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銀月のロスト  作者: taka
第2章 拾った違和感
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裏通りの口

 裏通りの酒場は、昼と夜の継ぎ目みたいな顔をしていた。


 戸は開いている。


 中から漏れるのは、薄めた酒と湿った木の匂い、それに低い話し声。


 タチバナは立ち止まらず、中へ入った。


 カウンターの内側には、スキンヘッドの大柄な男が立っている。


 余計な愛想はない。


 だが、この店の空気を回しているのはこの男だと、見れば分かる。


 男は一度だけ顔を上げ、すぐに戻した。


 見知った相手だと判断するまでの動きだった。


「何だ」


 タチバナは店の中を一瞥し、それから短く言う。


「パリーニをあの男に」


 男の手が、一瞬だけ止まった。


 それだけだった。


 顔色も変えない。


 聞き返しもしない。


 ただ、奥の方にいる中年の男へ視線だけを送る。


 それで、注文の意味は通った。


 その男は椅子へ浅く腰掛け、酒にも料理にもほとんど手を付けていない。


 ただ座っているだけなのに、周囲からほんの少しだけ切り離されて見えた。


「勝手に行け」


 スキンヘッドの男が言う。


 タチバナはそれ以上何も返さず、奥へ向かった。


 情報屋の男は、近づいてもこちらをすぐには見上げなかった。


 指先でグラスの縁を撫でるようにして、酒の揺れだけを見ている。


 見た目は四十代くらいか。


 痩せても太ってもいない。


 服も顔も、妙に薄い。


 一度目を離すと、どんな顔だったか少し曖昧になる。


 タチバナが向かいへ座ると、男はようやく口を開いた。


「珍しいな」


 声も薄い。


 だが、わざとらしく薄くしているわけではない。


 自然にこういう声なのだろう。


「顔を見せるだけの用じゃないだろ」


「そうだ」


 タチバナは短く返した。


 そのままジャケットの内側から畳んだ紙を取り出し、卓の上へ置く。


 似顔絵。


 昼の銀月でユウに描かせた、あの男の顔だった。


 情報屋の目が、そこで初めてわずかに動く。


 紙を見たまま、口の端だけで言う。


「……探すのか?」


 そこで一拍置く。


「お前が探してるって話まで売れるぜ?」


 その言い方に脅しの色はない。


 ただ、商売の話をしているだけだ。


 探す対象だけでなく、探している側の動きもまた値が付く。


 この街の情報屋としては、むしろ誠実な部類なのかもしれない。


 タチバナはその目を見返した。


「だからお前のとこに来た」


 情報屋の視線が、そこでようやく上がる。


 長くは見ない。


 だが、返しの意味を測るには十分だった。


「売るな、とは言わないんだな」


「売るなら売れ」


 タチバナの声は平らだ。


「ただし、先にこっちへ持ってこい。余計な流れは作るな。顔だけでいい。こっちの名は出すな」


 情報屋はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。


 面白がっているのか、呆れているのか、外からは読みにくい笑い方だ。


「相変わらず難儀な注文するな」


「難儀じゃない仕事を回すと思うか」


「思わない」


 即答だった。


 情報屋はようやく似顔絵へ手を伸ばした。


 指で紙の端を押さえ、顔を近づけすぎない距離で見る。


 細部を見るというより、まずは全体の印象を拾っているような見方だった。


 店のどこかで、グラスが鳴った。


 誰かの笑いが小さく起きて、すぐにまた沈む。


 裏通りの酒場は変わらず回っている。


 その中で、この卓だけが別の流れに乗っていた。


 情報屋が言う。


「上手くはないな」


「顔を回すには足りる」


「そうだな」


 否定はしない。


 しばらく黙って紙を見る。


 それから、指先で顎の線を軽く叩いた。


「見覚えがある、って言い方なら出来る」


 タチバナの目がわずかに細くなる。


「名前は」


「まだ切れない」


 情報屋は即答しない。


 だが、誤魔化しもしない。


「顔そのものより、立ち方に見覚えがある。正規の窓口じゃない。場に慣れてる人間でもない。けど、場だけは借りてる」


 タチバナは黙って聞く。


「どこの流れだ」


「そこを今ここで切ると、次に売るもんが減る」


 情報屋は薄く言う。


 商売だ。


 それ以上でも以下でもない。


 タチバナは舌打ちしない。


 こういう相手にそれをやっても値が下がるだけだと分かっている。


「最近、どの辺が濁ってる」


 問いを変えると、情報屋の目がわずかに笑った。


「そっちの方がまだ買いやすいな」


「答えろ」


「買うならな」


 卓の上で、短い間が落ちる。


 タチバナはポケットから薄い札を一枚出した。


 高い金ではない。


 だが、立ち話の続きを促すには十分な額だろう。


 情報屋はそれを見て、手を出さずに言った。


「北側だ」


 タチバナの指が止まる。


「それだけか」


「その値段ならな」


 情報屋は薄く笑った。


「続きは、少し嫌な名前に触れる」


 タチバナは黙って、もう一枚札を出した。


 情報屋はそれをすぐには取らない。


「買った以上、聞かなかったことにはできないぞ」


「だから買う」


 そこで初めて、情報屋が札を引き寄せた。


「中層花街へ上がるバイパス寄りの流れが、ここしばらく少し濁ってる。人そのものじゃなく、荷の方がな」


 花街の北側。


 上へ抜ける側。


 ロストパラダイスにも比較的近い線だ。


「どう濁ってる」


「場だけ貸して、中身をすり替える。窓口だけ差し替える。あるいは、誰が何を運んでるか横から噛む」


 情報屋はそこでようやく、最初に出した札も引き寄せた。


「そういう真似が増えた」


 タチバナはその言葉を頭の中で並べる。


 場を借りる。


 窓口を差し替える。


 横から噛む。


 どれも昨日の一件に十分重なる。


「下層の連中か」


 情報屋は肩を竦めた。


「下層だけであれをやるには、場の押さえ方が少し綺麗すぎる」


「企業か」


「そこまで太くもない」


 言い切らない。


 だが、切り捨てもしていない。


「上と下の間で流れに乗ってる連中だ。どっちの看板も完全には背負ってない。だから、場だけ借りるのが上手い」


 タチバナはそこでようやく、卓の上の水滴を一度だけ指で払った。


 情報屋が似顔絵を指で軽く叩く。


「こいつは、その流れの端だろうな」


「端か」


「窓口に立たされる顔だ。表に出すにはちょうどいい。切られても痛くないし、知ってることも少ない」


 その乾いた評価に、タチバナの目がわずかに沈む。


 窓口の男をどう見るかはともかく、仕事としては妥当な線だった。


「顔は回せるか」


「回せる」


「どのくらいで返る」


「急ぐなら急ぐで値が変わる」


 タチバナは無言で追加の札を出した。


 情報屋がそれを見て、今度は手を出す。


「今夜は無理だ。明日の夜には、少なくとも“どこで見たか”くらいまでは返せる」


「顔だけでいい。こっちの名は切るな」


「二回目だ」


「大事なことは二回言う」


 情報屋はそこで小さく笑った。


「そういうところは昔から変わらんな」


 その一言に、タチバナは目だけで相手を見る。


 長い付き合いだと知っている声だった。


 だが、それ以上は互いに触れない。


 必要以上に近い関係ではない。


 近すぎないからこそ、こうして顔を繋いでいられる。


 情報屋は似顔絵を畳み、自分の懐へ収めた。


「一つだけ忠告しておく」


 タチバナは何も言わない。


 黙ったまま続きを待つ。


「顔を回すってことは、向こうも“誰かが拾い始めた”って匂いを嗅ぐ可能性がある」


「分かってる」


「分かっててやるならいい」


 情報屋はそれで話を切るみたいにグラスへ手を伸ばした。


 酒は薄い。


 だが、こういう場では酔うためのものじゃないのだろう。


「返す時はいつもの流れで繋ぐ」


「分かった」


 タチバナは立ち上がった。


 椅子が小さく鳴る。


 情報屋はもうこちらを見ていない。


 必要な話が終わった後の顔だ。


 酒場を出る前、カウンターのスキンヘッドの男が低く言った。


「面倒そうだな」


 タチバナは足を止めずに返す。


「面倒じゃない流れがあるなら教えろ」


「それは情報屋の仕事だ」


「なら黙って酒出してろ」


 男は鼻で笑っただけだった。


 外へ出る。


 裏通りの空気は、さっきより少しだけ湿って重くなっていた。


 夜へ沈み始めているのだろう。


 看板のない酒場の戸の向こうでは、また別の声が重なっていく。


 タチバナはそのまま歩き出した。


 銀月へ戻るべきか、もう一つ別の顔を当たるか。


 歩きながら、頭の中で次の手を切る。


 中層花街へ上がるバイパス寄り。


 タチバナはその線を頭の中に置いた。


 次は、北側だ。


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