役割を崩すな
灰狼は、排水口の奥へ続く暗がりを見たまま、片手を上げた。
全員が止まる。
風が、低く抜けていく。
排水路跡の窪地に溜まった臭いが、足元から這い上がってくる。
腐った水。
錆びた鉄。
さっき倒したキャリオンの血。
その奥に、別の臭いがあった。
獣臭い。
だが、キャリオンとは違う。
ユウはARを構え直した。
視界の端で、スマートリンクが排水口の縁を拾おうとする。
斜面。
配管。
黒い水。
崩れたコンクリートの影。
線は薄い。
水面の反射で、まだ少し遅れる。
信用しすぎるな。
ユウは線を視界の端に置いたまま、影を見る。
灰狼が低く言った。
「ここから本命だ」
誰も返事をしない。
「噛みつきより爪を警戒しろ」
その声だけが、排水路跡の壁に低く反響した。
「薄い鉄なら裂く。安物のガードを信用するな。腕で受けるな。銃を前に出しすぎるな」
絡んでいた新人の一人が、わずかに口元を動かした。
笑いかけたのかもしれない。
だが、灰狼の目がそちらへ向く前に、ミナトが小さく言った。
「聞いとけ」
男は舌打ちだけして黙る。
灰狼は続けた。
「見えている数で判断するな。出た相手を追うな。奥へ入るな。俺が言うまで撃つな」
ミナトが左前で構える。
カジは右前で、足場を一度確認してからSMGを持ち上げた。
ノイは後方寄りに立ち、視線を上の配管へ向けている。
ユウは左後ろ寄り。
灰狼の指示通り、外側を見る。
排水口の奥で、何かが擦れる音がした。
小さい。
爪がコンクリートを掻くような音。
次の瞬間、黒い影が一つ、排水口の縁から顔を出した。
小さい。
人間よりずっと低い。
痩せた身体。
長い腕。
細い脚。
そして、不釣り合いに鋭い爪。
コボルトだった。
一体だけではない。
奥でもう一つ、目が光る。
さらに斜面の左、崩れた配管の下で別の影が動いた。
「三」
誰かが呟く。
灰狼は即座に言った。
「違う。見えているのが三だ」
その言葉の直後、右側の瓦礫の影から低い唸りが返った。
カジの口元が歪む。
「やっぱりな」
ユウは左を見た。
まだ撃たない。
排水口の正面に見えるコボルトは、ミナトや前列の新人たちが見ている。
今見るべきは、外側だ。
左の配管下。
水に濡れた影。
そこに、一瞬だけ細い腕が見えた。
灰狼の声が落ちる。
「ミナト、正面左。カジ、右。ユウ、左奥。ノイ、上」
「はい」
「ああ」
「分かった」
ノイは声を出さず、頷いた。
正面のコボルトが跳ねた。
速い。
地面を蹴るというより、斜面を滑るようにして距離を詰めてくる。
新人の一人が叫びかけた。
「来た――」
「撃て」
灰狼の声と重なった。
銃声が鳴る。
ミナトのSMGが短く火を吐く。
正面左のコボルトが肩を弾かれ、斜面を転がる。
カジも右側へ撃った。
短い連射。
コボルトは横へ跳んだが、足を撃たれて崩れる。
ユウは正面を撃たなかった。
左奥。
配管の影から低く出ようとしていた一体へ、ARを向ける。
線が一瞬、コボルトの輪郭を拾う。
追わない。
一呼吸し、二発。
間を空け、もう一発。
コボルトの頭部が弾けるように横へ振られ、身体が水溜まりの縁へ崩れた。
ユウはすぐ視線を外す。
倒れた相手を見続けない。
次。
左のさらに奥で、もう一体が低く走っていた。
だが、その時、前列の男が一歩出た。
さっき荷台で絡んできた男だった。
「俺が――」
言い終える前に、灰狼が怒鳴る。
「出るな!」
遅かった。
正面のコボルトが倒れたことで、男は半歩前へ出ていた。
その半歩で、斜面の角度が変わる。
排水口の縁裏。
そこに潜んでいた一体が、地面から剥がれるように跳ねた。
狙いは喉ではない。
腕だった。
男はSMGを前へ出していた。
コボルトの爪が走る。
金属を引き裂くような音がした。
安い腕部ガードが割れた。
次の瞬間、男の前腕が大きく裂ける。
肉と布と薄い金属片が、まとめて飛んだ。
SMGが手から落ちる。
男は一瞬、何が起きたのか分からない顔をした。
それから、血が噴いた。
「っ、あ――」
悲鳴になりかける。
灰狼の声がそれを潰した。
「腕を見るな! 下がれ!」
男は動けなかった。
自分の腕を見ている。
指が動いていないことに気づいた顔だった。
そこへ、もう一体が低く走る。
負傷した男の足元ではない。
倒れたSMGでもない。
首元へ行く角度だった。
ミナトが動いた。
「下がれ!」
男の襟を掴み、無理やり後ろへ引く。
だが、ミナトが引いたことで、左側に一瞬穴が空く。
ユウはその穴を見ていた。
負傷した男には行かない。
見るべき場所は、そこではない。
腕を裂いた一体の後ろ。
もう一体が、低い姿勢でミナトの脇を抜けようとしている。
二発。
短い指切り。
コボルトの頭が横へ弾け、ミナトの足元へ滑り込む寸前で崩れた。
さらに左奥。
水溜まりの縁から、もう一体が出る。
ユウは撃ちすぎない。
一歩だけ位置を変える。
灰狼に言われた左後ろ寄りを崩さない範囲。
視界の端で線が揺れる。
銃口の戻りだけ拾う。
一発。
外れない。
コボルトの肩が砕け、身体が斜面を転がる。
「カジ、右を塞げ!」
灰狼の指示が飛ぶ。
「分かってる!」
カジは悪態をつきながら、右側の影へ撃った。
長く撃たない。
二度、短く切る。
右から回ろうとしていた一体が止まる。
だが、完全には倒れない。
カジが舌打ちする。
「硬ぇんだよ!」
「硬いんじゃない。お前が焦ってる」
灰狼が言う。
カジは言い返さず、次の射線を取った。
ノイが突然、上を指した。
「上」
低い声だった。
全員が反応する前に、配管の上から一体が落ちてくる。
狙いは後列だった。
灰狼ではない。
動きが遅れている新人の背中。
ノイは銃を上げていた。
手が震えている。
だが、撃った。
短い射撃。
一発は外れた。
二発目がコボルトの脚に当たる。
落下の軌道がずれた。
そこへ灰狼が一発撃つ。
コボルトは地面に落ちる前に頭を撃ち抜かれ、壁に叩きつけられた。
ノイは息を止めている。
灰狼が短く言う。
「見えていたな」
ノイは小さく頷く。
「はい」
「次も言え」
「はい」
その間にも、正面に残ったコボルトが一体、逃げるように排水口へ戻ろうとした。
絡んでいた別の新人が、それを追おうと前へ出かける。
「逃がすかよ!」
「追うな!」
灰狼の声が飛ぶ。
男は止まった。
止まったが、遅い。
足元が窪地の斜面に乗っている。
濡れた泥を踏んだ。
滑る。
体勢が崩れる。
排水へ手を突きかけた。
ミナトが横から腕を掴む。
「手を突くな!」
引き戻す。
男の手は黒い水の寸前で止まった。
顔が青くなる。
さっき灰狼が言った言葉を、ようやく身体で理解した顔だった。
「戻れ!」
ミナトが怒鳴る。
男は今度こそ後ろへ下がる。
灰狼は逃げるコボルトを追わなかった。
排水口の奥へ消える影を見送る。
ユウも撃たない。
角度が悪い。
奥へ撃てば、跳ねた弾がどうなるか分からない。
しかも、排水口の中に何体いるか見えていない。
撃つ場面ではない。
「追うな」
灰狼は改めて言った。
「奥へ入ったら負けだ」
銃声が止まる。
排水路跡に、硝煙と血と獣臭が混ざった。
倒れたコボルトは、見える範囲で六体。
逃げたのが一体。
奥にまだいるかもしれない。
分からない。
分からないものを、今は追わない。
灰狼が言う。
「弾数」
ミナトが答える。
「七」
カジが答える。
「九」
ノイが小さく言う。
「三」
ユウは短く言った。
「六」
長く撃った新人の一人が、気まずそうに顔を伏せる。
「……多分、半分近く」
灰狼の目が向く。
「多分?」
男は黙った。
「数えていないなら、使えない」
灰狼はそれだけ言った。
次に、負傷した男を見る。
ミナトが男を後ろへ引いていた。
前腕は、布とガードの破片ごと裂けている。
完全に落ちてはいない。
だが、指は動いていない。
血が多い。
男は痛みで息を荒くしている。
さっきまでの威勢はない。
「腕、腕が」
「見るな」
灰狼は近づく。
「ミナト、押さえろ。カジ、周囲。ユウ、左」
「はい」
「ああ」
「分かった」
ユウは左を見る。
負傷者へは行かない。
ミナトが負傷者を支える。
カジは右を塞ぐ。
ノイは上を見る。
灰狼は負傷した腕を一瞥した。
表情は変わらない。
「繋がるか」
ミナトが聞く。
灰狼は少しだけ間を置いた。
「分からん。だが、仕事に戻る腕ではない」
その言葉で、男の顔がさらに青くなる。
「サイバネで」
「仕事に使えるサイバネは高い」
灰狼は短く言った。
「今は腕の心配をするな。死なない方を選べ」
男は何か言おうとして、痛みに飲まれた。
灰狼は止血帯を締める。
男が低く叫んだ。
「声を落とせ」
灰狼の声は冷たい。
だが、手は止まらない。
「死にたくなければ息をしろ」
ミナトが男の肩を押さえる。
「吸え。吐け。腕を見るな」
カジが周囲を見たまま呟く。
「腕が鳴るんじゃなかったのかよ」
ミナトが睨む。
「今言うことじゃない」
「分かってる」
カジはすぐ黙った。
ユウは左を見続ける。
排水口の奥は暗い。
スマートリンクが暗がりを拾おうとして、また線が揺れる。
見えない。
見えないなら、見えないものとして扱う。
奥へ入らない。
追わない。
今の役割は、左を見ることだ。
灰狼が止血を終えた。
「チェインに連絡しろ」
ミナトが端末を出す。
「負傷者一。前腕裂傷。後送」
灰狼は新人たちへ向き直った。
「今日はここまでだ」
絡んでいた別の男が、震えた声で言う。
「まだ、コボルトが」
「追わない」
灰狼は即答した。
「でも」
「狩りより、生きて戻る方が先だと言った」
男は何も言えなかった。
灰狼は続ける。
「六体落とした。痕跡も確認した。負傷者が出た。これ以上奥へ入れば、訓練ではなくなる」
誰も反論しない。
さっきまで騒いでいた連中も、もう声を出さなかった。
倒れたコボルトと黒い排水。
裂けた腕に巻かれた止血帯。
それだけで十分だった。
灰狼はユウを見る。
「ユウ」
「ああ」
「弾数は抑えているな」
「ああ」
「左は抜けていない」
「抜かせてない」
灰狼は少しだけ目を細めた。
褒める顔ではない。
確認する顔だった。
「役割は崩していないな」
ユウは短く答える。
「ああ」
灰狼はそれ以上言わなかった。
それで十分だった。
ミナトが負傷者を支える。
カジが右側を見ながら下がる。
ノイはまだ上を見ている。
他の新人たちは、ようやく足元を気にしながら動き始めた。
威勢はもうない。
だが、全員が沈黙しているわけでもない。
生きて戻るために、動いている。
ユウは最後にもう一度、排水口の奥を見た。
逃げたコボルトは、もう見えない。
奥に残っているかもしれない。
別の穴から出てくるかもしれない。
こちらを見ているかもしれない。
見えている分だけが、全部ではない。
それは、キャリオンの時と同じだった。
灰狼が低く言う。
「撤収する」
一行は、排水口から距離を取り始めた。
ユウは左後ろを守ったまま、ゆっくり下がる。
スマートリンクの薄い線が、倒れたコボルトの爪を一瞬だけ拾った。
細く、鋭い。
薄い鉄を裂く爪。
ユウはそれを見て、すぐに視線を外した。




