崩れなかった
灰狼が奥の部屋へ入った時、紫苑はすでに報告書を開いていた。
黒針はいつもの位置に控えている。
壁際の画面には、先ほど戻ってきた装甲トラックと、裏手で負傷した新人が運ばれていく様子が映っていた。
表のロビーでは、何事もなかったように酒と女と金が回っている。
だが、紫苑の目はそこには向いていない。
画面の一つに、灰狼が荷台から降りる姿が残っていた。
「戻ったわね」
紫苑は端末から目を上げずに言った。
「はい」
灰狼は、外縁の埃をまだ靴に残したまま、机の前に立つ。
「報告を」
「外縁部排水路跡周辺。キャリオン六体処理。コボルト六体処理。一体逃走。新人負傷一。死亡なし」
淡々とした声だった。
そこに誇張はない。
失敗を隠す色もない。
紫苑は、ゆっくりと指先で端末の縁を撫でた。
「負傷者は?」
「右前腕。コボルトの爪です。安物のガードごと裂かれています。排水路跡での汚染の疑いあり。処置中ですが、仕事に戻る腕ではありません」
黒針の目が少しだけ細くなる。
「切断?」
「可能性は高いでしょう」
灰狼は表情を変えない。
「生きています」
「死ななかっただけ、ね」
紫苑が言う。
灰狼は頷いた。
「はい」
それは慰めでも、救いでもなかった。
ただの事実だった。
死ななかった。
だが、戻れるかは別。
ロストパラダイスでは、その二つは同じ意味ではない。
紫苑は新人の一覧へ視線を移した。
「他の子たちは」
「ミナト、カジ、ノイは使える芽があります」
灰狼は即答した。
「ミナトは指示待ちができる。負傷者を引く判断も早い。カジは口は悪いですが、射線は守る。ノイは視野が広い。上方警戒で一体を拾いました」
「拾える子はいたのね」
「はい」
「使えない子は?」
「弾数管理ができない者が二名。指示前に前へ出かけた者が一名。負傷者はその一名です」
黒針が小さく息を漏らす。
笑いではない。
呆れにも近い、浅い反応だった。
「腕が鳴ると言っていた子?」
灰狼はわずかに眉を動かした。
「聞いていましたか」
「裏手の音くらい、拾えるわ」
黒針は静かに言った。
「鳴ったのは腕ではなく悲鳴でしたけれど」
紫苑は、そこで少しだけ笑った。
楽しんでいるというより、結果を確認した笑みだった。
「新人は、まあ、そんなところね」
「はい」
灰狼は答える。
「死なせすぎない範囲では済みました」
「あなたに頼んでよかったわ」
「簡単に言わないでください」
灰狼の声は低い。
紫苑は気にした様子もなく、端末の画面を切り替えた。
ユウの記録が開く。
タチバナのファミリー所属。
三花街任務参加。
スマートリンク導入。
ロスパラ新人任務、外部参加枠。
紫苑の指が、その欄で止まる。
「それで」
声が少しだけ変わった。
甘い。
だが、甘さの底に冷たさがある。
「ユウは?」
灰狼は、そこで初めて一拍置いた。
考えたのではない。
言葉を選んだのだ。
「役割は崩していません」
紫苑の目が、少しだけ細くなる。
「詳しく」
「集合時、新人から装備について絡まれています」
「反応は?」
「なし。絡んだ者を見ず、俺へ配置を確認しました」
黒針の口元が、ごくわずかに上がった。
「最初は外していませんね」
灰狼は続ける。
「移動中も、騒ぐ者ではなくミナトへ現地情報を聞いています。排水路跡の傾斜、足元、横回り、上方警戒。必要な情報を拾っていました」
紫苑は端末に目を落としたまま言う。
「自分の経験だけで動かなかった」
「はい。定期狩りでコボルト経験はありますが、こちら側の地形までは知らない。それを理解していました」
「いいわ」
紫苑は楽しそうに言った。
「知っている子より、知らないことを知っている子の方が使いやすい」
灰狼は頷きもせず、報告を続ける。
「戦闘では左後方寄り。指示通り外側を見ています。正面に釣られていません」
「戦果は」
「派手な戦果はありません」
紫苑の指が止まる。
部屋の中に、画面の小さな電子音だけが残った。
黒針が紫苑を見る。
紫苑は笑った。
「それでいいわ」
灰狼は続ける。
「キャリオン戦では奥を処理。指切りで弾数を抑えています。倒れた敵を追わず、次の影を見ていました」
「スマートリンクは?」
「振り回されている様子は薄い。まだ慣らし中でしょうが、線を追って遅れる場面はありませんでした」
「ARを持って跳ねなかった」
「はい」
紫苑は満足そうに背もたれへ身を預けた。
「コボルト戦は」
「負傷者が出た場面で、飛びついていません」
灰狼の声は変わらない。
だが、そこだけは少し重かった。
「負傷した新人は前へ出て、右前腕を裂かれました。ミナトが引きました。その時、左に穴が空いています」
紫苑は黙って聞いている。
「ユウは負傷者へ行かず、左奥から抜けようとしたコボルトを撃っています。二体を処理。結果として、ミナトが負傷者を引けた」
黒針の目が、少しだけ紫苑へ向く。
紫苑は笑わなかった。
「情で崩れなかった」
「はい」
灰狼は短く答えた。
「助けてはいます。ですが、役割は崩していません」
その言葉で、紫苑の表情がわずかに変わった。
喜びではない。
興味が深くなった顔だった。
「守るものがある子は、分かりやすいわ」
紫苑は静かに言った。
「けれど、雑に触ると噛む」
黒針は黙っている。
灰狼も、余計なことは言わない。
紫苑はユウの記録を見たまま続ける。
「見るべきなのは、そこではないのよね」
指先が、画面の上を滑る。
「守りたいものがある子が、守るためにどこを切れるか。切るべき線を理解しているか。目の前の一人へ飛びつかず、全体を崩さず動けるか」
「今回に限れば、できています」
灰狼は言った。
「今回に限れば、ね」
紫苑はその言葉を気に入ったように繰り返した。
「そう。今回に限れば」
黒針が口を開く。
「姐さん。首輪付きとしては?」
紫苑はすぐには答えなかった。
画面の中では、店内の映像が切り替わっている。
一階ロビー。
女の笑顔。
客の酒。
揉めかけた男を、首輪付きの一人が静かに押し戻している。
紫苑はそれを横目で見た。
「まだよ」
声は穏やかだった。
「首輪は、似合いそうだから付けるものではないわ」
黒針は少しだけ嬉しそうに目を伏せる。
「では、候補の印くらいですか」
「印を付けるには十分ね」
紫苑は端末を操作する。
ユウの記録に、新しい行が追加されていく。
外部参加枠。
灰狼指揮下。
新人混成任務。
役割逸脱なし。
弾数管理良好。
負傷者発生時、担当範囲維持。
左側突破なし。
紫苑は、その文面を眺めた。
「派手ではないわね」
「派手ではありません」
灰狼が答える。
「突出した戦果はありません。ですが、任せた役割は返しています」
「コボルト相手に派手な戦果を求める子はいらないわ」
紫苑の声が少しだけ冷える。
「それは首輪付きではなく、見世物に向いている子よ」
黒針が小さく笑う。
「姐さん、見世物もお嫌いではないでしょう?」
「嫌いではないわ」
紫苑は否定しなかった。
「でも、首輪付きに欲しいのは、跳ねる子ではないの」
その目が、灰狼へ向く。
「鎖の長さを覚えられる子。自分がどこまで動けるか、どこで止まるべきかを理解できる子」
灰狼は黙っていた。
彼自身が、その言葉の中に含まれている。
だからこそ、余計な反応はしなかった。
紫苑は端末を閉じないまま、さらに聞く。
「報酬を受け取った時は?」
「確認して受け取っただけです」
「額に反応は?」
「なし」
「新人たちは?」
「気づいていました」
「それに対する反応は?」
「ユウにはありません」
黒針が少しだけ口元を上げる。
「跳ねませんね」
「今のところは」
灰狼はそう言った。
黒針は灰狼を見る。
「厳しいですね」
「一度で分かるなら、試す必要はない」
紫苑が楽しそうに笑う。
「その通り」
部屋の照明が、画面の光でわずかに揺れる。
外の店内映像では、別の客が女の手を取って階段へ向かっていた。
表のロストパラダイスは、何事もなかったように回っている。
裏では新人が腕を失いかけた。
ここでは、その結果が記録されている。
全て同じ店の中で起きていることだった。
紫苑は灰狼を見る。
「あなたの判断は」
「次に呼んでも、崩れない可能性はあります」
「可能性」
「はい。まだ一度です」
「いい答えね」
紫苑は満足そうに頷いた。
「一度目で確信する男は嫌いよ」
灰狼は何も言わない。
紫苑は続ける。
「では、次も見ましょう」
黒針の目が少しだけ輝いた。
「すぐに?」
「急がないわ」
紫苑は首を横へ振る。
「続けて呼べば、周りが余計な意味を付けるもの。銀月にも、タチバナにも、うちの新人にも」
「少し置きますか」
「ええ。別の形でね」
紫苑の指が、ユウの記録を閉じる。
「灰狼」
「はい」
「次に使うなら、もう少し判断を要する現場がいいわ」
「単純な狩りではなく?」
「ええ。ただ撃てばいい仕事ではなく、切る場所を見せる仕事」
灰狼は眉をわずかに寄せた。
「早くありませんか」
「だから、今すぐではないと言っているでしょう?」
紫苑は笑う。
「壊したいわけではないの。見たいだけ」
灰狼は短く答えた。
「承知しました」
紫苑はようやく端末から手を離した。
「負傷した新人は?」
「処置後に判断します」
「使えそう?」
「今のままでは無理です」
「でしょうね」
紫苑の声には、ほとんど感情がなかった。
「見込みがあれば、報告を上げなさい。なければ、通常処理でいいわ」
「はい」
通常処理。
その言葉の中に、どれだけの重さがあるか。
この部屋にいる者は、全員知っていた。
黒針はそれについて何も言わない。
紫苑も触れない。
話は終わった。
灰狼は一礼するほどではなく、ただ短く頭を下げる。
「報告は以上です」
「ご苦労様」
灰狼は部屋を出ていく。
扉が閉まる。
部屋はまた静かになった。
画面の中では、ロストパラダイスの表が回っている。
酒。
女。
金。
笑い声。
欲望。
その裏で、人は選別される。
使える者。
使えない者。
まだ見てもいい者。
紫苑は少しだけ椅子に沈み、端末に残したユウの記録をもう一度開いた。
黒針が静かに言う。
「姐さん、気に入りました?」
紫苑は笑った。
「気に入るには、まだ早いわ」
「では?」
「見ていて退屈はしない」
黒針の口元が緩む。
「それは、かなり良い評価ですね」
紫苑は否定しなかった。
画面の中のユウの記録には、今夜の一行が加わっている。
崩れなかった。
ただ、それだけ。
けれど、首輪を付けるかもしれない若いロストを見るには、最初の一行として十分だった。
紫苑は端末を閉じる。
「次も見ましょう」
その声は、静かな部屋にだけ落ちた。




