ガレージストリート
地下射撃場を出ると、ガンショップの奥に溜まっていた乾いた空気がふっと途切れた。
銃油の匂いが薄れ、代わりに油の焦げた飯と、安い煙草の煙が混じる。
裏通りから表へ近づくにつれて、街は少しずつ生活の顔へ戻っていった。
その表側へ出たところで、飯屋の前から怒鳴り声が飛ぶ。
「おい、こら!」
見ると、料理処「カツ」のカウンター脇から、小さな影が一つ弾かれたように飛び退いていた。
十にもなっていないくらいのガキだ。
細い腕に見合わない素早さで、包み紙に手を伸ばしたところを店主に先読みされたらしい。
店主はカウンター越しに身を乗り出し、ガキの耳を引っ張り上げる。
「またお前か!」
「痛い痛い痛い!」
「痛いで済むか! 今のは二つ持ってこうとしただろ!」
「一つしか触ってねえ!」
「二つ目を見る目してたんだよ!」
店の前にいた客が、慣れた顔で笑う。
見慣れた光景だからだろう。
ガキは耳を引っ張られながらも、完全に怯えた顔はしていない。
怒られること自体は織り込み済みなのだろう。
うまくいけば一食。
失敗したら耳が痛い。
その天秤の上で動いている顔だった。
ユウは足を止めた。
店主がガキの耳を放し、代わりに額を指で弾く。
「腹減ってんなら言え!」
「言ったらくれんのかよ!」
「見つかる盗みよりましだ!」
その返しに、周りからまた小さな笑いが起きた。
ガキは額を押さえながらユウの方を見て、一瞬だけ目を細めた。
見覚えのある顔かどうかを探る目だ。
ユウはそいつを見返し、短く言う。
「下手だな」
ガキがむっとする。
「うるせえ」
「二つ目に目がいってる時点で欲張りすぎだ」
「一個じゃ足りねえんだよ」
それは言い返しというより、ただの事実だった。
ユウは鼻で息を吐く。
「だからって見つかる方がもっと足りねえだろ」
ガキは口を尖らせたまま、結局それ以上は言い返さなかった。
店主がそこで、包み紙の端に乗った少し崩れた揚げ物を一つ、乱暴に突き出す。
「ほら、これだけ持ってけ。次やったら耳じゃ済まさん」
「……いいのかよ」
「さっさと行け」
ガキは一瞬だけ包みを見て、それからひったくるように受け取った。
礼は言わない。
言わないが、走り出す前にほんの少しだけ店主を見た。
その一瞬の目が、この辺りらしかった。
店主はすでに次の客の方を向いている。
「次! お前は何だ!」
何事もなかったみたいに店は回る。
盗み未遂も、怒鳴り声も、崩れた揚げ物一つも、この通りでは全部“いつものこと”の顔をして飲み込まれていく。
店主は次の客へ飯をよそいながら、低く言った。
「最近また増えてる」
ユウは、走っていくガキの背中を見る。
「減る理由もないだろ」
「違いねえ」
そこで会話は終わる。
深刻ぶるでもなく、投げやりでもなく、ただそういうもんだと受け止めている声だった。
ユウはまた歩き出した。
少し先では、修理処の前でまた別の声が上がっていた。
「だからそのネジ山じゃ噛まねえって言ってんだろうが!」
爺さんの怒鳴り声だ。
修理処の店主。
年齢不詳の、見た目にサイバネの影響が出始めて久しい老人。
向かいでは、金物屋の婆さんが負けじと声を張り返している。
「噛まねえのはお前の腕が落ちたんだよ!」
「抜かせ、クソ婆!」
「誰が婆だ、鉄屑ジジイ!」
二人の間には、問題のネジだかボルトだかが一本挟まっていた。
客らしい男がその横で困り顔をしているが、止める気は最初からないらしい。
どのみち止めたところで無駄だと知っている顔だ。
爺さんが部品を振りながら怒鳴る。
「こんな微妙に規格ズレたもん寄越して、直せるか!」
婆さんが即座に返す。
「直すのがお前の仕事だろうが!」
「直るもんと直らねえもんがある!」
「言い訳は聞かねえよ、鉄屑ジジイ!」
そのやり取りに、周囲の何人かが鼻で笑う。
誰も本気で揉め事だとは思っていない。
いつものことだ。
ユウも立ち止まり、少しだけその様子を見る。
修理処の爺さんは口が悪い。
金物屋の婆さんはもっと悪い。
だが、実際には客を回し合っていることくらい、この通りでは大体みんな知っている。
修理に必要な物は婆さんの店から流れ、婆さんの店でどうにもならない物は爺さんのところへ来る。
喧嘩しているようで、その実、片方だけでは回らない。
婆さんがユウに気づき、顎をしゃくった。
「おいユウ、お前も何か言ってやれ!」
ユウは少し考えるふりをしてから言う。
「爺さんの腕が落ちたんじゃないのか」
一拍遅れて、修理処の爺さんが怒鳴る。
「てめえまでそっちに付くな!」
婆さんが勝ち誇ったように笑う。
「ほら見ろ!」
「今のは適当に言っただけだろうが!」
「適当でも真実は真実だ!」
客の男がついに吹き出した。
その笑いに釣られて、周囲でもまた小さく空気が緩む。
爺さんは忌々しげに舌打ちしながらも、結局その部品を手元へ引き寄せた。
「……貸せ。見てやる」
婆さんが鼻で笑う。
「最初からそうしろ」
「黙れ」
結局、いつも通りに回る。
ユウはそれを見て、息だけで少し笑った。
そのまま料理処「カツ」の前へ戻る。
店主はもう次の客へ飯をよそっていた。
ユウに気づくと、手を止めずに言う。
「今日は盗みに来たんじゃねえだろうな」
「買いに来た」
「そりゃ結構」
店主は鼻を鳴らし、鍋の蓋をずらす。
湯気と一緒に、塩気と油の匂いが立ち上った。
「何にする」
ユウは店先の並びを一度だけ見た。
串焼き。
薄いスープ。
固めのパン。
揚げ物。
どれも高くはない。
安くもない。
下層でまともな飯を買う値段としては、こんなものだ。
「食えるやつを適当に二つ」
「雑な注文しやがって」
「外れを選ぶ手間省いてやってる」
店主が鼻で笑う。
「言うようになったな」
そう言いながらも、慣れた手つきで包みを作る。
中身は肉と豆の煮込みを挟んだパン、それと崩れにくい揚げ物だった。
歩きながらでも食えるし、寝床へ持ち帰ってもまだましな部類だ。
包みを受け取り、代金を払う。
ユウは包みを持ち、通りをまた歩き出した。
夕方へ寄り始めたガレージストリートは、昼の顔と夜の顔のちょうど間にある。
店を閉めるにはまだ早い。
だが、これから夜へ沈む準備は始まっている。
人の流れも、匂いも、視線の重さも少しずつ変わり始めていた。
通りの端で、さっきのガキがまだ揚げ物を食っていた。
半分残したまま、誰かに取られないよう背を丸めている。
その姿に、別の路地の影が一瞬だけ重なった。
ユウは何も言わなかった。
言えば、今度は違うものになる気がした。
目が合うと、ガキは露骨に顔を背ける。
ユウはそのまま通り過ぎた。
包みの熱が、掌に残っていた。
その熱を逃がさないように持ち直して、寝床への道へ足を向けた。




