花街寄りへ
銀月の前へ着いた時、下層はまだ朝の顔を崩し切っていなかった。
タチバナはもう来ていた。
店先の脇、壁際に寄るでもなく、かといって通りの真ん中へ立つでもない位置。
そこにいるだけで、こちらが行く先を決める側だと分かる立ち方だった。
ジャケットは閉じられ、義体側の腕もいつも通り隠れている。
だが、隠れているだけで、準備が済んでいないわけではない。
ユウが近づくと、タチバナは一度だけ顔を上げた。
「遅れてないな」
「遅れる理由がない」
「そうか」
タチバナの視線が、ユウの肩、腰、足元を短く流れる。
「行くぞ」
余計な確認はなかった。
ユウが聞く。
「場所は近いのか」
「途中までは乗り合いだ」
その返しに、ユウは小さく息を吐いた。
花街寄りまで歩き切る気かと思っていた。
乗り合いを使うなら、それだけ距離もあるし、人の流れも違うということだ。
タチバナは通りの向こうを見たまま言う。
「ここから先は、もう少し場が違う」
「花街寄りか」
「そうだ」
そこで会話は切れた。
全部は言わない。
だが、必要な線だけは渡してくる。
それがタチバナのやり方だと、ユウももう分かっている。
二人はそのまま通りを歩き出した。
銀月の前から少し離れるだけで、空気はいつもの下層へ戻る。
しばらく行ったところで、路肩へ停まっている乗り合いが見えた。
車体は古い。
元は荷運び用だったのだろう。
荷台の縁を半端に囲い、長椅子を無理やり渡しただけの作りだ。
屋根も壁も中途半端で、風も匂いもそのまま入ってくる。
きれいな乗り物ではない。
だが、下層ではこういうものが十分に足になる。
荷台にはすでに何人か乗っていた。
工具箱を抱えた中年。
顔色の悪い若い男。
そして荷台の端には、短く切った髪を帽子の下へ押し込んだ人影がいた。
服の線もわざと潰してあって、遠目には痩せた若い男にも見える。
ただ、首筋から肩の落ち方だけは隠しきれていない。
気づく人間は気づくだろう。
だからか、膝へ抱えた袋の口を掴む手だけがずっと硬いままだった。
誰も誰かをまじまじとは見ない。
だが、見ていないわけでもない。
その距離感が、いかにも下層の乗り合いだった。
タチバナが先に乗り、ユウもその後へ続く。
運転席の方にいる痩せた男が、片手だけを上げた。
「北寄りまでだ」
「分かってる」
タチバナが短く返す。
金を払う。
それ以上の会話はない。
行き先の細かい確認すら、ここでは余計だった。
エンジンが鈍く唸り、乗り合いがゆっくり動き出す。
荷台の床は細かく震え、古い金属の軋みが足の裏へ伝わる。
風が吹き込み、下層の匂いがそのまま流れ込んでくる。
区画が変わるたびに、その混ざり方だけが少しずつ変わる。
タチバナがそこで口を開いた。
「相手は四、五」
ユウは前を見たまま聞く。
「フレッシュか」
「そうだ。主武装はSMG中心」
そこまで聞いて、ユウは短く頷いた。
フレッシュ。
数はいる。
だが、場を借りて噛む程度の連中なら、戦線を維持するより、近い距離で数を押しつける方が先に来る。
タチバナが続ける。
「胴は抜かれにくい」
ユウは自分の胸の奥、装甲板の入った位置を意識する。
組み込みはまだ軽い。
万全でも何でもない。
それでも、フレッシュのSMGが即座に命まで届くわけではない。
その直後に、タチバナが言った。
「だが、頭と隙間は別だ。数を浴びれば止まる。装甲を当てにするな」
「分かってる」
即答だった。
そこに見栄は要らない。
装甲板は保険だ。
無敵の札じゃない。
下層でそんなことを思っている奴は、長く持たない。
タチバナが短く言う。
「俺が表から入る。お前は裏口だ」
ユウはそこで視線だけを少し動かした。
「裏は何人いる想定だ」
「一人か二人」
「逃げる方か」
「たぶんな」
タチバナの返答は簡潔だった。
だが、必要な線は全部入っている。
「止めろ。追いすぎるな。中へ押し込みすぎるな」
「裏口を抜かせないのが先か」
「そうだ」
その確認だけで十分だった。
ユウは荷台の揺れに身体を合わせながら、裏口の狭さを頭の中でなぞった。
表はタチバナ。
自分は裏。
逃げる奴を止める。
押し込みすぎない。
裏から勝手に深追いして、中で潰れるのが一番駄目だ。
タチバナが前を見たまま、さらに一言だけ足した。
「お前が崩れたら、裏が抜ける」
ユウは小さく息を吐いた。
分かりやすい。
分かりやすすぎるくらいだ。
荷台の端の人影は、一度も袋から手を離さないままだった。
向かいの男は無言で工具箱を抱え、時折だけ外を見ている。
乗り合いは、乗っている人間の事情なんて知ったことじゃない顔で、がたつきながら区画を抜けていく。
下層の景色も少しずつ変わっていた。
荒れていることに変わりはない。
だが、花街寄りへ近づくにつれて、店先の色と匂いがわずかに違う。
表へ出ている布の質。
看板の残り方。
道端に立つ女の服の線。
汚れてはいても、ただのスラムとは別の顔が混じり始める。
ユウはそれを横目に見ながら聞いた。
「場所は中継地点なんだよな」
「そうだ」
「根城じゃない」
「違う」
タチバナは短く返した。
「荷を置いて、振り分けて、流れを繋ぐだけの場所だ。長く居座る前提じゃない」
「なら、逃げ足は早いか」
「早いだろうな」
それを聞いて、ユウは逆に少し落ち着く。
根城じゃないなら、守り切るために踏ん張るより、散って抜ける方を選びやすい。
だから裏口の意味が出る。
役割も見えやすい。
「……分かった」
ユウがそう言うと、タチバナはそれ以上同じ話を繰り返さなかった。
必要な情報は渡した。
後は現場だ。
そういう切り方だった。
乗り合いが大きく揺れ、速度を落とす。
運転席の男が後ろも見ずに声を投げた。
「この先だ。降りるなら今」
タチバナが立ち上がる。
ユウもそれに続いた。
荷台から降りると、空気がまた少し違っていた。
同じ下層なのに、匂いの混ざり方が違う。
酒と香の甘さが、鉄と湿気の奥に薄く混じっている。
見上げても空はない。
だが、見えない上の方から落ちてくる砕けた光の色まで、どこか少しだけ変わった気がした。
乗り合いは二人を降ろすと、すぐにまたがたつきながら走り去っていく。
残るのは、濡れた路面と、細い通りと、まだ朝を終え切っていない街の気配だけだ。
ここから先は徒歩だった。
タチバナがジャケットの前を軽く直し、低く言う。
「ここからは口を減らせ」
「分かってる」
「確認だけだ。正面は俺、裏はお前」
「逃がさない。追いすぎない」
「そうだ」
それで十分だった。
二人はそのまま歩き出す。
花街寄りの区画は、下層の他の場所より少しだけ整って見える。
人と荷と欲が、別の形で回っている場所の顔をしていた。
二人は花街寄りの細い通りへ入っていった。
ユウは一度だけ、裏口へ向かう道筋を頭の中で引き直した。




