見えている分だけ
後部扉が開くと、外縁部の空気が荷台へ流れ込んできた。
湿っている。
だが、街中の湿り気とは違う。
排水路から上がる腐った水の臭い。
錆びた鉄。
古いコンクリート。
どこか獣に近い、生温い臭い。
新人の一人が、思わず顔をしかめた。
「くせぇ」
「声を落とせ」
灰狼が言う。
それだけで、荷台の中の空気が締まった。
ミナトが先に降りる。
次にカジ。
ノイは一瞬だけ外を見てから、音を立てないように足を下ろした。
ユウも続く。
ブーツの底が、ひび割れた舗装を踏む。
視界の端で、スマートリンクが地面の亀裂と、排水路へ向かう傾斜を薄く拾った。
外縁部は、街の中とは光が違った。
ネオンは届かない。
壊れかけた街灯が、ところどころで白く瞬いているだけだ。
建物の密度は低い。
壁は崩れ、古い配管が剥き出しになっている。
排水路跡へ向かって、地面全体が浅く沈んでいた。
大きな皿の底へ向けて、周囲の汚れと水が集まるような地形。
その中心に、黒い排水口がある。
縁は欠け、鉄格子は半分歪んでいた。
その周囲には、汚水が薄く広がっている。
水面は黒い。
何が溶けているのか分からない。
灰狼が低く言った。
「排水には触るな」
新人たちが灰狼を見る。
「転んでも手を突くな。服についたら拭く前に申告しろ。何が混じってるか分からん」
絡んでいた男の一人が、笑いかけた。
「ただの汚水じゃ――」
灰狼の目が向く。
男の口が止まった。
「ただの汚水なら、ここまで言わん」
灰狼は淡々と続ける。
「皮膚が爛れるだけならまだいい。後から熱を出す奴もいる。指が痺れて戻らなくなった奴もいる。触るな。踏むな。跳ねさせるな」
カジが小さく舌打ちした。
「聞いとけよ。前に足首やった奴がいる」
「……排水でか?」
「排水でだ」
ミナトが短く言った。
「最初は腫れただけだった。後で切った」
男はもう笑わなかった。
ユウは排水口の周囲を見る。
浅い窪地。
足元を取られやすい。
しかも、角度が悪い。
上から見れば何もいないように見える場所でも、斜面の陰、排水口の縁裏、配管の下までは見えない。
スマートリンクが排水口の縁を拾う。
だが、黒い水面の反射で線が揺れた。
輪郭が一瞬遅れる。
信用しすぎるな。
ユウは自分の目で、足場と影を見た。
灰狼が手を軽く上げる。
「隊列」
ミナトが左前へ出る。
カジが右前。
ノイは後方寄りに下がり、時々上の配管を見る。
ユウは左後ろ寄り。
灰狼は中央後方から全体を見る位置に立った。
残りの新人たちは前寄りに散る。
だが、さっきまで騒いでいた連中は、まだ少し前へ出たがっていた。
灰狼が言う。
「固まるな。だが離れるな」
短い命令。
新人たちは動く。
揃ってはいない。
足音もばらつく。
それでも、ミナトとカジが位置を調整し、ノイが後ろを見ている分だけ、隊列はどうにか形になった。
ユウは灰狼の指示通り、外側を見る。
正面ではなく、左の影。
配管の下。
崩れた壁の陰。
排水口へ向かう斜面の縁。
スマートリンクの線は、暗がりの輪郭を拾おうとする。
まだ邪魔だ。
だが、邪魔なまま置く。
見ないのではない。
追わない。
一行は、排水口を直接覗き込まず、周囲を回るように進んだ。
足元には、泥とも油ともつかないものが薄く伸びている。
濡れたコンクリートに、ブーツの跡が残る。
ノイが小さく言った。
「足跡」
灰狼が止まる。
全員が動きを止めた。
ノイが指差したのは、排水口の縁から少し離れた泥の上だった。
小さな足跡がある。
ただし、古い。
雨か排水に滲んで、輪郭は崩れていた。
カジが覗き込む。
「コボルトか?」
「古い」
ノイが答える。
「でも、いる」
「どっちだよ」
カジが言うと、ノイは少しだけ目を細めた。
「前にいた」
その言い方に、カジはそれ以上突っ込まなかった。
灰狼が低く言う。
「進む」
隊列がまた動く。
しばらく進んだところで、獣臭が少し強くなった。
ユウが足を止めかける。
同時に、ノイも後方から前へ視線を向けた。
排水口へ続く斜面の下。
黒い水溜まりの縁で、何かが動いた。
中型犬ほどの大きさ。
痩せた背。
太い顎。
汚れた口元。
キャリオンだった。
一体がこちらを見た。
その後ろで、もう一体が頭を上げる。
「いた」
新人の一人がSMGを上げかける。
灰狼の声が飛んだ。
「撃つな」
指が止まる。
「見えてるだろ、あそこに」
絡んでいた男が小さく言った。
灰狼は即座に返した。
「見えている分だけだ」
その言葉が落ちた直後、左の配管下で別の影が動いた。
一体ではない。
二体。
さらに、排水口の縁裏から、低く唸る声が返ってくる。
ミナトの表情が変わった。
「五」
ノイが小さく言う。
「六」
カジがSMGを構える。
「やっぱりかよ」
キャリオンたちは、まだ飛びかかってはこない。
腐肉食だ。
無理に正面から来るより、弱いところを見る。
水溜まりの向こうで、最初に見えた一体が低く身を沈めた。
灰狼が短く指示を出す。
「ミナト、左」
「はい」
「カジ、右」
「ああ」
「ユウ、奥」
「分かった」
「他は撃つな。俺が言うまで待て」
絡んでいた男が歯を食いしばる。
だが、今度は撃たない。
灰狼の声が低く落ちる。
「今」
銃声が鳴った。
ミナトのSMGが短く火を吐く。
カジも右の影へ撃つ。
だが、別の新人が遅れて撃った。
長い。
不安を隠すような連射だった。
弾が散る。
キャリオンの一体は倒れたが、背後のコンクリートにも無駄な穴が増えた。
「撃ちすぎだ」
灰狼の声が低く飛ぶ。
男の肩が跳ねる。
その横で、ユウはARを短く切った。
二発。
間。
もう一発。
奥の斜面を駆け上がろうとしたキャリオンの肩が崩れる。
前脚が滑り、黒い水の縁へ落ちる。
ユウはそこで撃つのを止めた。
倒れた相手を見続けない。
視線はすぐ、右の影へ移る。
スマートリンクがキャリオンの輪郭を薄く拾う。
だが、水面の反射で線が乱れる。
追わない。
自分の目で、動く影を見る。
右から回り込もうとしていた一体が、カジの射線の外へ抜けかけていた。
ユウは一歩だけ位置をずらす。
灰狼の指示範囲を崩さない。
左後ろ寄りから、斜めに通る射線。
一発。
キャリオンの頭が跳ね、身体が転がる。
カジが一瞬こちらを見る。
「助かった」
「右、まだいる」
ユウは短く返す。
カジはすぐ前へ向き直った。
その間に、排水口の縁裏から一体が飛び出す。
速い。
正面の新人へではなく、少し浮いた位置にいた男の足元へ向かう。
絡んでいた男の一人だった。
「うわっ」
男がSMGを下げる。
遅い。
ミナトが横から撃つ。
弾がキャリオンの肩を裂いたが、完全には止まらない。
カジが舌打ちする。
「足!」
灰狼が低く言った。
「下がるな。撃て」
男は引き金を引いた。
短い連射。
今度は当たる。
キャリオンが地面へ叩きつけられ、なおも顎を鳴らした。
灰狼が前へ一歩出る。
一発。
キャリオンの動きが止まった。
「倒れた相手に近づくな」
灰狼が言う。
「噛むぞ」
男は青ざめた顔で頷いた。
さっきまでの威勢は、もう半分ほど抜けている。
しかし、終わりではなかった。
ノイが上を見た。
「上」
声は小さい。
だが、今度は全員が反応した。
排水口の上を走る古い配管。
その影で、小さな身体が動く。
キャリオンではない。
痩せた影が一瞬だけ見えた。
すぐに奥へ消える。
灰狼の目が細くなる。
「撃つな」
ユウも撃たなかった。
見えた。
だが、短い。
姿を確認するには足りない。
スマートリンクも、配管の輪郭と影を拾い損ねていた。
カジが低く言う。
「今の」
「コボルトか」
ミナトが呟く。
灰狼は答えない。
先にキャリオンの残りを処理する。
「ミナト、左確認。カジ、右確認。ユウ、奥を見ろ。ノイ、上から目を離すな」
「はい」
「分かった」
「ああ」
「……はい」
短い返事が続く。
ユウは奥を見る。
黒い水溜まりの向こう。
崩れたコンクリートの下。
配管の根元。
キャリオンの残りが一体、逃げるように身を低くしていた。
ユウはARを構える。
線は見える。
だが、追わない。
呼吸。
指切り。
二発。
キャリオンが崩れる。
それ以上は撃たない。
静かになった。
硝煙の匂いが、湿った排水臭に混じる。
倒れたキャリオンたちの身体から、さらに獣臭が濃くなる。
灰狼は周囲を見回した。
「弾数」
ミナトが答える。
「三発」
カジが答える。
「五」
ユウは短く言う。
「六」
長く撃った新人が、少し詰まった。
「……半分くらい」
灰狼の目が向く。
「今のでか」
「いや、その」
「撃ちすぎだ」
短い。
だが、重かった。
男は黙る。
灰狼はさらに言う。
「お前は次、俺が言うまで撃つな」
「でも」
「撃つな」
反論はそこで止まった。
ミナトが視線だけを落とす。
カジは小さく鼻を鳴らした。
ノイは上を見たまま、まだ動かない。
ユウは排水口周辺を見る。
キャリオンの死体。
泥に散った血。
黒い水面に広がる薄い波紋。
長居する場所ではない。
灰狼も同じ判断だった。
「死骸に近づくな。長居するな。血の匂いで別のものが来る」
その時、ノイが小さく言った。
「これ、違う」
灰狼が振り向く。
「何が」
ノイは配管の下ではなく、排水口の脇に残った泥の跡を見ていた。
ユウも近づきすぎないように位置をずらして見る。
泥の上に、引きずった跡がある。
キャリオンの足跡とは違う。
幅が狭い。
爪の跡が細い。
何かを引いて、排水口の奥へ運んだような痕跡。
ミナトが息を潜める。
「キャリオンじゃないな」
カジが低く言う。
「食い跡も違う」
キャリオンの噛み跡は骨ごと砕く。
だが、そこに残っていた骨の一部は、砕かれていない。
削られ、裂かれ、持っていかれている。
灰狼が膝をつかず、立ったまま確認した。
排水には触らない。
泥にも触れない。
目だけで見る。
「コボルトだ」
新人たちの空気が変わった。
さっきまで倒したキャリオンは、前触れでしかなかった。
本命は、もっと奥にいる。
灰狼はゆっくり顔を上げる。
「ここから本命だ」
低い声だった。
「声を落とせ」
誰も返事をしなかった。
返事をする必要がなかった。
それぞれが、音を立てないように構え直す。
ユウはARの位置を直した。
スマートリンクの線が、排水口の奥へ続く暗がりを拾おうとしている。
だが、まだ見えない。
見えている分だけが、全部ではない。




