中継地点
花街寄りの区画へ入っても、タチバナは歩幅を変えない。
急ぎもしないし、見回しすぎもしない。
そのまま通りの先を見ているようで、実際にはもっと広く切っているのが分かる。
建物のある通りへ入る手前で、タチバナが一度だけ視線を上へ流した。
通りを跨ぐように建つ古い建物の二階。
半分死んだ窓の暗がり。
外から人影は見えない。
それでも確認はそれで済んだらしく、タチバナは何も言わずにまた前を向いた。
ユウはその動きの意味までは聞かない。
聞かなくても、今必要なものではないと分かる。
ただ、タチバナが場だけを見ているわけではないことは、それで十分に伝わった。
二人はそのまま通りへ入る。
目当ての建物は、遠目には使われなくなって長い三階建てのコンクリ建築にしか見えなかった。
壁は黒ずみ、窓は半分以上が割れている。
看板は剥がれ落ち、文字の痕だけがまだ薄く残っていた。
だが、近づくほどに、それが“ただ死んだ建物”ではないことが見えてくる。
一階の窓の割れ目には、内側から板が渡してある。
雑だが、雨と視線を切るには足りる留め方だ。
正面の扉も、元の蝶番は錆びているのに、受け側だけ妙に新しい金具へ替わっている。
壁のひびは放ったままなのに、出入りに使う床だけは板が噛ませてあって、踏み抜かないよう最低限の手が入っていた。
古い。
だが、使われている。
住むためではない。
長居するためでもない。
必要な時だけ荷を置いて、人を通して、また抜けるために生かしてある。
中継地点としては、それで十分だった。
タチバナが低く言う。
「見ろ」
それだけだった。
ユウは歩きながら、正面を見すぎないように目を散らす。
まず正面の入口。
扉そのものは閉じている。
だが、完全に死んでいる建物の閉じ方ではない。
出入りの時だけ少し浮かせているのか、下の隙間だけが妙に綺麗だ。
その前の床も、雨染みの中でそこだけ踏み固められている。
人が通る量は多くない。
だが、ゼロではない。
裏へ回る脇道はさらに分かりやすかった。
通りから半身だけ外せる位置に、痩せた男が一人立っている。
立っているだけに見える。
壁へ肩を預け、片足をだらしなく投げ出し、いかにも用のない顔だ。
だが、視線だけが死んでいない。
脇道の奥と、通りの入口側、その両方へ意識を残している。
見張りだ。
しかも雑に隠す気もない。
隠すより、“ただの街の人間”へ紛れる方を選んでいる。
下層ではその方が長持ちすることもある。
通りの向こうにも一人いる。
古い自販機の脇。
工具袋を足元へ置き、壁へ寄ってしゃがんでいる中年。
修理待ちの顔にも、日雇いの合間にも見える。
だが、手が一度も工具へ伸びない。
視線は下げているのに、入口側で何かが動くたびに首筋だけがほんの少し反応していた。
正面の見張り。
そして、上。
二階の窓は板で半分塞がれている。
完全に塞げば目立つからか、外から見るとただ雑に補修したようにしか見えない。
けれど、板と板の隙間だけが不自然に揃っていた。
内側から見るには十分な幅だ。
ユウはそこで、奥歯を一度だけ噛んだ。
場が生きている。
それも、思っていたよりちゃんと生きている。
タチバナがまた短く言う。
「入口は」
ユウも前を向いたまま返す。
「死んでない。出入りしてる」
「裏は」
「一人」
「上は」
「見てる」
タチバナの口元が、わずかにだけ動いた。
肯定とも否定ともつかない。
だが、見立てが外れていないことは分かる。
二人はそのまま建物の前を通り過ぎる。
正面へ張りついたり、立ち止まったりはしない。
ただ通る。
その速度のまま、入口と裏口の位置関係を頭へ入れる。
通りを挟んだ遮蔽物。
角の死角。
裏へ抜けるまでの歩数。
中へ入った後、逃げるならどっちへ振るか。
建物の角を一つ越えたところで、タチバナが足を緩めた。
そこはちょうど、正面も裏手も遠目に見える位置だった。
潰れた外壁の影があり、通りからの目も少しだけ薄い。
立ち話をするには十分で、長居するには駄目な場所。
タチバナが言う。
「正面は俺が入る」
「裏は俺」
「そうだ」
ユウは脇道の入口にいた痩せた男を思い出す。
「裏の一人、あれは先に取るか」
「取れれば取れ」
タチバナの返答は低く、短い。
「だが、追い込むな。鳴らされる方が面倒だ」
ユウは頷いた。
「足を止めるのが先だな」
「そうだ」
そこでタチバナがようやくこちらを見た。
「お前は裏を抜かせるな。中へ食い込みすぎるな。逃げる足を切れ」
その言い方で十分だった。
致命打を狙え、ではない。
倒しきれ、でもない。
役目ははっきりしている。
裏口から散る奴を止める。
脚を潰す。
走れなくする。
それで表から詰められる。
ユウは短く返した。
「分かった」
「胴を追うな」
「脚だろ」
「そうだ」
タチバナはそこで一度だけ、建物の方へ目を向けた。
「フレッシュのSMGなら、胴は抜けにくい。だが、お前も安全じゃない。頭、首、脇、関節。そこは普通に死ぬ」
「分かってる」
「装甲は時間を買うだけだ」
「信じてない」
その返しに、タチバナはほんの少しだけ顎を引いた。
それで話は済んだらしい。
風が抜ける。
濡れた壁の匂いと、花街寄りの甘い香が一瞬だけ混じる。
通りの向こうでは、さっきの中年がまだしゃがんだまま動いていない。
脇道の男も、相変わらず気の抜けた顔をしている。
どちらも、今はまだこちらを“そういう相手”とは見ていない。
それでいい。
タチバナが最後に言う。
「行くぞ」
それだけだった。
二人はそこで別れる。
タチバナは何でもない顔で正面側へ向かい、ユウは少し遅れて建物の裏手へ回る。
通りの空気は変わらない。
古い建物の板張りの窓が、上から黙ってこちらを見ているように思えた。
シーン4 裏口
裏手へ回る道は、表よりさらに人の気配が薄かった。
薄いと言っても、誰もいないわけではない。
壁際に蹲る影。
使われなくなった配管の下で煙草を潰す男。
道端へ捨てられた木箱に腰を掛け、通りだけを見ている若いの。
どれも下層には珍しくない顔だ。
珍しくないからこそ、その中に混ざった見張りは逆に見つけにくい。
ユウは歩幅を変えず、視線だけを散らす。
表へ回ったタチバナはもうこの辺りにはいない。
見えないだけで、もう入る位置へ寄っているはずだ。
ここから先は、自分の役目だけを見る。
脇道を曲がる。
中継地点の裏口は、正面よりさらにみすぼらしい顔をしていた。
錆びた鉄扉。
その横の壁へ打ちつけられた補修板。
雨避けのつもりか、古いトタンが半端に渡してある。
古い。
崩れかけている。
だが、使う場所だけは死なせていない。
そんな建物だった。
裏口の前には二人いた。
一人は扉の脇に寄り、壁へ肩を預けている。
もう一人は少し離れた位置で、足元の缶をつま先で転がしていた。
どちらもユウに気づいている。
気づいているが、まだ“そういう相手”だとは見ていない顔だった。
近づいたところで、壁に寄っていた方が顎を上げる。
「どこ入ってきてんだ、ガキ」
声には、まず威圧して止めるつもりの緩さがあった。
撃つでもなく、引くでもなく、まず言葉で足を止められると思っている。
その一拍が、もう甘い。
ユウは何も返さなかった。
返す理由がない。
相手が口を開いた時点で、もう遅れている。
壁際の男が一歩出る。
前に出した脚が、ちょうどよく開いた。
頭より先に、身体が動いていた。
ユウのSMGが跳ねる。
短いバースト。
乾いた連射音が狭い裏路地へ裂けた。
弾は脚へ入った。
膝下。
脛。
完全に吹き飛ばすほどではない。
だが、走る脚としては十分に終わる位置だ。
男の足が崩れ、そのまま身体ごと前へ折れた。
「っ、あ——!」
叫びは最後まで形にならない。
倒れながらなお手が腰へ走る。
武器を抜くつもりなのだろう。
そこまで読めた時点で、ユウの足が先に出た。
蹴りだった。
踏み込んだ勢いのまま、転んだ男の肩口を横から蹴り飛ばす。
骨を綺麗に折るためじゃない。
起き上がる動きと、武器へ伸びる腕をまとめて潰すための蹴りだ。
鈍い音と一緒に男の身体が半回転して、壁へ叩きつけられる。
また蹴った、とユウの頭のどこかが思う。
結局こうなる。
綺麗に止めるより、潰して止める方が早い。
そういう戦い方しか、まだ身体に入っていない。
もう一人がそこでようやく反応した。
舐めていた顔が消え、腰の辺りへ手が走る。
抜く。
あるいは奥へ合図する。
どちらでも同じだ。
抜かせなければいい。
ユウはそちらへ銃口を振る。
相手は半歩下がった。
逃げる方向を探している。
裏口へ入るか、脇の抜けへ走るか。
その一瞬の迷いが見えた。
ユウは胴を追わない。
脚だ。
二発。
短く、低く。
弾が太腿の外を掠め、もう一発が膝の上へ入る。
男の身体が大きく傾き、そのまま扉へ肩からぶつかった。
金属が鳴る。
手に掛けていた武器が抜けきらないまま、姿勢が崩れる。
その瞬間、正面側から空気が変わった。
銃声。
一発ではない。
短く切った連射と、何か重いものが倒れる音。
タチバナが表を割ったのだと、ユウにはすぐ分かった。
裏の二人も分かったはずだ。
だから余計に、ここで抜かせるわけにはいかない。
膝を撃たれた男が、それでも扉へ身体を寄せて中へ滑り込もうとする。
思ったより根性がある。
ユウは前へ出た。
深追いではない。
扉を越えない距離。
中へ食い込みすぎない線だけを守って、半歩だけ詰める。
相手の肩が扉へ触れる直前、ユウの足がまた出た。
今度は脇腹ではなく、後ろ腿の付け根へ近い位置。
崩れた脚へさらに体重を掛けるような蹴りだった。
悲鳴は出ない。
代わりに息が潰れる。
男の身体が扉から剥がれ、膝から地面へ落ちる。
だが、今はそれでいい。
動きを止める。
逃がさない。
役目はそれだけだ。
最初に撃った方の男は、壁際でまだ呻いていた。
腕は使えない。
脚も死んでいる。
もう一人も膝を崩したまま起き上がれない。
二人とも武器へ届く位置ではない。
正面側からまた音がする。
今度は短い衝突音。
それから、銃声が途切れる。
場の主導権が完全に表へ持っていかれたのだと分かる音だった。
ユウは裏口の前へ立つ。
扉を背にしない。
少し斜めに立ち、正面と脇道の両方を見られる位置を取る。
中から飛び出してくる奴がいれば止める。
外へ散ろうとする奴がいれば脚を取る。
それだけに意識を絞る。
中で、誰かの怒鳴り声が一瞬だけ上がった。
次の瞬間には途切れている。
タチバナが終わらせたのだろう。
裏口の足元では、撃たれた男が歯を食いしばってこちらを睨んでいた。
さっきまでの舐めた目ではない。
若い。
厳つくもない。
なのに、止めるための動きだけは躊躇がない。
そういう種類の怖さを、ようやく理解した目だった。
ユウはその目を見返し、何も言わない。
言葉で凄む必要はない。
もう足りている。
裏口は塞いだ。
中へ抜ける足も、外へ逃げる足も、これで止まっている。
役目は果たした。
その時、建物の中からタチバナの声が低く飛んだ。
「ユウ」
「裏は押さえた」
即答だった。
一拍置いて、タチバナの返しが来る。
「そのまま見ろ」
「分かった」
ユウは動かない。
追わない。
崩れた相手をこれ以上蹴りもしない。
仕事として必要なところで止まる。
裏路地には、湿った空気と火薬の匂いが残っている。
花街寄りの甘い香りは、もうほとんど感じない。
ユウはSMGを構えたまま、裏口の前に立ち続ける。
自分の足で逃げ道を潰した感触だけが、まだ脚の奥に残っていた。




