白い関門
翌日。
アジトの前に停まっていた車は、いつものそれとは少し違って見えた。
車体は薄いグレーに塗られている。
側面には、白い文字で業者名が入っていた。
アーバン・アーカイブ保全サービス。
旧邸保全補助/記録媒体回収班。
その下には、管理番号と一時入場用の識別タグ。
ぱっと見ただけなら、上層の保全業者が使う作業車に見える。
もちろん、中身まで完全な業者車両ではない。
荷室には、記録媒体回収用のケース。
封印袋。
工具箱。
簡易清掃用具。
測定器に偽装したサエの端末類。
レンジが使う確認機材。
余計なものは積んでいない。
積めない。
上層バイパス検問所で、全部見られるからだ。
タチバナは車の横で、全員の格好を一度見た。
全員、薄いグレーの作業用ツナギを着ている。
胸元には、アーバン・アーカイブ保全サービスの小さなロゴ。
腕には、仮登録用の管理番号。
汚れればすぐ分かる、妙に清潔な作業服だった。
タチバナは、それを着てもあまり違和感がない。
現場責任者。
保全班の管理役。
そう言われれば、そう見える。
サエも自然だった。
端末ケースを肩に掛け、髪を邪魔にならないようにまとめている。
作業員というより、記録媒体の確認担当としてそのまま通りそうだった。
レンジは車両側に立ち、外装と荷室の固定を最後に確認している。
ツナギを着ても、視線は車両と周辺に向いていた。
「偽装としては悪くないですね」
レンジが車体のロゴを見て言った。
「ただ、綺麗すぎて落ち着かないですけど」
「上層向けだ」
タチバナが言う。
「汚れてる方が目立つ」
「でしょうね」
レンジは薄く息を吐いた。
「嫌な合理性です」
ユイは、袖口を軽く引っ張っていた。
サイズは合っている。
だが、着慣れていない服のせいか、少し落ち着かなそうだった。
それでも、見た目だけなら補助員として一番自然に見える。
端末を運ぶ。
封印袋を渡す。
サエの補助をする。
そういう役目に見えるからだ。
ラヘルも同じツナギを着ていた。
けれど、彼女は少し違った。
服は作業員のものなのに、立ち方が上層の人間だった。
背筋。
手の置き方。
視線の下ろし方。
自分でも気づかない部分に、これまでの育ちが残っている。
ユウは、それを少しだけ見た。
何も言わない。
自分もまた、違う意味で浮いていることは分かっていた。
作業服を着ている。
工具ケースも持っている。
だが、目が作業員のそれではない。
人の位置。
道の奥。
車の影。
建物の切れ目。
逃げる場所。
撃たれる場所。
そういうものを、先に見てしまう。
腰には、登録予定の拳銃がある。
それだけだった。
ARもない。
SMGもない。
いつもより、身体の片側が軽い。
軽いのに、動きやすいとは思えなかった。
タチバナがユウの視線に気づく。
「足りないか」
「軽い」
「慣れろ。上層で長物は持てない」
「ああ」
「拳銃も、撃てば全部残る。撃つ前に考えろ」
「分かってる」
タチバナは全員を見回した。
「検問所での返答は基本的に俺がする。聞かれた時だけ答えろ」
誰も余計な返事はしない。
タチバナは続けた。
「警告が出たら止まれ。何かを見つけても近づくな。気になっても触るな。機械を覗き込むな」
ユイが少しだけ顔を上げる。
「覗き込むだけでも駄目なんですか」
「駄目な場合がある」
タチバナは短く答えた。
「ここから先は、気になったから見る、では済まない。検査範囲、待機位置、通行線。全部向こうが決める」
サエがユイを見る。
「私の側を離れない。いい?」
「はい」
ラヘルは静かに頷いた。
ユウはタチバナへ聞く。
「見つけても動かない」
「そうだ」
「撃たれそうでもか」
「撃たれる前に警告が出る。警告なしで撃たれる時は、たぶんもう間違えている」
レンジが車両の扉を開ける。
「分かりやすいんだか、分かりにくいんだか」
「上層はそういう場所だ」
タチバナは運転席へ向かった。
「乗れ」
車内は、作業車両らしく整えられていた。
前席にタチバナとレンジ。
中央にサエとユイ。
後部寄りにユウとラヘル。
荷室との間には、簡易の仕切りがある。
だが、完全には塞がれていない。
ユウは後部座席に座り、腰の拳銃の位置を確認した。
軽い。
やはり、軽い。
ラヘルは隣で、窓の外を見ていた。
表情は硬い。
まだ上層ではない。
それでも、向かっている先がどこなのかは分かっている。
車が動き出した。
下層の道は、いつも通りだった。
狭い道路。
せり出した看板。
濡れた路面。
油と煙草と食べ物と金属の匂い。
路地の奥から聞こえる声。
排気音。
怒鳴り声。
遠くの銃声か、何かが倒れた音。
ユウはそれらを無意識に拾っていた。
分かる音だった。
分かる匂いだった。
分かる怖さだった。
車はやがて、中層側へ繋がるバイパスへ入った。
道幅が少し広くなる。
照明が規則的になる。
道路脇の構造物が、汚れた下層のものから、管理された中層寄りのものへ変わっていく。
ユイが窓の外を見る。
「少し、静かになりましたね」
「まだ途中だ」
タチバナが前を見たまま言う。
「上層側に近づくほど、音は減る」
「安全だからですか」
「管理されているからだ」
その答えに、ユイは少し黙った。
サエが端末でパス情報を確認している。
「全員分の仮登録は通ってるわ。業務名目は、旧邸跡地保全確認および記録媒体回収補助」
レンジが前方を見ながら言う。
「ずいぶん丁寧な言い方ですね」
「丁寧な言葉ほど、範囲が狭いのよ」
サエは画面を見たまま答える。
「許可されてるのは、その名目に必要な行動だけ。余計なことをしたら説明を求められる」
「説明で済めばいいですけどね」
レンジはそう言って、速度を落とすタチバナの横から前を見た。
バイパスの先に、白いものが見え始めていた。
最初は壁に見えた。
次に、建物だと分かった。
白い関門。
上層バイパス検問所。
ユウは窓越しにそれを見た。
白い。
あまりにも白い。
壁も、床も、天井も、誘導灯の周りまでも、汚れが見えない。
光は強すぎないのに、影が少ない。
車両が近づくと、路面の表示が淡く光った。
誘導線。
矢印。
停車位置を示す枠。
人間はいない。
警備員もいない。
誘導員もいない。
腕を組んで睨む用心棒もいない。
ただ、壁面モニターに文字が出た。
《アーバン・アーカイブ保全サービス。旧邸保全補助/記録媒体回収班。指定位置へ進んでください》
車内に、丁寧な音声が流れる。
「指定位置へ停車してください。停車後、エンジンを停止してください。搭乗者は指示があるまで降車しないでください」
声は穏やかだった。
だが、選択肢はなかった。
ユウは、白い壁を見る。
壁の中に、黒い穴があった。
銃口だ。
一つではない。
下層側入口。
車両停車区画の左右。
上層側ゲートへ続く直線の奥。
白い清潔な構造物の中で、そこだけが黒い。
タチバナは車を指定枠へ入れる。
枠の内側で車体が止まると、床下から低い音がした。
タイヤロック。
車体がわずかに沈む。
レンジが小さく息を吐いた。
「固定されましたね」
「動かすなということだ」
タチバナはエンジンを切る。
次の音声が流れた。
「車両固定を確認しました。車両検査を開始します。搭乗者は車内で待機してください」
車両の下から、低く機械音が走る。
スキャナだろう。
側面にも光が流れる。
荷室。
床下。
タイヤ周り。
車体の継ぎ目。
全部見られている。
ユイが膝の上で手を握った。
「誰もいないのに、見られている感じがします」
「見られている」
サエが言う。
「だから、感じじゃないわ」
ラヘルは窓の外を見ていた。
白い検問所。
彼女はおそらく、この種の施設を知っている。
だが、今ここでの立場は違う。
住民として通るのではない。
業者用一時入場者として、車ごと検査されている。
その横顔は、ほとんど動かなかった。
けれど、指先だけがわずかにツナギの生地を押さえていた。
ユウは車両停車区画の奥を見る。
白い柱の陰。
最初は設備の一部に見えた。
空調装置。
清掃機械。
壁面補強。
だが違う。
折り畳まれた脚。
丸められた胴体。
伏せた獣のような形。
Bulldog系列。
白か淡いグレーの外装で、壁に溶け込むように置かれている。
だが、あれは動く。
ユウの視線が、そこに少しだけ止まった。
その瞬間、車内のスピーカーから音声が流れる。
「護衛登録者ユウ。視線挙動を確認しました。検査対象設備への接近、接触、撮影は禁止されています」
ユイがびくりと肩を揺らした。
ユウは動かなかった。
見ただけだ。
だが、見たことは拾われている。
タチバナが前を向いたまま言う。
「動くな」
「ああ」
「ここでは、見つけたものに近づくな」
「分かってる」
ユウはゆっくりと視線を戻した。
Bulldogは動かない。
だが、見られている。
人間がいない。
なのに、反応は返ってくる。
ユウはそれを気持ち悪いと思った。
敵意があるわけではない。
怒鳴られてもいない。
誰も睨んでいない。
だが、撃つ準備だけは済んでいる。
下層なら、危険はもっと汚く、もっと近く、もっと分かりやすい形で来る。
ここでは違う。
白い壁の中で、丁寧な声が先に警告する。
その次は、たぶん処理だ。
車両検査の音が止まった。
数秒の沈黙。
次に、モニターへ文字が出る。
《車両検査完了。搭乗者は降車し、人間用検査棟へ移動してください》
音声が続く。
「携行品を持ち、青色の誘導線に従って移動してください。指定線外への移動はお控えください」
タチバナが先にドアを開けた。
外の空気は、下層のものと違った。
匂いが薄い。
清掃剤のような匂い。
乾いた空調。
金属と樹脂。
それだけだ。
血も、油も、煙草も、腐った水もない。
ユウは降りた。
ブーツの底が、白い床を踏む。
汚してはいけない場所に立っているような感覚があった。
だが、その白さは歓迎ではない。
汚れがあればすぐ分かるように作られた白さだった。
サエが端末ケースを持って降りる。
ユイはその隣に続く。
レンジは車両の固定状態を一瞬確認しかけて、すぐに視線を戻した。
見つけても近づかない。
それを全員が意識している。
ラヘルは最後に降りた。
白い床に立った瞬間、ほんの少しだけ目を伏せた。
その動きに、ユウは気づいた。
しかし、声はかけなかった。
モニターに全員の仮登録名が並ぶ。
責任者。
記録媒体回収担当。
車両・保全補助。
護衛登録者。
補助員。
現地確認補助。
ラヘルの本名は、そこには出ていない。
仮登録名と役割だけ。
それがかえって、彼女がここへ戻る意味を削っているように見えた。
「青線」
タチバナが短く言う。
床に走る青い誘導線。
それは人間用検査棟へ続いている。
通路の左右には、白い壁。
天井にはカメラ。
足元には細いセンサー溝。
壁際には、また別のBulldogが伏せている。
ユイが小さく息を呑んだ。
「本当に、人がいないんですね」
「いる」
タチバナは歩きながら言った。
「ただ、ここにはいない」
ユイは返事をしなかった。
その意味を、少しずつ理解している顔だった。
人間がいないから安全なのではない。
人間が出てこなくても済むように、全てが用意されている。
白い通路を進む。
足音が、やけに綺麗に響いた。
下層の床なら、音はもっと汚く混ざる。
水音。
機械音。
人の声。
何かを引きずる音。
だがここでは、足音だけが残る。
ユウはそれが落ち着かなかった。
情報が少なすぎる。
匂いも少ない。
声も少ない。
汚れも少ない。
少ないのに、見られている。
検査棟の入口が近づく。
細い白い筒状のゲートが並んでいた。
透過検査装置。
その手前で、また音声が流れた。
「一名ずつお進みください。携行品は指定台へ置いてください。検査中は、停止位置から動かないでください」
タチバナが止まる。
振り返らずに言った。
「ここから先は、指示通りだ」
全員が頷く。
ユウは検査ゲートを見た。
白い筒。
その周りには、目立つ銃口はない。
だが、ないわけがない。
見えないだけだ。
上層の怖さは、そこにあった。
怒鳴る者はいない。
睨む者もいない。
ただ、白い関門が開いている。
通れ、と丁寧に言っている。
従えば通す。
外れれば処理する。
ユウは、腰の拳銃の位置を一度だけ意識した。
触らない。
見るだけにする。
タチバナが一歩前へ出る。
検査棟の白い光が、ツナギの袖を照らした。




