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銀月のロスト  作者: taka
第5章 内側の少女
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食卓

 銀月の奥の卓へ着くと、マスターが何も言わずに皿を三つ運んできた。


 湯気の立つスープ。


 固めのパン。


 焼いた肉と、付け合わせの温野菜。


 豪華ではない。


 だが、仕事の後の身体にはそれで十分だった。


 ユウは椅子へ座りながら、向かいへ目をやる。


 ユイは帽子を被ったままだった。


 つばは深く、髪もほとんど覗かない。


 タチバナに言いつけられているのだろう。


 銀月の中とはいえ、ここは完全な拠点じゃない。


 付き合いの浅いロストも出入りする。


 そこは一応、分かっているらしい。


 それでも、スープを前にした仕草や声の置き方までは隠しきれていない。


 ユイはそんなことには気づいていないみたいに、皿を前へ寄せて素直に言う。


「いただきます」


 それからすぐにスープへ手を伸ばす。


 タチバナは短く「……ああ」とだけ返し、自分の皿へ目を落とした。


 食事の最初しばらくは静かだった。


 スプーンが皿へ当たる音。


 パンをちぎる音。


 店の奥で誰かが小さく笑う声。


 グラスの触れ合う乾いた音。


 銀月の中ではいつもの夜が回っている。


 ただこの卓だけが、少しだけ違う重さを持っていた。


 ユウはスープを一口飲む。


 熱が、ようやく身体の内側へ落ちていく。


 戦闘の後は、身体の方が先に静かになることがある。


 頭が仕事を反芻していても、食い物と熱が入ると、筋肉だけが先に今日の終わりを受け取る。


 今がまさにそれだった。


 タチバナがそこで、パンを半分に割りながら言った。


「荷物がなくても、一度寝床へは戻れ」


 ユウは顔を上げる。


「使うものの確認くらいはしろ。置きっぱなしで困る物がないか、自分で見るんだ」


 いつもの調子だった。


 正式加入だろうが何だろうが、言う時は事務的に言う。


 タチバナらしい。


 ユウは短く頷く。


「分かった」


「その上で、また銀月に来い」


 そこまで聞いたところで、向かいのユイがぴたりと動きを止めた。


 スプーンを持ったまま、目だけがタチバナへ向く。


「……寝るところがないなら」


 少しだけ間を置いてから、当然みたいに言った。


「正式に加入したんですし、家に来ればいいじゃないですか」


 卓の上の空気が、一瞬だけ止まる。


 ユウは反射でタチバナを見た。


 案の定、苦い顔をしている。


 ほんの少し前、銀月へ入った時とよく似た顔だ。


 嫌そうというより、返し方に困った時の顔。


 ユイはそんなこととは関係なく、素直に続けた。


「寝床があるにしても、荷物なんてほとんどないんですよね?」


 話の流れとしては間違っていない。


 むしろ正しい。


 正しすぎるくらいだ。


 ユウは答えにくくて、曖昧に言う。


「……まあ、そうだな」


「だったら、なおさらです」


 ユイはぱっと表情を明るくした。


「ご飯食べ終わったら三人で行きましょう。私、案内してあげますよ!」


 善意だった。


 限りなく善意。


 タチバナの顔が、さらに一段渋くなる。


 返事をしないタチバナを見て、ユウは結局そっちへ向かって聞いた。


「……こう言ってるけど、どうする?」


 その問いに、ユイの目も一緒にタチバナへ向く。


 二人分の視線を受けて、タチバナはしばらく黙っていた。


 店の中のざわめきだけが、そこへ薄く流れ込んでくる。


 やがて、低く言う。


「……食い終わってからだ」


 即答ではなかった。


 だが、断りでもない。


 ユイはその一言で、もう半分くらい結論が出た顔をした。


「じゃあ、その後で行きましょう」


 受け取り方が早い。


 しかも明るい。


 タチバナは小さく息を吐く。


 その吐き方に、どうやら娘相手だと強く切れないらしいことが、ユウにも少し分かった。


 ユウはそこで初めて、内心で少しだけ納得する。


 この男、仕事のことならすぐ切る。


 人の配置も、命の線も、情報の要不要も迷いなく切る。


 なのに、娘がこういう顔で押してくると、急に返しが鈍る。


 別の意味で分かりやすい。


 ユイはもう話がまとまったものとして、少し嬉しそうにスープへ戻っていた。


 友達ができた、くらいの顔だ。


 異性とかそういう空気ではない。


 単純に年の近い誰かが自分たちの内側へ来る、それが嬉しい。


 そんなふうに見える。


 それがまた、ユウには少しやりにくい。


 警戒される方がまだ楽だ。


 値踏みされる方がまだ分かる。


 こういうまっすぐな善意は、受け方が難しい。


 ユウはスープをもう一口飲み、それからぼそりと言った。


「……部屋とか、落ち着かなさそうだな」


 ユイがすぐに顔を上げる。


「そうですか?」


「眠れりゃ十分だろ」


 事実だった。


 寝床に必要なのは、雨がしのげて、襲われにくくて、すぐ武器が取れることだ。


 落ち着くとか、広いとか、そういう基準で考えたことはほとんどない。


 ユイは少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。


「じゃあ、少しずつですね」


 その言い方に、ユウは少しだけ眉を寄せる。


 少しずつ。


 何が少しずつなのか、すぐには分からない。


 部屋に慣れることか。


 こっちの生活に慣れることか。


 もしかしたら、その両方かもしれない。


 タチバナがパンを置き、低く言った。


「先に決めるな」


「だって、お父さんが濁す時って大体そうじゃないですか」


 ユイの返しがあまりにも自然で、ユウは思わずタチバナを見た。


 タチバナは無言だった。


 無言だが、否定もしていない。


 どうやら図星らしい。


 ユイはそれで十分と判断したのか、嬉しそうに頷いた。


「ほら」


「ほら、じゃねえよ」


 さすがにユウも小さく返す。


 けれど、強くは言えない。


 言ったところで、この流れが止まるとも思えなかった。


 マスターがタイミングを見たみたいに水を足しに来る。


 何も聞かない。


 何も言わない。


 だが、卓の空気だけはきちんと読んでいる。


 その背中を見送りながら、ユウは小さく息を吐いた。


 向かいのユイを見る。


 帽子は被ったままだ。


 それでも、動いた拍子に帽子の下から細い白い毛先が一瞬だけ覗く。


 ちゃんと隠しているつもりなのは分かる。


 けれど、その上でなお、こうしてまっすぐ近づいてくるところが、やっぱり今のユウには落ち着かなかった。


 ユイは視線に気づいたのか、首を傾げた。


「どうしました?」


「……いや」


 答えにならない答えだった。


 それでもユイは気にした様子もなく、また食事へ戻る。


 タチバナがそこでようやく言った。


「食ってから考える」


 それはたぶん、この場で出せる限界の答えだった。


 ユイは「はい」と素直に頷く。


 ユウはそれ以上何も言わない。


 食事の湯気がまだ上がっている。


 店の中ではいつもの夜が続いている。


 銀月の奥の卓で、下層とは別の速度で生活の話が進んでいく。


 ユウは返事の代わりに、固いパンを小さくちぎった。

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