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銀月のロスト  作者: taka
第17章 個人指名

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行かなかった場所

 アジトの扉が開いた。


 最初に反応したのは、ユイだった。


 名前を呼ぶより先に立ち上がっていた。


 椅子の脚が、床を小さく鳴らす。


「ユウ!」


 リビングにいたラヘルも、顔を上げる。


 サエは端末から目を離し、扉の方を見た。


 ユウが入ってくる。


 肩にAR。


 身体には、外縁から戻った者特有の湿った臭いがまとわりついていた。


 排水路。


 硝煙。


 獣臭。


 それから、血。


 ユウが扉を閉める前に、ユイはもう近くまで来ていた。


 抱きつくわけではない。


 けれど、距離は近い。


「怪我は」


「ない」


「本当に?」


「ない」


 ユイはユウの顔を見る。


 肩を見る。


 腕を見る。


 足元を見る。


 保護材はもうない。


 大きな出血もない。


 服が裂けている様子もない。


 それでも、すぐには安心しきれない顔をしていた。


「……血の匂いがします」


 ユウは短く答えた。


「俺のじゃない」


 その一言で、リビングの空気が少しだけ冷えた。


 ラヘルは息を止める。


 サエの目も、わずかに細くなった。


 ユイは、ユウを見たまま動かない。


「誰か、怪我を」


「一人」


 ユウはARを下ろしながら言った。


「腕をやられた」


「腕……」


「コボルトの爪だ。薄い鉄くらいなら裂く」


 ユイの指が、胸元で小さく握られる。


 ラヘルは自分の手を見た。


 指。


 手首。


 前腕。


 そこが裂かれるところを想像してしまい、すぐに視線を外す。


 ユウは淡々と続けた。


「安いガードごと裂かれた。戻るかは分からない」


「戻る、というのは」


 ラヘルが小さく聞いた。


「仕事に使える腕として」


 ユウはそう答えた。


 命はある。


 けれど、戻れるかは別。


 その言葉にならない部分が、リビングに残った。


 ユイが唇を噛む。


「私がいたら……」


 言いかけて、止まる。


 けれど、止まりきる前に、サエが静かに言った。


「ユイ」


 ユイは顔を上げる。


 サエは責めるような顔をしていなかった。


 ただ、誤魔化さない顔だった。


「今のあんたが行っても、増える怪我人が一人だったかもしれない」


 ユイの表情が、少しだけ揺れる。


 厳しい言葉だった。


 でも、嘘ではない。


 サエは続ける。


「応急処置ができることと、あの場所に立てることは別よ」


 ユイは何も言えなかった。


 ラヘルも同じだった。


 三日前、自分たちは置いていかれた。


 その時は、ただ遠くに置かれたように感じた。


 けれど今、ユウの服についた臭いと、腕をやられた新人の話を聞いて、少しだけ分かる。


 あそこは、自分たちが悔しさだけで立てる場所ではなかった。


 ユウは靴を脱ごうとして、リビングへ上がりかける。


 その瞬間、サエが言った。


「ユウ」


「何だ」


「この後、ちゃんとシャワー使いなさい」


 ユウは少しだけ眉を動かす。


「後で」


「今」


「報告が先だろ」


「服に排水路と血の臭いがついてる。座る前に脱いで、袋に入れて、シャワー」


 サエは端末を置いて立ち上がる。


「靴も拭く。装備も後で確認。リビングにそのまま入らない」


 ユウは少し黙った。


「……分かった」


「本当に分かった顔ね。珍しい」


「臭いは分かる」


「ならよろしい」


 ユイが少しだけ息を吐いた。


 張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。


 ラヘルも、気づかないほど小さく肩の力を抜いた。


 ユウは玄関脇でジャケットを脱ぎ、サエが差し出した袋へ入れる。


 その動きはいつも通りだった。


 帰ってきた。


 無事だった。


 それは確かだった。


 けれど、彼が行ってきた場所は、このリビングとは地続きでありながら、まったく違う場所だった。


 コボルトの爪。


 汚れた排水路。


 叫びながら運ばれた新人。


 死ななかっただけ、という現実。


 ユイは袋に入れられていく服を見ていた。


 ラヘルは、自分の新しい靴へ視線を落とした。


 走れる靴。


 下層で目立たないための服。


 それは必要なものだ。


 けれど、それだけでは足りない。


 サエが軽く手を叩いた。


「ほら、ユウはシャワー。ユイは替えの服を用意。ラヘルはそこ、袋を持って」


「はい」


 ユイがすぐに動く。


 ラヘルも一拍遅れて、袋の端を持った。


 ユウは何か言いかけたが、三人の動きを見てやめた。


「……分かった」


「最初からそうしなさい」


 サエが言う。


 ユウは短く頷き、シャワー室へ向かった。


 その背中を、ユイが見送る。


 ラヘルも、黙って見ていた。


 彼は戻ってきた。


 でも、ただ戻ってきただけではない。


 名前で呼ばれた仕事を一つ返して、戻ってきた。


 行かなかった場所の重さが、服についた臭いと一緒に、少しだけリビングへ持ち込まれている。


 サエは窓を少し開けた。


 外の空気が入り、排水路と血の臭いをゆっくり薄めていく。


 それでも完全には消えない。


 ユイは、空になった玄関先を見つめたまま、小さく息を吸った。


「……次に、できることをします」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 サエは聞こえていたが、何も言わない。


 ラヘルもまた、自分の靴を見た。


「私も」


 短い声だった。


 ユイがラヘルを見る。


 ラヘルは少しだけ顔を上げる。


「まずは、歩くところからですけど」


 その言い方に、ユイはほんの少しだけ笑った。


「はい。靴擦れが出ないか、確認しましょう」


 サエが肩をすくめる。


「その前に、あの子の服を隔離ね」


 リビングに、少しだけ生活の音が戻った。


 袋の擦れる音。


 水を出す音。


 ユイが替えの服を探す足音。


 帰ってきたことと、行ってきた場所の重さ。


 その両方が、同じ部屋に残っていた。

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