ユイ
扉が開いた瞬間、銀月の中の空気が外より一段柔らかく肌へ触れた。
低い話し声。
グラスの触れ合う乾いた音。
木と酒と、薄く残る煙草の匂い。
外とは違う匂いの中へ一歩入ったところで、声が飛んできた。
「お父さん! 遅いから迎えに来ましたよ!」
思わず、ユウの目がタチバナの方へ向く。
声が大きい。
下層で女が、あんなふうに声を張ることはまずない。
声だけで性別が割れる。
それを分かっていないにしては、自然すぎた。
タチバナは露骨に足を止めはしなかった。
ただ、いつもよりほんの少しだけ苦い顔になる。
その一瞬で十分だった。
ああ、この声はこの男にとっても予定通りではないんだな、とユウにも分かる。
声のした方を見る。
カウンター寄りの奥、灯りの下に立っていたのは、自分と年の近そうな少女だった。
帽子を深く被っている。
髪は押し込めてあるのだろう、外へはほとんど出ていない。
目元もコンタクトで色を殺しているらしく、一見しただけなら特別目立つ顔ではない。
服も線を消すようにだぼついたものを選んでいて、遠目には痩せた若いのにも見えなくはない。
ちゃんと隠してはいる。
だが、ユウの目にはそれで十分だとは映らなかった。
骨格の細さ。
首筋の薄さ。
立っている時の重心の置き方。
そういうものまで、下層では隠せない。
しかも何より、あの声の出し方と距離の詰め方がまずい。
隠す気はある。
けれど、下層の基準ではまだ甘い。
そういう危うさが、ひと目で分かった。
店の中には他にもロストがいた。
見覚えのある顔ばかりだ。
タチバナの顔見知りなのだろう。
だが誰も茶化さない。
笑いも、軽口も出ない。
代わりに、何とも言えない困った顔だけが、いくつかこちらを見ていた。
どうしようこれ。
そんな空気が、わざわざ口にしなくても分かる。
その少女――ユイは、周囲の微妙な空気なんて気づいていないみたいに一歩こちらへ近づいた。
「あれ?」
まっすぐユウを見る。
距離が近い。
初対面の相手へ置く目線じゃない。
警戒より先に、気になったからそのまま見に来た、という感じの近さだ。
そこがもう、下層の人間とは違う。
「この人は誰ですか?」
ずいっと身を寄せるように聞いてくる。
ユウは一瞬だけ黙って、それから短く言った。
「……ユウだ」
名乗るだけで十分だと思った。
それ以上を自分から足す気にはならない。
ユイは素直に頷く。
「ユウ君ですね」
そのまま、さらに一歩分だけ近い距離で続ける。
「で、お父さんとどういう関係で……」
そこで初めて、ユウは答えに詰まった。
どういう関係と言われても、言い方が難しい。
仕事相手。
違う。
仮入り。
それもさっき終わった。
新入り。
それが一番近いのかもしれないが、自分でそう言うのも妙だ。
結局、ユウはタチバナの方を見る。
助けを求めたわけではない。
ただ、この場で言葉を持っているのはそっちだと思っただけだ。
タチバナは案の定、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
それでも余計な言い回しは挟まない。
「…………今日からファミリーに正式加入になった」
事実だけだった。
けれど、その一言で十分だった。
ユイの目が少しだけ大きくなる。
驚いたというより、素直に意味を受け取った顔だ。
「正式に」
そこでようやく、少しだけ表情が柔らかくなる。
「そうなんですね」
嬉しそうに言うものだから、ユウは逆にどう返していいか分からなくなった。
正式加入したのは事実だ。
けれど、それをこんなふうに真っ直ぐ受け取られると、妙に居心地が悪い。
ユイはそんなことには構わず、またユウへ視線を戻す。
「じゃあ、これから一緒なんですね」
その距離の近さも、言葉の置き方も、警戒より先に“内側”として扱ってくる感じがあった。
そこがまた、ユウには少し落ち着かない。
「……まあ、そうなるんだろ」
曖昧に返すと、ユイは小さく頷いた。
納得したのか、していないのか分からない。
けれど、拒まれたとは全然思っていなさそうな顔だった。
カウンターの向こうで、マスターが一度だけ目を上げる。
何も言わない。
ただ、店の中の空気がこれ以上変にこじれないよう見ている気配だけがある。
他のロストたちもまだ黙ったままだ。
誰か一人くらい何か言いそうなものなのに、誰も口を挟まない。
それが逆に、この場の扱いづらさをよく表していた。
タチバナが短く息を吐く。
「ユイ」
咎めるほど強くはない。
だが、少しだけ線を戻す声だった。
ユイはようやく一歩下がる。
下がるが、目線はまだユウから切れていない。
「はい」
「声」
「あ」
その一音で、自分がさっき少し大きな声を出したことに気づいたらしい。
ユイは口元へ手をやり、少しだけ肩をすくめた。
「ごめんなさい」
素直だった。
それでも、下層で育った人間の反射的な謝り方とは少し違う。
叱られる前の防御というより、本当に“言われたから直す”の方が近い。
ユウはそれを見ながら、この子は内側の人間なんだなと思う。
隠し方は知っている。
けれど、その根が自分とは違う。
守られてきた側の隠し方だった。
ユイは帽子のつばを指先で直してから、今度は少しだけ声を落として言う。
「……よろしくお願いします、ユウ君」
その言い方だけはきれいだった。
ユウは一瞬返事を忘れかけて、それから短く言う。
「……ああ」
それで十分だと思った。
実際、それ以上うまく返せる気もしなかった。
タチバナがそこでようやく歩き出す。
「立ち話は終わりだ」
いつもの調子だ。
仕事の後でも、娘がいても、結局最後はそうやって切る。
ユイはすぐに身体を引いた。
だが、視線だけはまだユウへ残している。
興味を持ったら、そのまま距離へ出る。
たぶん、そういう性格なのだろう。
その時点で、ユウはうっすら理解した。
銀月の中では、低い声とグラスの音がまたいつもの調子へ戻り始めていた。
タチバナの背が奥へ向かう。
ユイはその後を追いかける前に、もう一度だけユウを見た。
その視線には、疑いも値踏みもない。
ただ、今日からここに入る相手を、そのまま見ている目だった。
ユウは小さく息を吐いた。
この距離感は、たぶん一度や二度じゃ終わらない。
そう思いながら、その視線を受けたまま一歩だけ中へ進んだ。




