当たり前のように
ラヘルは、リビングの空気が少しだけ緩んだのを感じていた。
ユウが戻ってきた。
スマートリンクを入れ、慣らしまで済ませて、何事もなかったように椅子に座っている。
ユイは心配していた。
サエは呆れていた。
ユウは、やはり何が問題なのか半分ほど分かっていない顔をしていた。
その光景は、少し不思議だった。
重いはずなのに、どこか日常だった。
ユウの側頭部には、まだ保護材が貼られている。
顔色も良くない。
それでも、本人は「問題ない」と言いかけ、ユイとサエに同時に睨まれて黙った。
ラヘルは、そのやり取りを見ていた。
三花街で評価されたユウ。
報酬を受け取り、すぐに身体へ投資したユウ。
自分だけが通された扉の奥へ入り、翌日には射撃場で慣らしを終えて戻ってきたユウ。
そういうものを見せられ続けた後だったからだろう。
リビングで、水を飲まされているユウの姿は、妙に現実味がなかった。
けれど、ユイにとっては違うらしい。
ユイは水のボトルを受け取ったユウを見て、すぐに言った。
「夕食、食べてください」
ユウはボトルを置く。
「食った」
「何をですか」
「……」
「何をですか」
同じ声だった。
丁寧なのに、逃げ道がない。
ユウは少しだけ目を逸らした。
「少し」
「何を、少しですか」
「……栄養バー」
ユイの目が細くなった。
「それは夕食ではありません」
「腹には入った」
「夕食ではありません」
サエが横で小さく笑いそうになり、咳払いで誤魔化した。
「ユイの言う通りね。術後で撃ってきた人間が、栄養バーだけで済ませるんじゃないわよ」
「撃ったのは少しだ」
「そこじゃない」
ユウは黙った。
反論しても面倒だと判断した顔だった。
ユイはすぐにキッチンへ向かう。
「温めます」
「いい」
「温めます」
「……」
ユウはそれ以上言わなかった。
ラヘルは、そのやり取りを見ているうちに、胸の奥に残っていた重さが少しだけ形を変えるのを感じた。
ユイは怒っている。
けれど、その怒りは責めるためのものではない。
ユウを座らせる。
水を飲ませる。
食べさせる。
休ませる。
それを、まるで当然のようにしている。
ラヘルには、その当然が少し眩しかった。
しばらくして、ユイは温めた食事を運んできた。
深めの器に入ったスープと、柔らかく煮た具材。
それから、少量の飯。
派手なものではない。
けれど、湯気が立っていた。
その湯気が、リビングの光の中でゆっくり揺れる。
ユウは器を見る。
「多い」
「普通です」
「今はいらない」
「食べられる分だけでいいです。でも、食べてください」
ユウは少し黙ったあと、箸を取った。
スープを一口飲む。
熱かったのか、ほんのわずかに動きが止まる。
ユイがすぐに覗き込んだ。
「熱かったですか」
「平気だ」
「ゆっくりでいいです」
「分かってる」
サエがその返事を聞いて、またため息をついた。
「本当に分かってる時だけ言いなさい」
ユウは返事をしなかった。
黙って、少しずつ食べる。
ラヘルは、その姿を見ていた。
視界の端では、ユウの目が時折わずかに動いている。
スマートリンクの補助線がまだ邪魔なのかもしれない。
器の輪郭。
湯気の揺れ。
テーブルの端。
そういうものを、まだ身体に入れたばかりの機械が拾っているのだろう。
それでも、ユウは食べていた。
ユイが見ているから。
サエが見ているから。
この家に戻ってきたから。
外で積まれた信用とは違う。
ここには、別の線がある。
ラヘルは、それをうまく言葉にできなかった。
ユウが食べ終える頃には、リビングの空気はさらに少し緩んでいた。
サエは端末を片付け、ユイは食器を受け取る。
ユウは椅子から立ち上がった。
「寝る」
「ちゃんと寝てください」
ユイが即座に言う。
「寝る」
「信用してません」
「……寝る」
それだけ言って、ユウは二階へ向かった。
階段を上る足取りは、普段より少しだけゆっくりだった。
それでも、止まりはしない。
ユイはそれを見送り、食器を片付け始める。
ラヘルは、ようやく少し息を緩めた。
さっきまで胸の奥にあった重さが、なくなったわけではない。
ユウとの差。
下層での信用。
自分がまだ何も積めていないという感覚。
それは、まだある。
けれど、目の前には食器を洗う音があった。
水の音。
器が触れる小さな音。
サエが端末を閉じる音。
戦闘でも、精算でも、手術でも、射撃でもない。
生活の音だった。
ユイは洗い終えた食器を伏せ、手を拭いた。
そして、何の迷いもなく二階へ向かおうとした。
ラヘルは、一瞬だけ理解が遅れた。
行く。
どこへ。
誰のところへ。
この時間に。
理解した瞬間、上層で叩き込まれた礼儀より先に、顔が動いた。
目が、少しだけ見開かれる。
「待ってください」
思ったより強い声が出た。
ユイが振り返る。
「はい?」
ラヘルは、自分でも驚くくらい真剣にユイを見ていた。
「いま、どちらへ」
「ユウの部屋です」
「……なぜ、当たり前のように?」
ユイはきょとんとした。
本当に、何を不思議がられているのか分からない顔だった。
「ちゃんと寝るか見ないと」
「それは、部屋の前でも確認できます」
「でも、前にも部屋で話したことありますし」
「前に……?」
ラヘルの声が少しだけ硬くなる。
ユイはその反応にも気づかず、首を傾げた。
「はい。心配だったので」
「心配なら、なおさら距離というものが」
「距離?」
サエが横から顔を上げた。
「あー……ユイ」
「はい?」
「ラヘルの反応が普通よ」
ユイは目を瞬かせる。
「え?」
「え、じゃない」
サエは軽く額に手を当てた。
ちょうどその時、階段の上からユウの声が落ちてきた。
「来なくていい」
ユイはすぐに上を見る。
「ちゃんと寝るか見ます」
「寝る」
「信用できません」
「寝る」
「信用できません」
ラヘルは思わず口を挟んだ。
「信用の問題ではありません」
ユイがまた振り返る。
「でも、ユウは言わないと無理します」
「それは分かります」
分かってしまうのが嫌だった。
ラヘルは少し言葉に詰まる。
「ですが、夜に、その、殿方の部屋へ当然のように入るのは……」
ユイはさらに不思議そうな顔をした。
「ユウですよ?」
ラヘルは一瞬、言葉を失った。
その言い方が、すでに少し問題だった。
サエが静かに頷く。
「ユイ、それが駄目」
「駄目なんですか?」
「駄目というか、普通は止められるわね」
ユイは階段の上とラヘルを交互に見る。
「でも、具合が悪くなったら」
「部屋の前で声をかければいい」
サエが言う。
「今日は中には入らない。部屋の前まで」
ユイは少し不満そうにした。
「でも」
「入らない」
「……はい」
階段の上で、ユウが言った。
「来なくていい」
ユイはむっとして上を見る。
「部屋の前までです」
「それもいらない」
「必要です」
「……」
ユウは、それ以上言うのをやめたらしい。
足音が、二階の廊下の奥へ消える。
ユイはラヘルへ向き直った。
「では、部屋の前までにします」
「……はい。それなら、まだ」
まだ何なのか、自分でもよく分からなかった。
ラヘルは少しだけ疲れたように息を吐く。
ユイは真面目な顔で二階へ向かっていく。
その背中に、下心のようなものはない。
本当に心配しているだけなのだろう。
だからこそ、余計に危うい。
サエが小さく呟いた。
「まあ、前よりは進歩かしらね」
ラヘルは思わずサエを見る。
「これで、ですか?」
「中に入らないだけ、進歩よ」
ラヘルは返す言葉を探した。
見つからなかった。
二階から、ユイの声が聞こえる。
「ちゃんと寝てくださいね」
少し間があって、ユウの声。
「寝る」
「電気は?」
「消す」
「無理しませんね?」
「しない」
「頭が痛くなったら?」
「呼ぶ」
「本当に?」
「……呼ぶ」
ユイはそれでようやく納得したらしい。
足音が戻ってくる。
ラヘルはその音を聞きながら、リビングの椅子に座り直した。
重かったはずの胸の奥に、少しだけ別のものが混ざっている。
呆れ。
驚き。
戸惑い。
そして、わずかな温かさ。
この家には、この家の距離がある。
ユイがリビングへ戻ってくる。
「寝るそうです」
サエは笑わずに頷いた。
「でしょうね」
ラヘルは、まだ少しだけ目を見開いたまま、ユイを見る。
ユイは本当に安心した顔をしていた。
その顔を見て、ラヘルは小さく息を吐いた。
三花街の傷跡も、闇医者区画の扉も、スマートリンクの薄い線も、まだ消えてはいない。
けれど、リビングには食事の湯気の名残と、水音の余韻があった。




