個人指名
翌日の午後。
ユウの部屋の扉は、開いていた。
閉まっていない。
それだけで、廊下に立つラヘルの心持ちは少し違った。
昨日の夜、ユイが当たり前のようにこの部屋へ向かおうとした時、ラヘルは思わず止めた。
その反応は間違っていなかったと、サエにも言われた。
だから今日は、扉が開いている。
開いているのだが。
ユイは普通に部屋の中にいた。
小さな盆に飲み物を二つ乗せ、先日置いたばかりのテーブルの上へ丁寧に並べている。
ユウは床に座っていた。
壁を背にして、片膝を立てている。
側頭部の保護材はまだ残っているが、昨日より顔色はましだった。
部屋の中は、以前より少しだけ物が増えていた。
ベッド。
棚。
テーブル。
ユイが置いた小さな飾り物。
それでも、普通の部屋と呼ぶにはまだ足りない。
生活感というより、生活を始めようとしている途中の場所だった。
ユイはテーブルの位置を少しだけ動かす。
「この辺りなら邪魔にならないと思うんです」
ユウはテーブルを見る。
「邪魔じゃない」
「それは良かったです」
ユイは少し嬉しそうに頷く。
「飲み物も置けますし、端末も置けます。床に置くよりずっといいです」
「床でも置ける」
「そういう問題ではありません」
「置けるだろ」
「置けますけど、そういう問題ではありません」
ユイは当然のように言い切った。
ラヘルは廊下から、そのやり取りを見ていた。
入っていいのか。
入らない方がいいのか。
扉は開いている。
時間は昼だ。
ユイもいる。
サエも下にいる。
理屈の上では、問題ないはずだった。
けれど、昨日のことを思い出すと、どうにも一歩が重い。
ユイがこちらを振り返った。
「ラヘルさんも、どうぞ」
「いえ、私は……こちらで」
ラヘルは廊下側に立ったまま、軽く手を添える。
ユイは不思議そうに首を傾げた。
「扉、開いてますよ?」
「はい。開いていますね」
「昼ですし」
「はい。昼ですね」
「では、大丈夫では?」
ラヘルは少しだけ言葉に詰まった。
大丈夫ではある。
あるのだろう。
この家の基準では。
「……私は、ここで聞いております」
「そうですか?」
ユイは納得していない顔だったが、それ以上は押さなかった。
ユウは特に気にした様子もない。
ラヘルが廊下にいようと、部屋に入ろうと、ユウにとっては大した違いではないのだろう。
それが少しだけ悔しいような、助かるような気もした。
ユイは改めてテーブルの上の飲み物を整えた。
「それで、ラヘルさんの物を買いに行かないといけないと思うんです」
ラヘルは背筋を伸ばす。
「私の、ですか」
「はい。服と、靴と、日用品です」
ユイは指を折って数える。
「今の服も悪くはないんですけど、少し目立ちますし。あと、部屋に置くものも足りないと思います。タオルとか、替えの服とか、細かいものも」
ラヘルは自分の服へ視線を落とした。
上層から逃げてきた時ほどではない。
今は少し整えられている。
それでも、下層の中では浮く。
髪の色と立ち振る舞い、服の質や靴の形。
隠せていないものが多すぎる。
ユウが言った。
「靴は先だな」
ラヘルは顔を上げる。
「靴、ですか」
「走れない靴は駄目だ」
短い。
だが、いつものように悪意はなかった。
ユイも頷く。
「そうですね。下層だと、走れることは大事です」
「髪も隠した方がいい」
ユウは続けた。
「その色は目立つ」
ラヘルは自分の薄い髪に指先で少しだけ触れた。
分かっている。
分かっているが、実際にそう言われると、胸の奥が少しだけ硬くなる。
上層では、この髪は家の血筋や育ちを示すものだった。
手入れされ、見せるものだった。
ここでは、危険札になる。
隠すものになる。
ユイはそれに気づいたのか、少しだけ声を柔らかくした。
「帽子か、フードのある服がいいと思います。私も普段は帽子で隠していますし」
「ユイさんも」
「はい。髪が長いと危ないので」
ユイは自分の帽子に軽く触れる。
「ラヘルさんも、慣れるまでは目立たない方がいいです」
ラヘルは小さく頷いた。
「分かりました」
分かりました。
そう答えることはできる。
けれど、自分がまた一つ、下層に合わせて形を変えていくのだという感覚は残った。
それを受け止める前に、ユイは明るく続ける。
「服はミズキさんのお店がいいと思います。あそこなら、下層向けの服も色々ありますし」
ユウが少しだけ目を動かす。
「女物もある」
「ありますよ」
「売れないやつが」
「言い方」
ユイが少し眉を寄せる。
ユウは淡々と続けた。
「売れ残ってるなら安いだろ」
「そういう見方は間違ってはいませんけど、もう少し言い方があります」
「安いならいい」
「良くないです」
ラヘルは思わず小さく息を漏らした。
笑った、というほどではない。
けれど、少しだけ力が抜けた。
ユイはそれに気づいて、少し嬉しそうにする。
「あと、ラヘルさんの部屋にもテーブルか棚が必要だと思います」
「いえ、私はそこまで」
「必要です」
ユイはきっぱり言った。
「物を床に置くことになります」
「床でも置ける」
ユウが言う。
ユイは即座に振り返る。
「ユウは黙っていてください」
「……」
ユウは黙った。
ラヘルは今度こそ少しだけ目を瞬かせた。
ユイが、ユウを黙らせた。
しかも、かなり自然に。
ユウもそれに特に反発しない。
この家の距離感は、やはり少しおかしい。
おかしいが、嫌なものではなかった。
その時、廊下の向こうから足音がした。
軽いが、迷いのない足音。
サエだった。
階段を上がってきたサエは、開いた扉の前で一度立ち止まる。
部屋の中にユイ。
床に座るユウ。
テーブルの上の飲み物。
廊下に立ったまま会話に参加しているラヘル。
それらを見て、サエは一拍だけ沈黙した。
「……扉が開いてるだけ、昨日よりましね」
ラヘルは少しだけ視線を逸らした。
ユイは不思議そうに言う。
「開けてます」
「そうね。開けてるわね」
サエはそれ以上深追いしなかった。
ただ、すぐに表情を変える。
仕事の顔だった。
「ユウ」
ユウが顔を上げる。
「銀月から連絡」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
ユイも手を止める。
ラヘルも廊下で姿勢を正す。
サエは続けた。
「あんたに指名依頼が来てる」
ユウは一拍だけ黙った。
「俺に?」
「そう」
サエは端末を軽く掲げる。
「タチバナのファミリー宛てじゃない。ユウ個人への指名」
ユイの表情が変わった。
ラヘルも、胸の奥が小さく鳴ったような気がした。
ユウ個人。
その言葉だけで、さっきまでの買い物の話が遠ざかる。
「依頼主は」
ユウが聞く。
サエは少しだけ目を細めた。
「ロストパラダイス」
ユイの指が、わずかに止まった。
ロストパラダイス。
その名前は、彼女にとって良い響きではない。
かつて店内で浴びた視線。
下卑た声。
自分が何も分かっていなかったこと。
ユウに引き寄せられ、守られたこと。
そういうものが、一瞬で戻ってきたように、ユイの顔が固くなる。
ラヘルはロストパラダイスを直接深くは知らない。
けれど、名前だけは知っている。
銀月とは違う、欲と消費の店。
紫苑という女主人のいる場所。
そこから、ユウ個人へ指名が来た。
サエは端末を確認しながら言う。
「詳しい内容は銀月で聞く。マスター経由。タチバナにも連絡は行ってるはず」
「行く」
ユウは短く言って立ち上がった。
ユイも反射的に一歩前へ出る。
「私も」
サエがすぐに遮った。
「呼ばれてるのはユウだけ」
その言葉は、静かだった。
けれど、はっきりと線を引いた。
ユイの動きが止まる。
「でも、銀月なら」
「銀月までは行けるわ。でも、依頼の席に呼ばれてるのはユウ」
サエはユイを見る。
「今回は、ユウ個人の指名」
ユイは口を開きかけた。
けれど、言葉が出ない。
登録上、自分もロストではある。
タチバナの娘であり、応急処置も、簡単なサイバネメンテも教わっている。
それでも、呼ばれているのはユウだった。
ユウだけ。
ラヘルは廊下に立ったまま、その事実を飲み込んでいた。
自分も当然、呼ばれていない。
それは分かる。
自分はロストではない。
荒事の現場に立てるわけでもない。
まだ下層の服や靴をどうするか話していたばかりだ。
分かる。
分かるが、ユウだけがまた次へ進む感覚は、胸の奥に静かに刺さった。
ユウはその二人の変化に気づいたのか、気づいていないのか。
テーブルの横に置いていたジャケットを取る。
「サエ」
「何」
「スマートリンク、まだ邪魔だ」
「でしょうね」
「でも使える」
「それは聞いた」
サエは小さく息を吐く。
「だからって、無茶しないこと。依頼内容を聞くだけなら、余計なことはしない」
「分かってる」
サエはじっと見る。
「分かった顔ではあるわね。昨日よりは」
「……」
ユウは何も返さなかった。
ユイはまだ迷っている顔だった。
「銀月までなら、私も」
サエは少しだけ表情を柔らかくした。
「ユイ。今回は待ってなさい」
「でも」
「ロスパラからの個人指名よ。最初の話を聞く段階から、ユウ個人として扱われる」
その言葉が、さらに線を太くする。
ユウ個人として扱われる。
ファミリーの一人ではなく。
タチバナの付き添いでもなく。
ユイの護衛でもなく。
ユウが、ユウとして呼ばれている。
ユイは小さく息を吸った。
それでも、すぐには頷けなかった。
ラヘルはその横顔を見ていた。
ユイも、自分と同じように線の外にいる。
けれど、ユイは自分よりずっと近い場所にいるはずだった。
ユウの部屋に飲み物を持ってくる。
食事を出す。
ちゃんと寝るか確認する。
距離が近い。
それでも、この仕事には呼ばれない。
その事実は、ラヘルにとっても冷たかった。
ユウは扉の方へ歩く。
廊下にいるラヘルの前を通る直前、少しだけ足を止めた。
「買い物は、後で行け」
ラヘルは一瞬、反応が遅れた。
「……はい」
「靴は先だ」
それだけ言って、ユウは廊下へ出る。
ラヘルは、返す言葉を失った。
彼は、覚えていた。
さっきまで話していたことを。
自分に必要なものを。
それなのに、今はもう別の仕事へ向かう。
近いのか、遠いのか分からない。
ユイが小さく言った。
「気をつけてください」
ユウは振り返らずに答える。
「ああ」
サエが続く。
「銀月で勝手に受ける前に、内容を確認すること」
「ああ」
「タチバナと話してから」
「ああ」
「返事が全部同じ」
ユウは少しだけ面倒そうに振り返った。
「聞いてる」
「ならいいわ」
サエはそう言って、階段の方を示した。
ユウはそのまま降りていく。
足音が遠ざかる。
部屋には、飲み物が一つ残っていた。
テーブルの上で、まだ少しだけ湯気を立てている。
ユイはそれを見ていた。
ラヘルも、廊下に立ったまま見る。
さっきまで、ここではラヘルの服や靴の話をしていた。
新しいテーブルの使い勝手を確認していた。
少しだけ穏やかだった。
けれど、一本の連絡で空気は変わった。
ユウだけが呼ばれる。
ユウだけが評価される。
ユウだけが、次の仕事へ進む。
サエは二人を見て、小さく息を吐く。
「……買い物の話は、後で続きにしましょう」
ユイは静かに頷いた。
「はい」
ラヘルも、少し遅れて頷く。
「はい」
廊下の先では、もうユウの足音は聞こえなかった。




