外縁へ
三日前に途切れた買い物の話は、もう済ませてあった。
ラヘルには、走れる靴と、髪を隠せるフード付きの上着が増えた。
下層で目立たないための服。
逃げる時に足を取られない靴。
必要なものだった。
それを選んだ時、ユイはいつものように細かく確認していた。
サイズは合っているか。
歩きにくくないか。
フードを被った時、髪の色がどれくらい隠れるか。
袖は邪魔にならないか。
ラヘルも、少し戸惑いながらそれを受け入れた。
自分が、下層で目立たない格好をする。
走るための靴を履く。
髪を隠す。
それは、必要なことだった。
けれど、必要なものを揃えても、ユイの胸に残ったものは消えていなかった。
ユウ個人への指名依頼。
その言葉が、三日経ってもまだ残っている。
アジトのリビングには、サエとユイとラヘルがいた。
ユウはもう出ている。
ロストパラダイスからの依頼。
外縁部のコボルト狩り。
灰狼の下で、ロスパラ新人たちと動く仕事。
呼ばれたのは、ユウだけだった。
「……今日、なんですよね」
ユイが小さく言う。
サエは端末から目を上げた。
「そうね」
「個人指名、なんですね」
「そう。今回はユウの名前に来た依頼」
ユイは膝の上で手を握る。
「私は」
そこで言葉が止まる。
サエは少しだけ間を置いた。
それから、静かに言った。
「呼ばれてない」
短い言葉だった。
ユイの指が、さらに少しだけ強く握られる。
サエは続ける。
「ユイが何もできないって話じゃないわ。でも、チームの中で役に立つことと、外から個人名で呼ばれることは別」
ユイは顔を上げない。
「登録上は、私もロストです」
「登録は入口よ」
サエの声は厳しくない。
けれど、誤魔化しもしなかった。
「信用は、その後に積むもの」
ラヘルは黙って聞いていた。
その言葉は、自分にも向いていると分かった。
ユイは登録上ロストで、それでも呼ばれない。
自分はそもそも、その入口にすら立っていない。
サエは二人を見たあと、小さく息を吐く。
「だから、今やることをやる」
ユイがようやく顔を上げた。
「今やること」
「ラヘルの服と靴は揃えた。なら、次はそれに慣れること」
サエはラヘルの足元を見る。
新しい靴。
上層で履いていたものとは違う。
見栄えより、歩くことと走ることを優先した靴だった。
「買っただけじゃ使えないわ。歩いて、走って、靴擦れが出るか見ないと」
ラヘルは一瞬、返事が遅れた。
それから、小さく頷く。
「……はい」
「フードもね。被ったまま視界がどれくらい狭くなるか、慣れておきなさい」
「分かりました」
ユイも、少しだけ息を整える。
「では、後で一緒に確認しましょう」
「お願いします」
まだ胸の中に重さは残っている。
でも、何もしないで待つよりは良い。
サエは少しだけ口元を緩める。
「そう。置いていかれた時ほど、手を動かしなさい。考えるだけだと沈むわよ」
ユイは静かに頷いた。
「はい」
ラヘルも、少し遅れて頷く。
「はい」
置いていかれたことは、消えない。
けれど、手を動かすことはできた。
装甲トラックの荷台は、思ったより揺れた。
エンジンの低い振動が床から伝わってくる。
金網の向こうで、ロストパラダイスのネオンが少しずつ遠ざかっていく。
荷台の中には、十人ほどの新人たちとユウ、灰狼が乗っていた。
向かい合わせのベンチ。
武器ラック。
古い固定ベルト。
床にはところどころ傷があり、金属の縁は何度も踏まれて鈍く光っている。
絡んできた新人の一人が、荷台の奥で笑っていた。
「腕が鳴るぜ」
隣の男もそれに乗る。
「コボルトだろ? 群れで来たって、撃てば終わりだ」
「今日で灰狼さんに見せつけてやるよ」
威勢のいい声が荷台の中に響く。
笑い声。
SMGのストックを叩く音。
マガジンをわざと見せるように差し直す仕草。
その声を聞きながら、ミナトは黙ってブーツの紐を締め直していた。
一度締めたものを、もう一度引く。
足首を動かし、緩みを確認する。
それからSMGのセーフティを確認し、マガジンの位置を直した。
カジはマガジンを一本抜き、弾の入りを見て戻す。
「浮かれてる暇があったら、数えとけよ」
「数えてるって」
「口で数えても弾は増えねぇぞ」
カジはそう言って、予備マガジンを胸元のポーチへ押し込んだ。
ノイはほとんど喋らない。
膝の上で手袋の指先を押さえ、荷台の揺れに合わせて足の置き場を変えている。
視線は時々、後部扉や天井の金網へ向いた。
ユウも、ブーツの踵を床へ軽く打った。
締まりを確認する。
足首に緩みはない。
マガジンの位置とARのスリング。
SMGの取り回し。
ナイフの位置と手袋の指先。
一つずつ確認する。
スマートリンクの薄い線が、荷台の内側を拾う。
ベンチの縁と武器ラック。
新人の肩に灰狼の膝。
揺れる車内では、補助線もわずかに遅れる。
邪魔だ。
だが、邪魔なまま置いておく。
騒いでいる新人たちは、銃を見せる。
黙っている者たちは、足元と弾を見ている。
その差は、分かりやすかった。
ユウはミナトを見る。
騒いでいる連中ではない。
ブーツを締め直し終え、今は荷台の床に足を置いて揺れを確かめている男だった。
「こっち方面の狩りは多いのか」
ユウが聞いた。
ミナトは少しだけ顔を上げる。
「ああ。南西側ほどじゃないけどな。排水路跡に小さい群れが入りやすい」
「数は」
「少なけりゃ五、六。多いと十を越える。見えてる数の倍はいると思えって言われてる」
「灰狼にも言われた」
「なら聞いとけ」
ミナトは短く言った。
「あの人が言う時は、大体前に誰かが失敗してる」
カジが横から鼻を鳴らす。
「足元と横だ」
ユウはカジを見る。
カジはSMGを膝に置いたまま続けた。
「正面の奴ばっか撃ってると、横から足持っていかれる。排水路跡は狭いとこが多い。影も多い」
「臭いは」
「湿ったコンクリと汚水。あと獣臭。鼻が慣れるまでは分かりづらい」
ユウは頷く。
その時、ノイが小さく言った。
「上も」
声は小さかった。
だが、荷台の中で妙に通った。
ユウはノイを見る。
「上?」
ノイは少しだけ目を動かす。
「配管の上。前、いた」
カジが舌打ちする。
「あれは嫌だったな」
ミナトも表情を硬くした。
「一匹だけだった。けど、あれで隊列が崩れかけた」
ユウはその言葉を頭に入れる。
足元と横、そして人間が一番不注意になる上。
正面だけ見ていればいい場所ではない。
灰狼は荷台の奥で腕を組み、黙っていた。
目は閉じていない。
会話を聞いている。
だが、割り込まない。
ユウが現地側の情報を拾っていることも、ミナトたちが答えていることも、ただ見ているだけだった。
絡んでいた男が、面白くなさそうに口を挟む。
「随分慎重だな」
カジがそちらを睨む。
「慎重で悪いか」
「コボルト相手にビビりすぎだろ」
ミナトが静かに言う。
「ビビれない奴から噛まれる」
「説教かよ」
「確認だ」
ミナトはそれ以上相手にしなかった。
ユウも見なかった。
その態度が余計に気に入らないのか、男は小さく舌打ちする。
だが、灰狼のいる荷台でそれ以上騒ぐほど馬鹿ではないらしい。
トラックが大きく揺れた。
荷台の全員が、わずかに身体を沈める。
騒いでいた者の一人だけが、反応が遅れて肩を壁にぶつけた。
「いってぇな!」
運転席の方から、チェインの声が飛ぶ。
「外縁の道は優しくないって言ったろ。文句は道に言え」
荷台の中で、少しだけ笑いが起きる。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
街の光が減っていく。
ロストパラダイス周辺にあった赤や紫のネオンは、もう見えない。
代わりに、窓の隙間から入る光は鈍い白や黄色になった。
建物の密度が落ちる。
壁が低くなる。
壊れた看板が増える。
修理されないまま放置された外壁が、車窓の端を流れていく。
車内の空気も変わった。
湿った臭いが強くなる。
排水路。
錆びた鉄。
腐った水。
古いコンクリート。
それに混じって、獣臭のようなものが薄く入ってきた。
ノイが鼻を動かす。
ミナトがマガジンに触れる。
カジは口を閉じた。
騒いでいた新人たちも、さすがに声を落とす。
外縁に近づいている。
それは、誰でも分かった。
ユウはARのスリングをもう一度直した。
灰狼が目を開く。
「降りたら、まず周囲を見る」
全員が灰狼を見る。
「車の周りに集まるな。固まるな。だが離れすぎるな」
低い声だった。
「ミナト、左前。カジ、右前。ノイは後ろを見る。残りは俺の指示で動け」
名を呼ばれた三人が短く返事をする。
「ユウ」
「ああ」
「お前は左後ろ寄りだ。外側を見る。正面に釣られるな」
「分かった」
「コボルトが出るまでは撃つな。見えた数で判断するな」
「ああ」
灰狼は新人たちへ視線を向ける。
「余計な声を出すな。叫ぶのは、必要な時だけだ」
誰も茶化さなかった。
トラックがさらに速度を落とす。
タイヤが砂利を噛む音がした。
チェインの声が聞こえる。
「着くぞ」
装甲トラックが止まった。
エンジンはまだ唸っている。
一瞬だけ、車内が静かになった。
外からは、風の音がした。
街中とは違う。
建物に反射して濁った風ではない。
広く、乾いて、ところどころ湿った臭いを運んでくる風だった。
後部扉のロックが外れる音がする。
灰狼が立ち上がった。
「降りろ」
誰もすぐには動かなかった。
灰狼が続ける。
「ここからは声を落とせ」
その言葉で、ミナトが立つ。
カジが続く。
ノイも、音を立てないように足を動かした。
ユウも立ち上がる。
ブーツの底が、荷台の金属床を軽く叩いた。
視界の端で、後部扉の輪郭が薄く浮かぶ。
その向こうには、外縁部の暗い空気がある。
ユウはARの位置を確認し、灰狼の後に続いた。




