濁った現場
スラム外れへ近づくにつれて、下層の音は痩せていった。
残るのは、湿った壁を伝う水音と、人が気配を薄くして生きている場所のざわめきだけだった。
タチバナはユウより半歩前を歩いている。
前に出すぎず、隣に並びすぎず、後ろへ回りもしない。
見ようと思えばこちらの動きは拾えるし、周囲から見ればただ連れ立って歩いているだけにも見える。
その距離の取り方が、いかにも仕事だった。
ユウは前を見ながら、意識の端だけを横と上へ散らす。
受け渡し場所までの道筋は頭に入っている。
今日の案件は前回と似ている。
何も起きなければ、それで終わり。
来たら拾う。
どちらにしても、自分が間違えないことが先だ。
通りの端に、男が一人座り込んでいた。
壁に背を預け、膝を抱え、何かをずっとぶつぶつ言っている。
言葉になっているのかも分からない。
その少し先、配管の影では痩せすぎた子供が二人、地べたへしゃがみ込んでいた。
どちらも目だけが妙に大きく見える。
一人が何かの包み紙を舐めるみたいにして弄っていて、もう一人はその手元を見ていた。
ユウは前を向いたまま、それ以上見なかった。
タチバナが振り向かずに言った。
「そのまま行け」
ユウは短く返す。
「見てるだけだ」
「ならいい」
それだけで会話は切れる。
通りをさらに抜ける。
建物の傷みは一段深くなり、店だった跡はもう店の顔をしていない。
半分落ちた看板。
歪んだシャッター。
ひびの走った壁。
床に近い位置だけ黒く染みた外壁。
受け渡し場所の近くに入る頃には、人の流れはさらに薄くなる。
完全に死んだ場所ではない。
だが、用がなければ長居しない。
ユウはそこで、前回との違いに気づいた。
今回は、通路や建物そのものへ近づく前から、周囲に視線が散っている。
露骨な見張りではない。
それが逆に嫌だった。
右手の壁際で煙草を咥えた男が、吸うでもなく火の点いていない先を口の端へぶら下げたまま、建物の入口寄りだけを時々見ている。
その少し向こうでは、女が空の紙袋を抱えて立っていた。
待ち合わせの顔にも見える。
だが、紙袋の口はずっと閉じたまま、視線だけが時々、建物の二階と入口の間を往復している。
さらに、通りを横切るふりをした若いのが一人。
足は流れているのに、目だけが建物の窓を舐めていた。
通りすがりの視線にしては、一度の置き方が長い。
ユウは何も言わない。
言わないが、頭の中で位置が並ぶ。
煙草の男。
紙袋の女。
流れていく若いの。
全部が同じ筋かどうかは分からない。
本当にただの街の汚れかもしれない。
だが、少なくとも前回みたいに“場に入ってから嫌な感じがする”段階ではない。
今日はもう、近づく前から少し濁っている。
タチバナがまた低く言う。
「止まるな」
「分かってる」
ユウはそのまま歩幅を変えずに進んだ。
受け渡し場所の建物が見える。
正面から見れば、ただの潰れかけた雑居ビルだ。
入口のガラスは割れ、看板の文字は剥げ落ち、上階の窓は黒く死んでいる。
前回の場所ほどではないが、使われ方としては似ている。
用があれば入る。
用がなければ誰も気にしない。
そういう顔をしている。
けれど今日は、その“誰も気にしない”にしては、少しだけ視線が多い。
二階の割れ窓に、影が一度だけ揺れた気がした。
見間違いかもしれない。
だが、今のユウはそれを見間違いで終わらせない。
歩きながら、左足の感覚が一瞬だけ意識に上がる。
まだ動かさない。
ここで動かせば、少し早い。
違和感はある。
だが、まだ“受け渡しの場に入った”とは言えない。
今欲しいのは、もう一段だけ近づいた時に、その濁りが場のものか、周囲のものかを切り分けることだ。
タチバナが、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
それだけで十分だった。
こちらが何か拾っていることに、たぶんもう気づいている。
二人はそのまま建物の前を一度通り過ぎる。
正面に入らない。
立ち止まりもしない。
何でもない顔で、何でもない通行人の速度のまま、入口を横目に流す。
その一瞬で、ユウは見た。
入口脇の壁に、新しい擦れ。
足元のゴミの寄りが、周囲より少しだけ不自然に薄い。
誰かが立つ位置だけ、踏まれている。
そのすぐ内側、暗がりの奥に、何か箱型の輪郭が置かれている気配。
受け渡しがまったくの空振りではない顔だ。
同時に、建物の向こう側、裏へ回れる細い路地の入口にも人影が一つある。
何かをしているふうではない。
ただ壁へ肩を預けているだけ。
けれど、肩の向きだけが裏手の方を向いていた。
ユウの喉の奥で、小さく息が動く。
前より早い。
拾えている。
拾えているが、それで終わりではない。
建物を通り過ぎ、二十歩ほど先へ出たところで、タチバナがようやく言った。
「どう見える」
前を向いたままの問いだった。
ユウも前を向いたまま返す。
「前回より、場の外から見てる目が多い」
「多い、か」
「露骨じゃない。だから余計に嫌だ」
タチバナは短く「そうだな」とだけ返した。
その返しに、ユウは奥歯を一度だけ噛んだ。
自分の見立ては外れていない。
外れていないから、次の一歩が重くなる。
「入るぞ」
タチバナの声は低いまま変わらなかった。
ユウは頷く。
まだ左足は動かしていない。
だが、もうその感覚は身体の中へ上がってきている。
次に場へ近づいて、同じ濁りが一段でも濃くなれば、迷う理由はない。
二人はそこでゆっくり向きを変えた。
何でもない引き取り案件の顔をした場所の周りで、何人かの人間が何でもないふりをしている。
それがもう、十分に嫌だった。




