別口
レンジを見つけたのは、銀月に戻ってから少し経った後だった。
店の奥にいるわけではない。
かといって、入口に近い卓でだらけてもいない。
店の空気がよく見えて、なおかつ自分は見られすぎない位置。
そういう席に、いつの間にかいる男だった。
グラスを片手に、椅子へ少し浅く腰掛けている。
年はタチバナより下だが、若造というほど軽くもない。
口元には愛想のいい笑みを浮かべていても、目の方はちゃんと起きている。
場を楽しんでいるように見せて、場の流れは見落とさない。
そういう男だ。
タチバナが近づくと、レンジはグラスを揺らしながら顔を上げた。
「うわ。嫌な顔してますね」
第一声がそれだった。
タチバナは椅子を引きながら返す。
「お前に愛想を振る理由があるか」
「ないですね。で、その顔は仕事ですか、説教ですか」
「両方に見えるなら、お前の行いが悪い」
レンジが肩を竦める。
「怖いなあ」
怖がっている顔ではない。
だが、それでいい。
軽口を叩いても、ちゃんと話が始まる男だ。
タチバナは向かいに座ると、ジャケットの内から畳んだ紙を取り出し、卓の上へ置いた。
似顔絵。
あの窓口の男の顔だ。
レンジはそれを見た途端、笑みを少しだけ薄くした。
「……ああ」
その反応だけで十分だった。
完全な名前までは出なくても、何かしらの心当たりはある。
「知ってるか」
タチバナが聞くと、レンジは紙を指先で軽く押さえながら言った。
「顔そのものを、っていうより、こういう立ち方をする連中に見覚えがあります」
「どういう立ち方だ」
「場に馴染んでないのに、場だけ使ってる顔ですよ」
レンジは紙から目を上げた。
「北門側、特に花街寄りの流れで最近ちょいちょいあるんです。窓口が妙に浮いてるやつ。言葉は合ってる、荷もある。でも見てると、『お前そこ慣れてないだろ』って感じの」
タチバナは黙って聞く。
レンジはグラスへ口をつける前に、少しだけ声を落とした。
「情報屋がどう言ったかは知りませんけど、花街側から見れば単純ですよ」
「何だ」
「あれは邪魔です」
短い言い方だった。
「邪魔?」
「客の秘密。女の動き。荷の時間。あっちは汚く見えても、流れだけは細かく締めてるんです」
レンジはそこで、少しだけ嫌そうに笑った。
「そこへ外から雑に手ぇ突っ込まれたら、迷惑に決まってるでしょう」
その言い方には、よく知っている人間の温度があった。
花街の北側。
中層接続寄り。
さっき別口から聞いた話とも、綺麗に繋がる。
「正規の筋じゃないな」
タチバナが言うと、レンジは頷いた。
「正規で花街に顔を出してる連中じゃないです。もっと外側。荷の流れにだけ噛んでくる。女を回す本職でもないし、店を持つ気もない」
「場を借りて、口だけ差し替えて、横から吸うタイプか」
「そうです」
レンジは軽く笑った。
「そういうの、花街側は嫌いますよ。儲けがどうこう以前に、後が汚くなるんで」
「下層の小物か」
レンジは首を横に振った。
「小物だけで回すには、少し綺麗すぎます。かといって企業や大きい組織ほど太くもない」
「上下どっちにも完全には属してない、中途半端な連中か」
「たぶん」
レンジはそこで、似顔絵を軽く叩いた。
「こいつは端でしょうね。窓口に立たされる顔です。切られても痛くないし、知ってることも少ない」
タチバナはグラスに手を付けなかった。
「花街側は動くか」
「自前で締めるか、外に流すかは五分ですね」
そこでレンジの目が少しだけ笑う。
「でも、違う筋から“ちょっとその辺見てくれないか”って話が出てもおかしくはないです」
「出るならどこからだ」
「表に立つ店からじゃないでしょうね。もっと裏です。店の用心棒筋か、北門側の荷を扱ってる連中か、あるいはそれに近い仲介」
「お前は繋げるか」
レンジはすぐには答えなかった。
グラスを傾け、酒を少しだけ飲む。
口を湿らせてから、ようやく言う。
「完全に確約はしません。でも、こっちから“花街側にとっても邪魔な流れだ”って話を振れば、食いつく口はあると思います」
「早いな」
「俺が詳しいのは、その辺だからですよ」
悪びれた様子もなく返す。
軽い。
だが、中身は軽くない。
タチバナはそこで初めてレンジを真っ直ぐ見た。
「遊びじゃないだろうな」
レンジが片眉を上げる。
「何がです?」
「その辺の顔だ」
「ああ」
レンジはそこで、少しだけ笑いを引いた。
「遊びで覚えた顔もあるでしょうけど、仕事で覚えた顔の方が多いですよ。じゃないと銀月でこんな話、振られませんって」
嘘ではないだろう。
少なくとも、今この場で使う顔ではない。
「それに」
レンジは似顔絵を軽く叩く。
「こういうの、俺も嫌いなんです。雑に場を荒らすやつって、後が汚くなるでしょ」
その言い方には、珍しくはっきりした棘があった。
花街周辺の流れを知っているからこそ出る、実務側の嫌さだ。
タチバナは短く言う。
「分かった」
レンジはそこで少し身を乗り出す。
「ただ、一つだけ」
「何だ」
「これ、ユウ君にはまだ振らない方がいいです」
タチバナの視線がわずかに止まる。
レンジは続けた。
「腕の話じゃないですよ。仮の子に、花街筋まで見せるのは早い」
その判断は、タチバナの考えとも一致していた。
ユウにはまだ見せていない。
見せる段階でもない。
ファミリーの内側と、外へ伸ばした複数の口を、今まとめて見せる必要はない。
「言われなくてもそうする」
「でしょうね」
レンジは少しだけ口元を緩めた。
「だから俺が動きます。花街寄りの口を一つ叩いてみる。向こうが乗るなら、その時点で話を持ってきます」
「顔は出すな」
「誰にです?」
「ユウにだ」
レンジはそこで、ようやく少しだけ本気で面白そうな顔をした。
「会わせないんですか」
「まだ仮だ」
「へえ」
その短い相槌の中に、納得と少しの茶化しが混じる。
「まあ、妥当ですね。いきなり家の奥まで見せる段階じゃない」
タチバナはそれに返さなかった。
レンジもそれ以上は踏み込まない。
こういうところの線引きは、こいつもちゃんと知っている。
しばらく二人とも黙る。
店の中では別の卓で低い笑いが起き、カウンターの向こうでマスターがグラスを拭いている。
銀月の夜は、変わらず静かに回っていた。
その静けさの中で、話だけが一段深い方へ進んでいく。
やがてレンジが言った。
「じゃあ、俺は俺の方から回します」
「雑にやるな」
「俺に言います?」
「お前だから言う」
レンジが肩を竦める。
「信用ないなあ」
「信用してるから言ってる」
その返しに、レンジは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
だが、すぐに薄く笑う。
「……そういうこと言うから、たまに面倒なんですよ」
「面倒なら切れ」
「切れないからここにいるんでしょう」
軽口のまま言う。
だが、それもまた本音の一部なのだろう。
タチバナはそこで立ち上がった。
「動きがあったら持ってこい」
「先に、ですね?」
「二度言わせるな」
レンジがグラスを持ったまま片手を上げる。
「はいはい。分かってますよ」
その返しに、タチバナはそれ以上何も足さずに背を向けた。
銀月の中を歩く。
入口へ向かう間、マスターが一度だけ目を上げた。
問いはない。
ただ、レンジの席の方へ流れた視線が、必要な話が済んだことだけを拾っていた。
扉を開ける。
外の空気は、店の中より少しだけ湿って重い。
夜へ沈み始めた下層の匂いが、鉄と油と薄い酒の臭いを混ぜて流れてくる。
タチバナは振り返らなかった。
銀月の灯りを背に、下層の夜へ歩き出した。




