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銀月のロスト  作者: taka
第3章 仕事の形
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次の仕事

 銀月の中は、昨夜より静かだった。


 酒場のざわめきはある。


 だが、酔いより仕事の話が先に立つ時間だった。


 ユウは奥寄りの席で、手元のグラスを軽く回していた。


 中身は酒ではない。


 薄い炭酸だ。


 口を湿らせるには十分で、頭を鈍らせるには全然足りない。


 銀月では、今の自分に出されるものが何を意味するかくらい、もう分かる。


 扉の音はしなかった。


 気づけばタチバナが近くに来ている。


「待たせたか」


 ユウはグラスから手を離した。


「いや」


 タチバナは向かいへ座る。


 ジャケットの襟元を指先で少しだけ直し、それで準備を終えたみたいな顔をする。


 無駄に急いだ空気はない。


 だが、ただ話をしに来た顔でもなかった。


 ユウはそれを見て、自然と背筋を少しだけ正した。


 タチバナが言う。


「一件ある」


 前置きはそれだけだった。


 ユウは短く返す。


「引き取りか」


「似たようなもんだ」


 タチバナの目が一度だけ店の中を流れる。


 誰が聞いているかを気にしているというより、いつもの癖なのだろう。


 必要な確認を一瞬で済ませ、それから視線を戻す。


「前回と同じ手合いが増えてるなら、向こうから勝手に網に入る」


 ユウはそこで小さく息を吐いた。


 言い方は軽い。


 だが、やることははっきりしている。


「似た案件を流すってことか」


「本物の仕事だ」


 タチバナは即座に言う。


「わざわざ餌をぶら下げるほど暇じゃない。下層内の引き取り一件。何もなけりゃ、それで終わりだ」


「来たら」


「拾う」


 短い返答だった。


 その一言で、今回の仕事の形はほぼ見える。


 表向きは普通の引き取り。


 だが、前回と同じ流れが噛んでくるなら、その場で見る。


 噛まなければ、それはそれで情報になる。


 タチバナが続ける。


「お前が受け取り役だ。俺は少し離れて張る」


 ユウは頷いた。


 そこまでは予想していた。


 むしろ逆なら、その方がやりづらい。


「今回の目的は二つだ」


 タチバナの声は低く、平らだった。


「一つは、普通に引き渡せるかどうか。何も起きずに終わるなら、それでいい」


「もう一つは」


「お前が判断を間違えないかだ」


 その言葉は、卓の上へ静かに落ちた。


 ユウは黙る。


 前回、ユウは違和感を拾っていた。


 それでも、最後に一歩寄った。


 タチバナがユウを見る。


「前回、お前は見えてた」


 責める声ではない。


「だが、惜しんで寄った」


 ユウは短く答える。


「……ああ」


「今回はそこを見る」


 そこで言葉が切れる。


 切れた後の沈黙の方が、むしろ重い。


「荷を成立させるのが仕事だ。だが、成立しないと見た時に、惜しまず切れるかどうかの方が大事だ」


 ユウはグラスの縁から指を離した。


 冷たさが、少しだけ掌に残る。


「違和感があったら左足を動かせ」


 ユウが顔を上げる。


 タチバナは続ける。


「わざとらしく見るな。立ち位置を変えるだけでいい。それを見て、後は俺が判断する」


「左足だな」


「そうだ」


「俺が切るんじゃない」


「俺が切る」


 その役割の分け方は、はっきりしていた。


 ユウが先に異常を拾う。


 だが、そこで自分から確かめに寄らない。


 左足を動かして渡す。


 その先の、切るか、もう少し見るか、入るかはタチバナが決める。


 タチバナがさらに言う。


「お前は勝手に寄るな。荷に触る手前で違和感があるなら、なおさらだ」


「手を止めるのは」


「露骨だ」


「じゃあ左足だけで渡す」


「そうしろ」


 短いやり取りだった。


 けれど、ここで決めておくべきことはそれで十分だった。


 タチバナはそこで、ジャケットの内側から小さなメモを出した。


 場所と時間。


 それに、今回の受け渡しの最低限の情報だ。


 ユウはメモを受け取る。


 前回とは別の場所。


 だが、空気としては近い系統の区画だった。


 スラム外れ。


 表通りから少し外した、用がなければ長居しない場所。


「……近いな」


「近い方がいい」


 タチバナは言う。


「似た流れが増えてるなら、向こうも似た場を使う」


 ユウはメモを見ながら、頭の中で道筋をなぞる。


 歩き方。


 視界。


 上。


 横。


 逃げ筋。


 前回の受け渡しで見たものが、そのまま次の仕事の見方へ繋がっていく。


 タチバナがそこで少しだけ声を落とした。


「何もなけりゃ普通に渡して戻れ」


 ユウがメモから目を上げる。


「それで終わりか」


「終わりなら、その方がいい」


 タチバナは即答した。


「毎回噛まれてたら仕事にならん。来なけりゃ流れが変わったってことだ。それも拾う」


 そこで一拍。


「来たら拾う。来なけりゃ普通に終わらせる。どっちでも、お前が間違えなけりゃ十分だ」


 ユウは黙って、その言葉を受け取った。


 上手くやれ、とは言わない。


 相手を仕留めろ、とも言わない。


 ただ、間違えるな。


 それが今の自分に対する要求なのだと分かる。


「……分かった」


 ユウはそう返した。


 タチバナは目を細めもしない。


 ただ、その返事だけを聞いた。


「一つだけ」


 ユウが言う。


「来た時、俺が左足を動かした後も、向こうがすぐ噛んでこないなら?」


「その場で決める」


 タチバナの返答に迷いはない。


「お前は渡した後を考えすぎるな。拾ったら渡せ。そこから先は俺が見る」


 タチバナは席を立たないまま、最後に言った。


「前回の続きだと思え。だが、同じように寄るな」


 その言葉が、ユウの中に静かに落ちる。


 前回の失敗をなかったことにはしない。


 だが、そこへ縛りつけるわけでもない。


 次でどうするかだけを見る。


「場所、頭に入れた」


「時間は」


「夕方前」


「装備は」


「昨日と同じを基準にする。重くしすぎない」


「いい」


 それだけで会話が締まる。


 タチバナがようやくグラスへ手を伸ばす。


 酒を一口だけ飲み、置く。


 銀月の中では、また別の卓で低い笑いが起きていた。


 マスターがカウンターの奥でグラスを拭いている。


 店の中はいつも通り回っている。


 その中で、この卓の上だけが、次の仕事の形を静かに固めていた。


 ユウはメモを畳み、ジャケットの内へしまう。


 タチバナが立ち上がった。


「時間になったら出る」


「分かった」


「遅れるな」


「子供扱いするなよ」


 その返しに、タチバナは半歩だけ足を止めた。


「子供じゃないなら、今回で見せろ」


 振り返らずにそう言って、そのまま歩き去る。


 ユウは残った炭酸を一口で飲み切った。


 冷たさが喉を落ちる。


 空になったグラスを置き、ジャケットの内側にしまったメモを指先で一度だけ押さえた。


 夕方前。


 左足。


 今度は、寄らない。

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