名前に来る依頼
銀月の奥の席は、相変わらず静かだった。
表のカウンターには、何人かの客がいる。
グラスの音。
低い話し声。
氷が溶ける小さな音。
それらは確かに聞こえている。
けれど、ロストパラダイスのように空気を押し潰すほどではない。
銀月の音は、近くにあるのに距離を保っていた。
ユウは奥の席に座っていた。
正面にはタチバナ。
横には、銀月のマスター。
ユイとラヘルはいない。
アジトに残してきた。
呼ばれたのは、ユウだった。
銀月からの連絡も、依頼確認の席に必要だとされたのも、ユウとタチバナだけだった。
マスターは静かに端末を置いた。
「ロストパラダイスからの依頼です」
その名前が出ても、ユウは表情を変えなかった。
タチバナは少しだけ目を細める。
「紫苑か」
「はい」
マスターは頷いた。
「依頼主名義はロストパラダイス。実質的には、紫苑さんからの指名依頼と見てよいでしょう」
端末に依頼内容が表示される。
指名対象。
ユウ。
任務内容。
外縁部におけるコボルト狩り。
実施予定は三日後。
参加人員は、ロストパラダイス側新人、十名前後。
引率および現場責任者、灰狼。
外部参加枠、ユウ。
備考。
現場判断は灰狼の指示下に置くこと。
新人訓練および現場適性確認を兼ねる。
ユウは内容を一通り見る。
コボルト。
前にも定期狩りで撃った相手だ。
一匹ずつなら、まだ対処できる。
だが、群れで来る。
回り込んで、弱いところを見る。
こちらが浮つけば、隙間から食いついてくる。
初心者向けに扱われることもある敵性体。
けれど、安全な相手ではない。
油断すれば、初心者向けの相手でも死ぬ。
「新人任務か」
ユウが言う。
マスターは静かに首を横へ振った。
「新人任務に、あなたを混ぜる依頼です」
その違いは、小さくない。
タチバナも端末を見る。
「お前が仕切る仕事じゃないな」
「ああ」
「灰狼の下で動く形だ」
「分かる」
マスターは報酬欄を開いた。
表示された額は、外縁部のコボルト狩りとしては安くなかった。
新人の頭数として呼ばれる額ではない。
ユウはそれを見た。
高い。
だが、三花街のオーガ対応後の上乗せほどではない。
危険度と、指名の意味と、試験の意味。
その辺りが混ざった金額だった。
タチバナが短く言う。
「新人扱いじゃない」
「はい」
マスターが答える。
「ですが、上位ロストへの依頼額でもありません」
「試す額だな」
「私もそう見ます」
マスターは端末を閉じずに続ける。
「個人指名とは、その名前に金を出すということです」
ユウはマスターを見る。
「名前に」
「はい。タチバナさんのファミリーへではなく、あなたの名前へ来ています」
静かな声だった。
けれど、言葉の重さはあった。
「ただし、名前に金が出たからといって、その名前が完成したわけではありません」
マスターは視線を端末へ戻す。
「むしろ、ここから値踏みが始まる」
タチバナが低く言った。
「勘違いするな。上位として呼ばれたわけじゃない」
「ああ」
「だが、名前で呼ばれた。そこは軽く見るな」
ユウは頷く。
浮かれた様子はない。
だが、その言葉を聞き流してもいない。
マスターは実施日を見る。
「実施は三日後です。先方も、あなたがスマートリンクを入れたばかりであることは把握しているのでしょう」
タチバナは鼻で小さく息を吐いた。
「情報が早いな」
「ロストパラダイスですから」
マスターは淡々と言う。
「ガレージストリートの闇医者区画に入ったことも、翌日にガンショップへ行ったことも、拾おうと思えば拾える情報です」
ユウは特に驚かなかった。
あの街では、誰かがどこかで見ている。
見ていなくても、聞いている。
聞いていなくても、匂いで知る者がいる。
「三日空けたのは」
ユウが言う。
タチバナが答えた。
「潰すつもりなら明日でも呼ぶ」
「なら」
「見たいんだろうな」
タチバナは端末を指で軽く叩いた。
「スマートリンクを入れた直後の不調を見たいわけじゃない。慣らした状態でどう動くかを見たい」
マスターも頷く。
「悪い依頼ではありません」
それから、少しだけ間を置く。
「ただし、軽い依頼でもありません」
銀月の奥の席に、短い沈黙が落ちた。
カウンターの方で、グラスが置かれる音がする。
遠い。
「ロスパラ側の新人十人前後」
タチバナが言う。
「荒いぞ」
「ああ」
「コボルトより面倒な時もある」
ユウは少しだけ目を動かした。
それは分かる。
敵だけを見ればいい仕事ではない。
一緒に動く人間が荒い。
指示を聞くかも分からない。
手柄を欲しがる者もいる。
怖くなって崩れる者もいる。
逆に、怖さを隠すために前へ出すぎる者もいる。
その中に、一人で混ぜられる。
「お前が新人を背負う必要はない」
タチバナは言った。
「だが、見捨てれば済むと思うな」
ユウはタチバナを見る。
タチバナは表情を変えない。
「助けるなとは言わん。助けるなら、自分の役割を崩すな」
「分かった」
「灰狼の指示を聞け」
「ああ」
「手柄を取りに行くな」
「ああ」
「前に出ろと言われるまで、勝手に出るな」
「ああ」
「返事が全部同じだ」
ユウは少しだけ眉を動かした。
「聞いてる」
「ならいい」
タチバナは端末へ視線を戻した。
「紫苑が見たいのは、お前が強いかどうかだけじゃない」
マスターが引き取る。
「荒い新人の中に入れた時、どう振る舞うかでしょう」
「舐められるかもしれません」
「張り合えば減点でしょう」
「引きすぎても」
「減点でしょうね」
マスターの声は穏やかだった。
「助けすぎても、見捨てすぎても、評価は落ちると思います」
「面倒だな」
ユウは短く言った。
タチバナが言う。
「仕事は面倒なものだ」
それは、どこかで紫苑が言った言葉と同じだった。
もちろんユウは知らない。
マスターも知らない。
けれど、ロストの仕事を見てきた者なら、似た結論に辿り着く。
簡単な仕事ほど、どこかに罠がある。
「灰狼か」
ユウは言った。
以前、ロストパラダイスに荷を届けた時に顔を合わせている。
あの店の空気を見て、こちらの失敗も見て、それでも仕事の話だけを進めた男だ。
マスターは頷いた。
「ええ。首輪付きのリーダー格です。実務面では信用されています」
タチバナも言う。
「灰狼が現場責任者なら、無茶な遊びにはならん」
「灰狼の指示を聞けばいいか」
「基本はな」
タチバナはユウを見る。
「ただし、考えるのをやめるな。指示を聞くのと、丸投げするのは違う」
「ああ」
「灰狼が見ていない穴があるなら埋めろ。ただし、勝手に場を作るな」
「分かった」
今度の返事は、少しだけ違った。
マスターはそのやり取りを静かに見ていた。
それから、端末を少し動かす。
「報酬は前払い一部、完了後残額。内容に対しては悪くありません」
「危険手当込みか」
タチバナが聞く。
「おそらくは、指名料込みです」
「色を付けてきたな」
「新人扱いでは失礼だと判断したのでしょう」
マスターはそう言った。
「ただ、過剰ではありません。買いかぶりすぎている額でもない」
「つまり」
ユウが言う。
マスターはユウを見る。
「見られています」
短い言葉だった。
「評価されているのではなく、評価対象に入った。そういう段階です」
ユウは黙る。
評価された。
それは三花街でもあった。
報酬も増えた。
用心棒たちから声を掛けられるようにもなった。
だが、それは一つの現場での結果だ。
今回の依頼は、その結果を見た別の場所が、次の材料を求めてきたものだった。
名前に金が出る。
その意味は、少しずつ分かる。
「ここからだ」
タチバナが言った。
ユウは顔を上げる。
「名前で呼ばれた仕事を、一つずつ崩さずに返せ」
タチバナの声は低い。
「そうしてようやく信用になる」
「三花街は」
「一つだ」
タチバナは即答した。
「今回も一つだ。次も一つ。崩せば、減る」
ユウは頷く。
上位ロストではない。
それは分かる。
けれど、何もないわけでもない。
タチバナのファミリーの若い奴。
ユイの横にいた護衛のような奴。
そういう見られ方から、少しだけ外に出た。
ユウという名前に、依頼が来た。
それが始まりだった。
マスターはグラスに水を注いだ。
酒ではない。
ユウの前へ置く。
「受けますか」
ユウは水を見た。
それから、端末の依頼内容へ視線を戻す。
コボルト狩り。
新人十人前後と、リーダーとして灰狼。
ロスパラへ三日後。
スマートリンクの視界補助は、まだ完全には馴染んでいない。
だが、使える。
ARも、まだ自分の手に完全には馴染んでいない。
だが、使う。
荒い新人に混ぜられる。
野良犬の中にいた頃に比べれば、ルールがあるだけまだましだ。
ただし、仕事だ。
勝手に動けば、その分だけ崩れる。
「受ける」
ユウは言った。
タチバナはすぐには反応しなかった。
マスターも、ただ頷く。
「では、銀月から受諾の返答を出します」
「条件はそのままでいい」
タチバナが言う。
「ただし、詳細な集合場所と時刻、弾薬持ち込み条件、撤退基準は確認しておけ」
「承知しました」
マスターは端末に入力する。
「灰狼の指揮下であること。報酬条件。負傷時の扱い。新人の監督責任がユウさんにないこと。このあたりも文面に残します」
ユウは少しだけ視線を上げた。
「新人の監督責任」
タチバナが答える。
「そこを曖昧にされると面倒だ」
「助けるなってことか」
「違う」
タチバナは短く言う。
「責任を押しつけられるなってことだ」
マスターも続ける。
「あなたは新人の引率ではありません。灰狼さんの下で行動する外部参加者です。そこを明確にしておかないと、後で評価も責任も濁ります」
ユウは頷いた。
仕事は、敵を撃つだけではない。
依頼の条件と責任の線。
誰の指示下にいるか。
どこまでが自分の役割か。
それを曖昧にしたまま現場へ行くと、後で死ぬ。
あるいは、生きて帰っても信用が死ぬ。
「三日ある」
タチバナが言った。
「その間にスマートリンクをもう少し慣らせ。だが無理はするな」
「ああ」
「ARもだ。SMGも持っていけ」
ユウは少し考えた。
「両方か」
「コボルト相手なら近距離もある。ARだけで済むと思うな」
「分かった」
「弾は通常弾中心。予備に少し強装を持て。撃ち過ぎるな」
「ああ」
マスターが静かに言う。
「ロストパラダイス側の新人は、あなたほど整っていない可能性があります」
「装備がか」
「装備も、意識も」
タチバナが苦い顔をした。
「ロスパラの新人だ。威勢だけはいいだろうな」
「そういうのは見たことがある」
ユウは言った。
野良犬にもいた。
大きな声を出す者。
先に取ろうとする者。
怖さを隠すために笑う者。
弱い者を押しのけて、自分が強いふりをする者。
そういう相手に囲まれることは、初めてではない。
だが、今回はこちらも仕事として動く。
殴り合って場所を取るのではない。
灰狼の下で、役割を守る。
「ならいい」
タチバナは言った。
「ただし、野良犬の感覚だけで動くな」
ユウは黙った。
「今は仕事だ。手癖で切るな。判断しろ」
「分かった」
その返事には、少しだけ重さがあった。
マスターは受諾の下書きを作り終える。
「返答はこの内容で出します。問題があれば、今日中にロストパラダイス側から戻るでしょう」
「紫苑は何か言ってきそうか」
タチバナが聞く。
マスターは少しだけ考える。
「条件を崩すようなことはしないと思います。今回は、きれいに試したいはずです」
「きれいに、か」
「はい」
マスターは端末を閉じた。
「壊したいのではなく、見たいのでしょう」
紫苑という女を、マスターはそう評した。
タチバナは否定しなかった。
壊したい相手なら、もっと雑に呼ぶ。
使い潰したい相手なら、日程も報酬も荒くなる。
今回の依頼は違う。
丁寧に用意された試験だった。
だからこそ、軽くない。
ユウは水を飲んだ。
冷たい。
スマートリンクの補助線は、銀月の薄い照明の輪郭を少しだけ拾っている。
まだ邪魔だ。
けれど、ここでは切らない。
使えるものは、慣らす。
信用も同じなのかもしれない。
一つの仕事で得て、次の仕事で試される。
崩さず返して、ようやく少し残る。
タチバナが立ち上がった。
「帰るぞ」
「ああ」
ユウも立つ。
マスターが静かに言った。
「ユウさん」
ユウは振り返る。
「個人指名は、嬉しがるものでも、怖がるものでもありません」
マスターはいつもの落ち着いた表情で続ける。
「返すものです」
ユウは少しだけ考えた。
「仕事をか」
「信用を、です」
銀月の奥で、その言葉だけが静かに残った。
ユウは頷く。
「返す」
タチバナはそれを聞いて、何も言わなかった。
ただ、先に歩き出す。
ユウはその後に続いた。
銀月のカウンターでは、氷が小さく鳴っていた。
外へ出れば、下層の空気が待っている。
三日後には、ロストパラダイスの新人たちと、灰狼と、コボルトのいる外縁部へ行くだけだ。




