押さえ
小さい音だった。
だが、この場では十分すぎる。
入口の外。
何でもない顔で散っていた目の一つが、動く位置へ入った。
男の口が開く。
「お——」
最後まで言わせる前に、空気が変わった。
タチバナが入ったのだと、ユウには音より先に分かった。
次の瞬間、入口側から短い衝突音が響く。
誰かが壁へ叩きつけられる鈍い音。
遅れて、小さな呻き。
若い男の目が反射で入口側へ向く。
そこへ、ユウはもう一歩だけ斜めへ切った。
真正面から外れる角度。
受け取る位置ではなく、次を潰すための位置だ。
男がケースから手を離しかける。
「何して——」
その手が袖の内へ潜ろうとする。
予想通りだった。
ユウはその腕を読む。
だが、追いすぎない。
肘を払うだけで十分だ。
抜く手をずらし、引き出すタイミングを崩す。
それだけで一拍遅れる。
その一拍で、背後から低い声が落ちる。
「動くな」
タチバナだった。
怒鳴ってはいない。
だが、そこで場の中心はもう持っていかれていた。
男の動きが止まりきらないうちに、タチバナが一歩で間合いへ入る。
義体側の腕が伸び、袖の中へ潜ろうとしていた手首を掴む。
そのまま無駄なく捻り上げ、壁へ押しつける。
男の顔が歪む。
鈍い痛みの音だけが建物の奥へ響いた。
入口の外では、もう一人分の気配が床へ押し倒される音が遅れて聞こえた。
さっきまで“何でもない顔”をしていた誰かだろう。
タチバナは最初にそこを潰したらしい。
男が歯を食いしばる。
「離せ……!」
「黙れ」
タチバナの声は低いままだった。
怒鳴らない。
その代わり、逃がす気配が一切ない。
ユウはそこでようやく、一歩引いた。
追わない。
制圧しきろうとしすぎない。
自分の役割はもう終わっている。
拾った。
渡した。
寄りすぎなかった。
床に落ちたケースを視界の端で押さえながら、周囲を見る。
二階の影はもう動かない。
裏手の気配も、少なくとも今は近づいてこない。
入口の外、押し倒された誰かが低く呻いている音だけが残る。
場はまだ完全には静かではない。
だが、主導権はもうこっちへ移っていた。
タチバナが男を壁へ押しつけたまま、短く言う。
「ユウ、荷を見ろ。開けるな。外だけだ」
「分かった」
ユウはケースへしゃがみ込み、外装だけを素早く見る。
見た目はやはり小口の工具箱に近い。
角は前回より擦れている。
だが、汚れの付き方は不自然に浅い。
急ごしらえの窓口と同じだ。
“使われた場”にしては、荷だけが少し綺麗すぎる。
「外装、やっぱり浅い」
ユウがそう言うと、タチバナが「だろうな」とだけ返す。
若い男はまだ何か言おうとしていた。
だが、タチバナが力を少しだけ深く掛けると、言葉の代わりに息だけが漏れた。
「末端だな」
タチバナの声に、感情はほとんどない。
「窓口だけ差し替えられる顔だ」
男の目がそこで初めて揺れる。
図星なのだろう。
ユウはその揺れを見て、短く息を吐いた。
逃げるための息ではなかった。
タチバナが言う。
「外へ出る。ここで長く喋らせる気はない」
ユウは頷いた。
入口の外には、地べたへ押さえつけられたもう一人がいた。
若い。
煙草の男ではない。
壁際に立っていた別の人影だろう。
通りにはまだ人がいる。
だが、何でもない顔をして流れていく。
下層では、見て見ぬふりもまた生活の技術だった。
タチバナは若い男の腕を引き上げ、歩かせる。
「歩け」
「……っ」
「引きずられたいならそう言え」
その一言で、男は足を動かした。
痛みと恐怖のどちらが勝ったかは分からない。
だが、少なくともここで倒れ込む気は失せたらしい。
ユウはケースを持ち、二人の後ろへ付く。
建物を出る直前、入口脇の壁へ視線を流す。
擦れた跡。
踏み固められた床。
何でもない引き取り案件の顔をしていた場所。
そこにもう、前回ほどの曖昧さはなかった。
同じ筋だ。
そう見ていい。
通りへ出ると、頭上から企業ロゴの光が壁を撫でた。
人はいる。
子供もいる。
痩せた人影も、ぶつぶつ言う男も、そのままそこにいる。
タチバナは振り返らずに言った。
「よくやった、とはまだ言わん」
ユウはケースを持ったまま、小さく鼻で息を吐く。
「言われるほどでもない」
「そうだ」
短い返しだった。
「だが、前より早かった」
それだけで十分だった。
ユウは何も返さなかった。
返さなかったが、左足の感覚がまだ残っていた。




