銀月の夜
ユウが銀月を出てしばらくしても、店の中の空気は大きく変わらなかった。
昼の名残を薄く残した時間帯だ。
酒場というより、仕事の話だけが静かに置かれていく空気に近い。
タチバナは奥寄りの席に座ったまま、扉の方を見ていた。
もうユウの姿はない。
通りへ出て、表のざわめきに紛れ、じきに寝床へ向かったはずだ。
そこまで見届けるつもりはなかった。
見届けたところで何かが変わるわけでもない。
それでも、扉が閉まった後のわずかな静けさだけは、耳に残った。
向かいに、マスターがグラスを一つ置く。
酒だった。
水ではない。
もう話の段が一つ変わったと分かった上での置き方だ。
タチバナはすぐには手を付けなかった。
マスターも勧めない。
ただカウンターへ戻らず、その卓の端に立つ。
それだけで十分だった。
この男は、必要な時だけ距離を詰める。
しばらく、店の音だけが流れた。
入口寄りの卓では常連たちが何やら低く笑っている。
カウンターには新しい客が一人つき、酒を頼む声がした。
銀月は相変わらず、余計なことを表へ出しすぎない店だ。
マスターが静かに言う。
「荒削りですが、筋は悪くありませんね」
タチバナはそこでようやくグラスに手を伸ばした。
氷が、かすかに鳴る。
酒を一口だけ含み、喉へ落とす。
味はいつも通りだ。
少し苦く、余計に甘くない。
「……見てたか」
「見える範囲で」
マスターの声は穏やかだった。
「戻る判断を知っています。あの年で、あの場から手ぶらで帰ることを選べるのは、悪くありません」
タチバナは答えなかった。
悪くない。
それは事実だろう。
実際、昨日の切り方も、今日の拾い方も、思っていたよりはましだった。
少なくとも、勢いだけで死にに行くような真似はしなかった。
だが、それで気分が軽くなるほど、この道は易しくない。
マスターが少しだけ目を細める。
「不機嫌ですね」
「元からこんな顔だ」
「今日は少し分かりやすいですよ」
その返しに、タチバナはグラスを置いた。
強くではない。
だが、氷がひとつ余計に鳴るくらいには、指先へ力が入っていた。
マスターはそれ以上茶化さない。
長い付き合いの中で、どこまで踏み込めるか、どこから先は押さない方がいいかを、この男はよく知っている。
それでも、必要だと思えば一言は置く。
「……心配ですか」
問いは軽くなかった。
タチバナはしばらく黙っていた。
店のざわめきが遠くなる。
遠くなったように感じるだけで、実際には何も変わっていない。
笑い声も、酒の匂いも、磨きすぎていない木の感触も、全部そこにある。
その中で、言葉だけが少し遅れて胸の奥へ沈んだ。
やがて、タチバナは低く言う。
「……こんな道に引きずり込むために助けた訳じゃない」
声は平らだった。
平らに押さえている分だけ、余計に苦い。
マスターは何も挟まない。
タチバナの視線は卓の上に落ちたままだった。
グラスの中の氷が、少しずつ痩せている。
「拾った時は、ただ生き延びりゃそれでいいと思ってた」
言葉が、ぽつりと落ちる。
「まともな寝床がなくても、飯が細くても、せめて死なずにいれば、それで十分だと思った」
そこで一度、言葉が切れた。
十分だったはずだ。
だが、死なずにいるだけでは、足りなくなる。
タチバナはグラスの中で痩せていく氷を見ていた。
それ以上を言葉にすると、余計なものまで形になりそうだった。
マスターが静かに言う。
「それでも、来ました」
タチバナは顔を上げない。
「自分の足で来た。自分の口で言った。準備もしてきた。……そういう若いのは、止めても別の場所で同じ道へ入ることが多い」
慰めではない。
ただの現実だ。
だからこそ、余計に腹が立つ。
タチバナは苦虫を噛み潰したような顔のまま、短く息を吐いた。
「分かってる」
それくらいは、最初から分かっている。
ユウは誰かに引きずられてここへ来たわけじゃない。
寝床が欲しいだけでもない。
背負うと言った。
その言葉が軽くないことも、少なくとも今日見た分では分かった。
だからこそ、なおさら質が悪い。
マスターがしばし間を置いてから、低く言った。
「……家に若いのがいると、見え方も変わりますか」
その言い回しが、妙にこの男らしかった。
まっすぐ訊きすぎず、だが逸らしすぎもしない。
タチバナの指が、グラスの縁で止まる。
娘の顔が一瞬だけ頭をよぎった。
帽子の下へ隠した髪。
まだこの街の全部を知らない目。
守ってきたからこそ残っている柔らかさ。
そこへ、ユウの顔が重なる。
下層の汚れ方を知っていて、それでもまだ削れ切っていない目。
タチバナは答えなかった。
答える代わりに、グラスの酒を一口だけ飲み、椅子から立つ。
その動きだけで、会話は終わりだと分かる。
マスターも止めない。
背を向けたまま、タチバナは言う。
「……長く生き残るには、余計なもんを背負わない方がいい」
マスターが穏やかに返す。
「もう背負っておられる顔ですが」
タチバナは振り返らなかった。
そのまま店の奥から離れ、カウンターの横を通る。
マスターは何も言わずにグラスを引いた。
止めも、慰めも、余計な言葉もない。
それで十分だった。
銀月を出る。
外の空気は、店の中より少しだけ冷たく感じた。
夜へ沈みきる前の街の匂いが、鉄と油と湿気を混ぜて流れてくる。
頭上は見えない。
見えなくても、企業の光がどこか上の方で回っていることだけは分かる。
建物の端や濡れた壁に、砕けた色が薄く滲んでいた。
タチバナはそのまま裏通りの方へ足を向ける。
ガレージストリートの表は、まだ暮らしの顔をしている。
だが、これから行くのはそちらじゃない。
酒場の奥。
注文に紛れて情報屋へ繋がる席。
窓口の男の顔を回し、昨日と今日の場がどこまで生きているのかを探るには、あそこが早い。
歩きながら、さっきのマスターの言葉がまだ耳の奥に残っていた。
家に若いのがいると、見え方も変わりますか。
くだらない問いだ。
だが、外れてはいなかった。
タチバナは無意識に舌打ちを飲み込み、代わりに一つ息を吐いた。
考えても仕方のないことはある。
だが、考えないままで済むことでもない。
そういうものほど、仕事の前に切り捨てきれない形で残る。
裏通りが近づくにつれ、酒と煙草と湿った木の匂いが濃くなる。
人の欲と裏仕事が、昼より少しだけ沈み始めた匂いだ。
タチバナは足を止めなかった。
感傷で終わる夜ではない。
考えるべきことは考えた。
なら、次は動く番だった。
酒場の看板もない戸口が見えてくる。
その奥に、今夜必要な口がある。
銀月の灯りを背にして、タチバナは裏通りへ入った。




