く言った。
「先に決めるな」
「だって、お父さんが濁す時って大体そうじゃないですか」
ユイの返しがあまりにも自然で、ユウは思わずタチバナを見た。
タチバナは無言だった。
無言だが、否定もしていない。
どうやら図星らしい。
ユイはそれで十分と判断したのか、嬉しそうに頷いた。
「ほら」
「ほら、じゃねえよ」
さすがにユウも小さく返す。
けれど、強くは言えない。
言ったところで、この流れが止まるとも思えなかった。
マスターがタイミングを見たみたいに水を足しに来る。
何も聞かない。
何も言わない。
だが、卓の空気だけはきちんと読んでいる。
その背中を見送りながら、ユウは小さく息を吐いた。
向かいのユイを見る。
帽子は被ったままだ。
それでも、動いた拍子に帽子の下から細い白い毛先が一瞬だけ覗く。
ちゃんと隠しているつもりなのは分かる。
けれど、その上でなお、こうしてまっすぐ近づいてくるところが、やっぱり今のユウには落ち着かなかった。
ユイは視線に気づいたのか、首を傾げた。
「どうしました?」
「……いや」
答えにならない答えだった。
それでもユイは気にした様子もなく、また食事へ戻る。
タチバナがそこでようやく言った。
「食ってから考える」
それはたぶん、この場で出せる限界の答えだった。
ユイは「はい」と素直に頷く。
ユウはそれ以上何も言わない。
食事の湯気がまだ上がっている。
店の中ではいつもの夜が続いている。
銀月の奥の卓で、下層とは別の速度で生活の話が進んでいく。
ユウは返事の代わりに、固いパンを小さくちぎった。




