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銀月のロスト  作者: taka
第17章 個人指名

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崩れなかった

 灰狼が奥の部屋へ入った時、紫苑はすでに報告書を開いていた。


 黒針はいつもの位置に控えている。


 壁際の画面には、先ほど戻ってきた装甲トラックと、裏手で負傷した新人が運ばれていく様子が映っていた。


 表のロビーでは、何事もなかったように酒と女と金が回っている。


 だが、紫苑の目はそこには向いていない。


 画面の一つに、灰狼が荷台から降りる姿が残っていた。


「戻ったわね」


 紫苑は端末から目を上げずに言った。


「はい」


 灰狼は、外縁の埃をまだ靴に残したまま、机の前に立つ。


「報告を」


「外縁部排水路跡周辺。キャリオン六体処理。コボルト六体処理。一体逃走。新人負傷一。死亡なし」


 淡々とした声だった。


 そこに誇張はない。


 失敗を隠す色もない。


 紫苑は、ゆっくりと指先で端末の縁を撫でた。


「負傷者は?」


「右前腕。コボルトの爪です。安物のガードごと裂かれています。排水路跡での汚染の疑いあり。処置中ですが、仕事に戻る腕ではありません」


 黒針の目が少しだけ細くなる。


「切断?」


「可能性は高いでしょう」


 灰狼は表情を変えない。


「生きています」


「死ななかっただけ、ね」


 紫苑が言う。


 灰狼は頷いた。


「はい」


 それは慰めでも、救いでもなかった。


 ただの事実だった。


 死ななかった。


 だが、戻れるかは別。


 ロストパラダイスでは、その二つは同じ意味ではない。


 紫苑は新人の一覧へ視線を移した。


「他の子たちは」


「ミナト、カジ、ノイは使える芽があります」


 灰狼は即答した。


「ミナトは指示待ちができる。負傷者を引く判断も早い。カジは口は悪いですが、射線は守る。ノイは視野が広い。上方警戒で一体を拾いました」


「拾える子はいたのね」


「はい」


「使えない子は?」


「弾数管理ができない者が二名。指示前に前へ出かけた者が一名。負傷者はその一名です」


 黒針が小さく息を漏らす。


 笑いではない。


 呆れにも近い、浅い反応だった。


「腕が鳴ると言っていた子?」


 灰狼はわずかに眉を動かした。


「聞いていましたか」


「裏手の音くらい、拾えるわ」


 黒針は静かに言った。


「鳴ったのは腕ではなく悲鳴でしたけれど」


 紫苑は、そこで少しだけ笑った。


 楽しんでいるというより、結果を確認した笑みだった。


「新人は、まあ、そんなところね」


「はい」


 灰狼は答える。


「死なせすぎない範囲では済みました」


「あなたに頼んでよかったわ」


「簡単に言わないでください」


 灰狼の声は低い。


 紫苑は気にした様子もなく、端末の画面を切り替えた。


 ユウの記録が開く。


 タチバナのファミリー所属。


 三花街任務参加。


 スマートリンク導入。


 ロスパラ新人任務、外部参加枠。


 紫苑の指が、その欄で止まる。


「それで」


 声が少しだけ変わった。


 甘い。


 だが、甘さの底に冷たさがある。


「ユウは?」


 灰狼は、そこで初めて一拍置いた。


 考えたのではない。


 言葉を選んだのだ。


「役割は崩していません」


 紫苑の目が、少しだけ細くなる。


「詳しく」


「集合時、新人から装備について絡まれています」


「反応は?」


「なし。絡んだ者を見ず、俺へ配置を確認しました」


 黒針の口元が、ごくわずかに上がった。


「最初は外していませんね」


 灰狼は続ける。


「移動中も、騒ぐ者ではなくミナトへ現地情報を聞いています。排水路跡の傾斜、足元、横回り、上方警戒。必要な情報を拾っていました」


 紫苑は端末に目を落としたまま言う。


「自分の経験だけで動かなかった」


「はい。定期狩りでコボルト経験はありますが、こちら側の地形までは知らない。それを理解していました」


「いいわ」


 紫苑は楽しそうに言った。


「知っている子より、知らないことを知っている子の方が使いやすい」


 灰狼は頷きもせず、報告を続ける。


「戦闘では左後方寄り。指示通り外側を見ています。正面に釣られていません」


「戦果は」


「派手な戦果はありません」


 紫苑の指が止まる。


 部屋の中に、画面の小さな電子音だけが残った。


 黒針が紫苑を見る。


 紫苑は笑った。


「それでいいわ」


 灰狼は続ける。


「キャリオン戦では奥を処理。指切りで弾数を抑えています。倒れた敵を追わず、次の影を見ていました」


「スマートリンクは?」


「振り回されている様子は薄い。まだ慣らし中でしょうが、線を追って遅れる場面はありませんでした」


「ARを持って跳ねなかった」


「はい」


 紫苑は満足そうに背もたれへ身を預けた。


「コボルト戦は」


「負傷者が出た場面で、飛びついていません」


 灰狼の声は変わらない。


 だが、そこだけは少し重かった。


「負傷した新人は前へ出て、右前腕を裂かれました。ミナトが引きました。その時、左に穴が空いています」


 紫苑は黙って聞いている。


「ユウは負傷者へ行かず、左奥から抜けようとしたコボルトを撃っています。二体を処理。結果として、ミナトが負傷者を引けた」


 黒針の目が、少しだけ紫苑へ向く。


 紫苑は笑わなかった。


「情で崩れなかった」


「はい」


 灰狼は短く答えた。


「助けてはいます。ですが、役割は崩していません」


 その言葉で、紫苑の表情がわずかに変わった。


 喜びではない。


 興味が深くなった顔だった。


「守るものがある子は、分かりやすいわ」


 紫苑は静かに言った。


「けれど、雑に触ると噛む」


 黒針は黙っている。


 灰狼も、余計なことは言わない。


 紫苑はユウの記録を見たまま続ける。


「見るべきなのは、そこではないのよね」


 指先が、画面の上を滑る。


「守りたいものがある子が、守るためにどこを切れるか。切るべき線を理解しているか。目の前の一人へ飛びつかず、全体を崩さず動けるか」


「今回に限れば、できています」


 灰狼は言った。


「今回に限れば、ね」


 紫苑はその言葉を気に入ったように繰り返した。


「そう。今回に限れば」


 黒針が口を開く。


「姐さん。首輪付きとしては?」


 紫苑はすぐには答えなかった。


 画面の中では、店内の映像が切り替わっている。


 一階ロビー。


 女の笑顔。


 客の酒。


 揉めかけた男を、首輪付きの一人が静かに押し戻している。


 紫苑はそれを横目で見た。


「まだよ」


 声は穏やかだった。


「首輪は、似合いそうだから付けるものではないわ」


 黒針は少しだけ嬉しそうに目を伏せる。


「では、候補の印くらいですか」


「印を付けるには十分ね」


 紫苑は端末を操作する。


 ユウの記録に、新しい行が追加されていく。


 外部参加枠。


 灰狼指揮下。


 新人混成任務。


 役割逸脱なし。


 弾数管理良好。


 負傷者発生時、担当範囲維持。


 左側突破なし。


 紫苑は、その文面を眺めた。


「派手ではないわね」


「派手ではありません」


 灰狼が答える。


「突出した戦果はありません。ですが、任せた役割は返しています」


「コボルト相手に派手な戦果を求める子はいらないわ」


 紫苑の声が少しだけ冷える。


「それは首輪付きではなく、見世物に向いている子よ」


 黒針が小さく笑う。


「姐さん、見世物もお嫌いではないでしょう?」


「嫌いではないわ」


 紫苑は否定しなかった。


「でも、首輪付きに欲しいのは、跳ねる子ではないの」


 その目が、灰狼へ向く。


「鎖の長さを覚えられる子。自分がどこまで動けるか、どこで止まるべきかを理解できる子」


 灰狼は黙っていた。


 彼自身が、その言葉の中に含まれている。


 だからこそ、余計な反応はしなかった。


 紫苑は端末を閉じないまま、さらに聞く。


「報酬を受け取った時は?」


「確認して受け取っただけです」


「額に反応は?」


「なし」


「新人たちは?」


「気づいていました」


「それに対する反応は?」


「ユウにはありません」


 黒針が少しだけ口元を上げる。


「跳ねませんね」


「今のところは」


 灰狼はそう言った。


 黒針は灰狼を見る。


「厳しいですね」


「一度で分かるなら、試す必要はない」


 紫苑が楽しそうに笑う。


「その通り」


 部屋の照明が、画面の光でわずかに揺れる。


 外の店内映像では、別の客が女の手を取って階段へ向かっていた。


 表のロストパラダイスは、何事もなかったように回っている。


 裏では新人が腕を失いかけた。


 ここでは、その結果が記録されている。


 全て同じ店の中で起きていることだった。


 紫苑は灰狼を見る。


「あなたの判断は」


「次に呼んでも、崩れない可能性はあります」


「可能性」


「はい。まだ一度です」


「いい答えね」


 紫苑は満足そうに頷いた。


「一度目で確信する男は嫌いよ」


 灰狼は何も言わない。


 紫苑は続ける。


「では、次も見ましょう」


 黒針の目が少しだけ輝いた。


「すぐに?」


「急がないわ」


 紫苑は首を横へ振る。


「続けて呼べば、周りが余計な意味を付けるもの。銀月にも、タチバナにも、うちの新人にも」


「少し置きますか」


「ええ。別の形でね」


 紫苑の指が、ユウの記録を閉じる。


「灰狼」


「はい」


「次に使うなら、もう少し判断を要する現場がいいわ」


「単純な狩りではなく?」


「ええ。ただ撃てばいい仕事ではなく、切る場所を見せる仕事」


 灰狼は眉をわずかに寄せた。


「早くありませんか」


「だから、今すぐではないと言っているでしょう?」


 紫苑は笑う。


「壊したいわけではないの。見たいだけ」


 灰狼は短く答えた。


「承知しました」


 紫苑はようやく端末から手を離した。


「負傷した新人は?」


「処置後に判断します」


「使えそう?」


「今のままでは無理です」


「でしょうね」


 紫苑の声には、ほとんど感情がなかった。


「見込みがあれば、報告を上げなさい。なければ、通常処理でいいわ」


「はい」


 通常処理。


 その言葉の中に、どれだけの重さがあるか。


 この部屋にいる者は、全員知っていた。


 黒針はそれについて何も言わない。


 紫苑も触れない。


 話は終わった。


 灰狼は一礼するほどではなく、ただ短く頭を下げる。


「報告は以上です」


「ご苦労様」


 灰狼は部屋を出ていく。


 扉が閉まる。


 部屋はまた静かになった。


 画面の中では、ロストパラダイスの表が回っている。


 酒。


 女。


 金。


 笑い声。


 欲望。


 その裏で、人は選別される。


 使える者。


 使えない者。


 まだ見てもいい者。


 紫苑は少しだけ椅子に沈み、端末に残したユウの記録をもう一度開いた。


 黒針が静かに言う。


「姐さん、気に入りました?」


 紫苑は笑った。


「気に入るには、まだ早いわ」


「では?」


「見ていて退屈はしない」


 黒針の口元が緩む。


「それは、かなり良い評価ですね」


 紫苑は否定しなかった。


 画面の中のユウの記録には、今夜の一行が加わっている。


 崩れなかった。


 ただ、それだけ。


 けれど、首輪を付けるかもしれない若いロストを見るには、最初の一行として十分だった。


 紫苑は端末を閉じる。


「次も見ましょう」


 その声は、静かな部屋にだけ落ちた。


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