旧家からの依頼
銀月の奥にある個室には、タチバナファミリー全員が揃っていた。
普段なら、全員で銀月へ呼ばれることは少ない。
依頼の確認だけならタチバナで足りる。
現場の話ならユウかレンジが加わる。
データ関係ならサエが呼ばれる。
だが今日は、全員だった。
それだけで、ユイは少し落ち着かない顔をしていた。
以前、ロストパラダイスからユウ個人に依頼が来た時、自分は呼ばれなかった。
今回は、自分もこの場にいる。
けれど、それが自分の実力を見込まれたからではないことも、何となく分かっている。
ラヘルは、いつもより静かだった。
上層案件だと聞かされた時から、表情が少し硬い。
けれど、まだ何をどう受け止めればいいのか決めかねているようにも見えた。
銀月のマスターは、テーブルの上に端末を置いた。
店の表からは、グラスの音が遠く聞こえている。
低い話し声。
氷が触れ合う音。
だが、この個室の中には、それが薄い膜越しに届く程度だった。
マスターは全員を一度見てから、静かに言った。
「今回の依頼は、旧ライナルト家に関わるものです」
ラヘルの肩が、わずかに揺れた。
ユウはその反応を見たが、何も言わなかった。
マスターは端末を操作する。
依頼文が表示された。
差出人の欄に、名前がある。
クラウス・ベルナー。
その文字を見た瞬間、ラヘルの指が止まった。
「……ベルナー」
声は、小さかった。
けれど、その場の全員に聞こえた。
タチバナが目を細める。
「知っているのか」
ラヘルは端末の署名を見つめたまま、小さく頷く。
「ライナルト家の、家宰でした」
「元、か」
「はい」
ラヘルは少しだけ唇を引き結ぶ。
「クラウス・ベルナー。父の代から、家の管理を任されていた人です」
ユイがラヘルを見る。
「家宰……」
聞き慣れない言葉だったのだろう。
サエが小さく補足する。
「家の実務をまとめる人間よ。使用人や出入り業者、記録や財産管理まで見る立場」
「かなり近い人、ということですか」
ユイが聞く。
ラヘルは答えるまでに少し間を置いた。
「……近かった、と思います」
その言い方に、部屋の空気が少しだけ沈む。
近かった。
過去形だった。
マスターは依頼文を開いた。
そこには、丁寧すぎるほど整った文章が並んでいる。
旧ライナルト家に仕えた者として、焼失した本館跡に残された記録類を、このまま管理局処分に委ねることは忍びない。
現当主筋に連なるラヘル・フォン・ライナルトの認証があれば、地下保管区画の一部へ到達できる可能性がある。
回収対象は、家系記録、契約記録、継承認証補助データ、および旧家管理用記録媒体。
回収後は、ラヘル本人、または信頼できる仲介者に預けたい。
マスターは、読み上げるように要点だけを口にした。
「ライナルト家旧邸跡地に、焼失を免れた保管データが残っている可能性がある。回収には、ラヘルさん本人の認証が必要。旧家区画への業者用一時入場パスは、依頼主側が用意している」
ラヘルは黙っている。
旧邸跡地。
その言葉は、ただの場所を示しているだけではなかった。
彼女にとっては、家だった場所だ。
最後に両親を見た場所でもある。
タチバナが低く言った。
「今さら忠義か」
マスターは否定しなかった。
「善意としては扱いません。依頼として扱います」
「罠の可能性は」
「高い、と見るべきでしょう」
マスターは淡々と答える。
「ただし、回収対象が本当に存在するなら、価値はあります」
サエが端末を覗き込む。
「家系記録、契約ログ、継承認証補助データ……この辺りが本物なら、ただの思い出じゃ済まないわね」
「証拠ですか」
レンジが言った。
「証拠にもなるし、交渉材料にもなる」
サエは指先で画面を拡大する。
「ラヘルの身分回復に直結するかは別。でも、誰かがラヘルを消そうとした時に、相手のリスクを上げる材料にはなる」
ラヘルの視線が、サエへ向く。
サエは少しだけ肩をすくめた。
「上層へ帰れるって話じゃないわよ」
「……分かっています」
「でも、殺されにくくなる可能性はある」
ラヘルは、そこで小さく息を吸った。
それは希望というより、重い選択肢を目の前に置かれた時の呼吸だった。
ユウは依頼文を見ていた。
だが、上層旧家区画という言葉に強く反応している様子はない。
タチバナがそれに気づく。
「ユウ」
「ああ」
「分かってるか」
「上層のことは分からない」
ユウは正直に言った。
「だから聞く」
タチバナの口元が、少しだけ動いた。
「それでいい。分からない場所で、分かった顔をするな」
ユウは端末から目を離す。
「武装は」
最初に聞いたのは、それだった。
ラヘルが一瞬、ユウを見る。
ユイも同じように見る。
けれど、タチバナは頷いた。
「長物は無理だ」
マスターが補足する。
「業者用一時入場パスでの入場です。護衛名目であっても、持ち込み可能な武装は拳銃まで。銃器種別、識別情報、弾薬数、予備弾倉数、所持者、使用条件まで登録されます」
ユウは短く聞く。
「SMGは」
「不可です」
「ARは」
「当然不可です」
ユウは少しだけ黙った。
不満ではない。
計算している顔だった。
「撃ったら」
マスターは静かに答えた。
「記録に残ります。どこで、誰が、何発撃ったか。少なくとも検問所と上層側の監視網には残ると考えてください」
「じゃあ、撃つ時点で騒ぎになる」
「場所によります。ただし、下層のように音で済むとは思わない方がいいでしょう」
タチバナが言う。
「上層じゃ、撃った後に逃げれば終わりじゃない。撃つ前から見られている」
ユウは頷く。
「車はどこまで入れる」
「車両の扱いは確認しておきたいですけどね」
レンジが少し身を乗り出した。
「どこまで車を残せるかで、退路が変わりますし」
マスターは別の情報を開く。
「上層バイパス検問所で車両検査。通過後、指定区画の業務用停車スペースへ誘導される予定です。そこから先は徒歩、または許可された区画内移動のみ」
「車を勝手に回せない、ということですね」
レンジが言う。
「難しいでしょう」
「退路が固定されますね」
「はい」
レンジは軽く息を吐いた。
「やりにくいですね」
「上層は、やりやすくするための場所ではありません」
マスターの声は穏やかだった。
「許可された通りに動く場所です」
サエが続ける。
「データ回収なら、私が行く必要があるわね」
タチバナが頷く。
「サエは必須だ。データを見ずに持ち出すのは危ない」
「レンジも必要だな」
タチバナが視線を向ける。
レンジは頷いた。
「長物は持てなくても、車両と周辺警戒は必要でしょうね。上層の道なんて、こちらは慣れていませんし」
「俺は責任者」
タチバナは淡々と言う。
「ユウは護衛。ラヘルは認証対象。サエはデータ担当。レンジは車両と外部警戒」
ユイは自分の膝の上で指を握る。
まだ名前が出ていなかった。
タチバナは、最後にユイを見た。
「ユイ」
「はい」
「今回は連れて行く」
ユイの表情が少しだけ動く。
だが、タチバナはそのまま続けた。
「だが、戦力としてじゃない」
ユイは一拍だけ黙る。
それから、頷いた。
「分かっています」
「サエの側を離れるな。勝手に前へ出るな。ラヘルが動揺しても、引っ張られるな」
「はい」
「一人でアジトに置く方が危ない。だから連れて行く。それも分かっておけ」
その言葉は、優しくはなかった。
けれど、必要な線だった。
以前、ユイはユウだけが呼ばれるのを見た。
自分は残された。
その時の感覚は、まだユイの中に残っている。
今回は、自分も同行する。
けれど、それは自分の名前に依頼が来たからではない。
タチバナファミリー全体として動くから。
一人で置く方が危ないから。
サエの補助として使えるから。
その現実を、ユイは飲み込んだ。
「はい」
声は小さい。
でも、逃げてはいなかった。
ラヘルがユイを見る。
ユイは少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「私も、できることをします」
「……はい」
ラヘルは頷く。
その返事もまた、少し硬かった。
マスターは、今度は検問所の資料を表示した。
白い施設の立体図。
バイパス接続部。
車両停車区画。
人間用検査棟。
リモート応対スペース。
上層側ゲート。
白く、清潔で、余計なものがない。
その中で、黒い印がいくつか配置されている。
固定火器。
車両ロック。
自立機動兵器。
ユウの目が、そこで止まった。
「これは」
マスターが答える。
「Bulldog系列です。検問所制圧、侵入阻止用の警備仕様。軍用深部仕様ではありませんが、十分に危険です」
レンジが画面を見る。
「検問所に犬ですか」
「犬というより、門番ですね」
サエが言う。
「しかも機嫌を取れない門番」
ユイが小さく聞く。
「人間の警備員はいないんですか」
「現地にはいないようです」
マスターは答える。
「リモート担当者が応対します。検査と判断は、カメラ、センサー、透過検査、認証システムが行います」
ユイは少し困った顔をした。
「綺麗なのに、怖いんですね」
「上層らしいわ」
サエが言う。
タチバナは短く補足した。
「下層なら、人間が怒鳴ってから撃つことが多い」
その言葉に、ユイの肩が少しだけ強張る。
「上層は違うんですか」
「警告が出る」
タチバナは画面を見る。
「次に処理される」
ユイは黙った。
レンジが低く言った。
「静かに処理される分、下層より分かりにくいですけどね」
「言い方」
サエが即座に刺す。
レンジは肩をすくめた。
「冗談じゃなくて、事実ですよ」
少しだけ空気が緩む。
だが、軽くはならなかった。
マスターはゆっくりと言った。
「上層では、許可されたこと以外はしないでください。許可区画外へ移動すれば警告が出ます。警告を無視すれば、不審者として処理対象になります」
「処理、ですか」
ラヘルが小さく言う。
その言葉は、彼女にも冷たく響いたようだった。
かつて属していた場所。
だが今は、自分も許可される側ではなく、審査される側に立つ。
マスターは、ラヘルを見た。
「今回の入場は、住民認証ではありません。業者用一時入場パスです」
分かっていたことだった。
それでも、言葉にされると違う。
ラヘルは静かに頷く。
「分かっています」
声は揺れなかった。
だが、揺れないようにしていることは分かった。
タチバナが話を戻す。
「依頼主側がパスを用意している時点で、こちらの動きはある程度読まれてる」
「はい」
マスターは頷く。
「先方の提示では、入場目的は旧邸跡地保全確認および記録媒体回収補助。同行者は外部業者として登録予定です」
「上層側の誰が許可を出している」
「依頼文からは明示されていません。ベルナー氏が直接発行できる立場ではないはずです」
レンジが低く言う。
「つまり、後ろに誰かいますね」
「そう考えるべきでしょう」
タチバナは端末を見下ろす。
「罠だな」
ユイが息を呑む。
マスターは静かに言った。
「罠でない可能性もあります」
「罠だと思って動く」
タチバナは即答した。
「罠じゃなかったら得をするだけだ」
ユウは頷いた。
その考え方は分かる。
分からない場所。
分からないルール。
分からない相手。
なら、分かるところから固める。
「ラヘルは誰が見る」
ユウが聞いた。
ラヘルが少しだけ顔を上げる。
「私は――」
タチバナが遮る。
「基本は俺とユウの間だ。サエがデータ作業に入る時は、レンジが周辺を見る。ユイはサエの側」
「ラヘルが認証する時は」
ユウが続ける。
「お前が近くにいろ」
タチバナは言った。
「ただし、認証機材や端末には勝手に触るな。撃つよりまず、止める場所を見る」
「分かった」
ユウは短く答える。
上層がどういう場所かは、分からない。
だが、自分がどこに立つかは分かる。
誰の近くにいるか。
何を見ればいいか。
何を持てないか。
どこで撃てないか。
ユウは、それを一つずつ確認していた。
タチバナはそれを見て、少しだけ目を細める。
「上層で分からないものを、今全部分かろうとするな」
ユウはタチバナを見る。
「見て覚える」
「覚える前に死ぬな」
「ああ」
レンジが静かに言った。
「見て覚える前に処理される場所みたいですしね」
「だから言い方」
サエがまた刺す。
レンジは少しだけ目を細める。
「そこが厄介なんですよ」
今度は、誰も笑わなかった。
ラヘルはまだ端末の署名を見ていた。
クラウス・ベルナー。
その名前は、彼女の中でまだ生きている過去を引きずり出していた。
マスターが依頼文を閉じる。
「受けるかどうかは、こちらで決められます」
タチバナはラヘルを見た。
「ラヘル」
「はい」
「行きたいか、では聞かん」
ラヘルの表情が少し変わる。
タチバナは続けた。
「必要かどうかで考えろ」
ラヘルは一度、目を伏せた。
旧邸跡地。
地下保管区画。
家系記録。
継承認証データ。
契約ログ。
ベルナー。
そこには、自分の過去がある。
同時に、今も続いている殺意の理由があるかもしれない。
行きたいか。
そんな問いなら、答えられない。
怖い。
戻りたくない。
見たくない。
それでも、放っておけない。
ラヘルは顔を上げた。
「必要だと思います」
声は静かだった。
「私が、これ以上一方的に消されないために」
誰もすぐには言わなかった。
その言葉が、個室の中に落ちる。
タチバナは短く頷いた。
「なら受ける」
マスターは確認するように見る。
「よろしいですか」
「条件を詰める。罠前提で動く。上層の規則には従うが、相手の善意は信じない」
「承知しました」
マスターは端末に記録する。
「銀月から受諾の返答を出します。パス情報と検問所通過予定時刻、持ち込み許可物、退出期限は改めて共有します」
サエがすぐに言う。
「回収媒体の仕様も可能な範囲で確認して。古い記録媒体なら、こっちで読み取り機材を用意する必要がある」
「伝えておきます」
レンジも続ける。
「車両の停車区画と待機可能時間もお願いします。あと、検問所から旧家区画までの経路ですね」
「確認します」
ユウは最後に言った。
「拳銃は何発」
マスターは少しだけ目を細めた。
「許可される弾数は、まだ確定していません」
「分かった」
「確定し次第、共有します」
ユウは頷いた。
ユイはそのやり取りを聞きながら、自分の手元を見た。
自分にできること。
できないこと。
それを間違えないようにしなければならない。
ラヘルは、ベルナーの名前が消えた端末画面を見つめている。
帰るのではない。
招かれるのでもない。
業者用一時入場パスで、かつての家へ向かう。
その事実を、彼女は静かに飲み込んでいた。
マスターは最後に全員を見た。
「上層では、許可されたこと以外はしないでください」
その声は、いつも通り落ち着いている。
「下層のように、相手の顔色を読んで済む場所ではありません。警告の次は、説得ではない」
個室の中が、また静かになる。
タチバナは立ち上がった。
「準備するぞ」
全員が、それぞれに頷いた。




