受け渡し
建物の前へ戻ると、視線の置かれ方がさっきより少しだけ変わっていた。
変わったのは大きな景色じゃない。
壁の剥がれ方も、割れた窓も、入口脇の染みもそのままだ。
けれど、人の置かれ方が少し違う。
通りの向こう、さっき煙草を咥えていた男はまだそこにいる。
今度は火が点いていたが、吸い方が浅い。
煙を吐く間だけ視線が切れ、次の瞬間にはまた建物の入口へ戻っている。
紙袋の女も消えていない。
立つ位置が半歩ずれただけで、まだ二階と入口の動線へ目を置いていた。
裏へ回る細い路地の入口にいた人影も、今は壁から少し離れている。
離れているだけで、消えたわけではない。
多い。
それなのに、誰もこの場と関係のある顔をしていない。
それがもう十分に異常だった。
タチバナは何も言わない。
言わないまま、自然な歩幅で建物の前を通り、入口手前で進路を少しずらす。
そこから先はユウが前へ出る形だった。
受け取り役はユウ。
それは最初から決まっている。
タチバナは近くにいる。
だが、近くにいるだけだ。
ここで頼る顔を見せれば、それだけで場が濁る。
ユウはジャケットの前を軽く直し、そのまま入口へ向かった。
中は暗い。
昼の下層は夜より輪郭があるとはいえ、この手の建物の奥は別だ。
入口の内側、踏み固められた床。
壁際に寄せられた古いケース。
剥き出しの配管。
そして、暗がりの少し奥に、人が一人立っている。
前回とは違う男だった。
歳は若い。
二十前後か、それより少し上。
前の男よりは体つきがある。
服も、薄汚れてはいるがまだまともに見える。
だが、場に馴染んでいる感じは薄い。
立ち位置が綺麗すぎる。
この手の場所に慣れているなら、もっと壁や影の使い方が身体へ入っているはずだった。
男はユウを見ると、少しだけ顎を上げた。
「朝は?」
言葉は合っている。
ユウは返した。
「まだ遠い」
男の肩の力が、わずかに抜ける。
だが、その抜け方も浅い。
安堵したというより、次へ進めることに気を取られた緩み方だ。
男が足元のケースへ手をやる。
今回も小口だ。
大きくない。
片手で持てる程度。
受け渡しとしては、何の不自然さもない。
不自然なのは、場の方だった。
入口の外。
二階。
裏手。
目が多い。
その上、受け渡し人の視線も荷に落ちきっていない。
一度ケースを見る。
次の瞬間にはユウの肩越し、そのさらに外へ散る。
窓口にしては、見る場所が広すぎる。
受け渡しの窓口なら、もっと目の置き方が狭くていい。
男が言う。
「これだ。持ってけ」
声が少しだけ早い。
ユウはケースへ手を伸ばしかけて、止めなかった。
代わりに、足の裏へ意識を落とす。
もう一段、見に行く必要はない。
人が多い。
多いだけでなく、場の外にも目がある。
そして目の前の窓口も浮いている。
ここで惜しむ理由はもうなかった。
ユウは荷へ手を伸ばしたまま、左足の位置を変えた。
半歩にも満たない動きだ。
ただ、重心を少しずらしただけ。
受け取り役が立ち位置を調整したようにしか見えない。
だが、渡すべき合図としてはそれで十分だった。
男はそれに気づかなかった。
あるいは、気づいても意味までは読めなかった。
ケースを少し持ち上げる。
「おい」
催促するように言う。
その瞬間、入口の外で靴底が砂を噛む音がした。




