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銀月のロスト  作者: taka
第3章 仕事の形
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戻る道


 整備小屋の裏を離れると、下層の空気はさっきまでと同じ顔でそこにあった。


 人影は多くない。


 だが、完全に途切れているわけでもない。


 下層は夜へ寄りつつも、まだ仕事の顔を捨てきってはいなかった。


 タチバナが前を歩く。


 ユウはケースを抱えて、その半歩後ろを歩いた。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 聞き取りの後だから、というだけではない。


 タチバナの聞き方を見た後で、何を言葉にすればいいのか、自分の中で少し整理が要る。


 やがて、ユウが言う。


「……殺さないんだな」


 タチバナは振り返らなかった。


 ただ歩幅を変えずに返す。


「企業相手なら別だ」


 それだけで、まず一段意味が分かる。


 ユウは少しだけ黙ってから続けた。


「この程度の末端なら、ってことか」


「そうだ」


 タチバナの声は低いままだ。


「知ってる札は抜いた。大元の顔も持ってない。ここで消しても増えるものがない」


 通りの向こう、痩せた男が一人、壁に背を預けて座り込んでいる。


 こちらを見ているのかいないのかも分からない顔のまま、空になった缶を足元で転がしていた。


 タチバナが続ける。


「それに、弾も手間も安くない」


 ユウはそこで小さく息を吐いた。


「弾代が勿体ないか……」


 その一言が、自分でも妙にしっくり来た。


 情で残すわけじゃない。


 見せしめのために消すわけでもない。


 小さすぎる末端に、そこで余計なものを使う理由が薄い。


 下層の感覚としては、むしろ納得しやすい。


 タチバナが短く言った。


「そういうことだ」


 それだけだった。


 それだけなのに、十分だった。


 ユウはケースを持ち直す。


 重くはない。


 だが、今日ここまで運んできたものの重さは、中身より別のところへ乗っている気がした。


「……企業なら消すのか」


 聞き返すと、タチバナは少しだけ首を動かした。


「場合による」


 即答ではない。


 だが、曖昧でもない。


「追ってくる価値がある相手、返した時のデメリットが大きい相手、そこから先へ伸びる札を持ってる相手。そういうのは扱いが変わる」


 ユウはそれを聞きながら、下層の路地を見た。


 人を消すこと自体は、珍しい話じゃない。


 下層ではなおさらだ。


 ただ、どこで切るかにも理由がある。


 それを今日、初めて形として見た。


「脅すだけじゃ駄目ってのも、その延長か」


 ユウがそう言うと、タチバナは前を向いたまま返した。


「使える形で残さなきゃ、聞いた意味がない」


 ユウは短く頷いた。


 聞いて、腹へ落ちる。


 それで十分だった。


 銀月へ戻ると、マスターは何も聞かずに奥の席へ水を二つ置いた。


 それから、折り畳まれたメモを卓の端へ滑らせる。


 タチバナがメモを取る。


 目を走らせる。


 その間、ユウは水へ手を伸ばした。


 短い文だったのだろう。


 タチバナはすぐに読み終え、もう一度だけその紙を見た。


「……やっぱりそっちか」


 独り言みたいな低い声だった。


 ユウは視線を上げる。


 タチバナはメモを畳み直し、ジャケットの内へ入れた。


 全部を見せるつもりはないらしい。


 それでいい。


 今の自分がそこまで踏み込む段階ではないことくらい、ユウにも分かる。


 ただ、仕事がもう一段先へ進んだことだけは分かった。


 タチバナが水を一口だけ飲み、置く。


「今回の件、同じ筋で見ていい」


 ユウは頷いた。


「場を借りる。窓口を差し替える。監視を散らす。やり口が揃いすぎてる」


「そうだ」


 それだけで十分だった。


 全部を広げなくても、今の自分に必要な線は引かれる。


 しばらく、銀月のざわめきだけが流れた。


 入口寄りで誰かが低く笑い、別の卓で椅子が鳴る。


 カウンターの向こうではマスターがまたグラスを拭き始めている。


 店は何も変わらない顔で回っているのに、この席の上だけが少しずつ次の形へ寄っていく。


 やがて、タチバナが言った。


「それなりに動けることは分かった」


 ユウは何も言わない。


 続きがあると分かるからだ。


 タチバナが視線を外さずに続ける。


「前より早かった。惜しまず切れた。それで十分だ」


 そこで一拍。


「……だから、もう一つ確認する」


 ユウの喉がわずかに動く。


 正式加入、という言葉は出ない。


 だが、そこへ近づいているのは分かる。


 仮入りの確認が、もう一段先へ進む。


「次は」


 ユウが問うと、タチバナは短く返した。


「実戦だ」


 卓の上の空気が、ほんの少しだけ重くなる。


 けれど、それは嫌な重さではなかった。


 軽くもない。


 逃げるほどでもない。


 受け止めるべき次の重さだった。


 タチバナが言う。


「今回みたいに場が出来てる相手じゃない。動く相手を追う。そこでもお前が間違えないかを見る」


 ユウは水を飲み、喉を湿らせた。


 頭は妙に静かだ。


 驚きはない。


 むしろ、ようやくそこへ来た、という感覚に近い。


「……分かった」


 タチバナは頷きもしなかった。


 ただ、それで話が通ったことだけを受け取る。


 マスターがそのタイミングで、何でもない顔のまま一言だけ落とした。


「夕飯は要りますか」


 ユウが少しだけ目を向ける。


 たぶん、腹が空いている顔でもしていたのだろう。


 タチバナが先に答える。


「出せるなら出せ」


「かしこまりました」


 マスターはそれ以上何も聞かない。


 レンジのメモのことも、次の実戦のことも、口にはしない。


 必要なものだけが卓へ来る。


 銀月はそういう店だ。


 タチバナがそこで最後に言う。


「仮が終わるかどうかは、次で決める」


 それは宣言というより、事実を置いた声だった。


 ユウは短く息を吐いた。


「だったら、見せるしかないな」


 その返しに、タチバナの口元がほんのわずかに動く。


 笑ったと言うほどではない。


 だが、さっきまでより少しだけ硬さが薄い。


「子供じゃないならな」


 いつか聞いた返しだった。


 ユウは小さく鼻で笑う。


「まだ言うのかよ」


「まだ仮だ」


 その言葉に、今度はユウもそれ以上は返さなかった。


 奥から、マスターが皿を運んでくる音がした。


 湯気の立つ皿が卓へ置かれる。


 固めのパンと、簡単な煮込み。


 豪勢ではない。


 だが、冷えた身体と空いた腹には十分だった。


 ユウはパンをちぎりながら、小さく呟いた。


「……弾代が勿体ない、か」


 タチバナが目だけを向ける。


「何だ」


「いや。妙に納得しただけだ」


「なら覚えとけ」


 ユウは短く頷き、湯気の向こうで皿に手を伸ばした。


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