線を追うな
昼前になって、クロガネはようやく退院を許可した。
許可、といっても、表の病院のような丁寧なものではない。
「熱はない。炎症も広がってない。吐き気もない。帰っていい」
それだけだった。
ユウは一階へ降りた。
階段の手すりが、視界の端で薄く縁取られる。
線。
まだ邪魔だ。
手すりの輪郭。
階段の段差。
壁の角。
目が見るものに、半拍遅れて薄い補助が重なる。
見えないよりはましだ。
だが、今はまだ自分の感覚ではない。
一階の待合には、昨日とは別の怪我人が座っていた。
腕を押さえている男。
顔を伏せた女。
足元に血の染みた布を置いた若いロスト。
誰もユウを見ない。
ユウも誰も見ない。
受付の女だけが、端末を確認する。
「退院」
ユウが言う。
受付の女は端末を叩き、短く頷いた。
「異常が出たら戻って」
「分かった」
「分かったで戻らない奴が多いのよ」
受付の女はそう言って、もうユウから視線を外した。
それで終わりだった。
ユウは建物を出る。
入口には、クロウが変わらず立っていた。
昨日と同じ位置。
同じ姿勢。
同じ目。
ユウを見て、顎だけを動かす。
「終わったか」
「ああ」
「歩けるな」
「歩ける」
「なら行け」
クロウはそれ以上聞かなかった。
ユウも答えない。
外へ出る。
ガレージストリートの空気が戻ってきた。
油。
鉄。
焼けた肉。
排気。
人の汗。
闇医者区画の内側にあった消毒薬と血の匂いから、下層の生活音へ戻る。
ユウは一度、目を細めた。
光が少しうるさい。
看板の文字。
修理処のシャッター。
通りを横切る男の肩。
路地の角。
視界の端に、薄い線が遅れて浮かぶ。
輪郭を拾おうとしている。
距離を測ろうとしている。
危険を補助しようとしている。
だが、ユウの目が見るより遅い。
邪魔だな。
そう思いながらも、ユウは歩く速度を落とさなかった。
切るほどではない。
慣らせば使える。
そう判断する。
ガンショップへ向かう。
表通りを少し外れ、裏通りへ入る。
昼でも、こちら側の空気は重い。
酒場の前には、まだ人影が薄い。
情報屋へ繋がる奥の席は見えない。
ガンショップの入口には、古い金属製の扉がある。
その輪郭が、視界の端で薄く浮いた。
扉。
取っ手。
カウンターの位置。
奥の暗がり。
補助が拾うより先に、ユウの身体はそこを見ていた。
まだ、自分の方が早い。
ユウは扉を開けた。
古いベルが、小さく鳴る。
ガンショップのカウンターでは、店主がうたた寝していた。
肘をつき、片手で頬を支えたまま、眼鏡の奥の目は閉じている。
店内は静かだった。
だが、ベルの音が終わる前に、店主の目は開いていた。
姿勢は変わらない。
ただ、眼鏡の奥の視線だけがユウへ向く。
欠伸を噛み殺すように口元を動かし、店主は言った。
「……生きてたか」
「生きてる」
ユウは店内へ入る。
カウンターの前に立つ頃には、店主の右手はもうカウンターの下へ落ちていなかった。
寝起きの顔をしている。
だが、射線だけは起きていた。
店主はユウの頬と側頭部の保護材を見る。
「闇医者帰りか」
「ああ」
「傷じゃないな」
「スマートリンクを入れた」
店主はしばらくユウを見た。
眠たそうな目のまま、少しだけ眉を上げる。
「そんなもの必要か?」
ユウは短く答える。
「必要だ」
「目で見て、手で合わせて、撃てばいいだろ」
「それで足りない時がある」
店主は黙った。
その沈黙は、呆れではなかった。
ユウの包帯。
頬のガーゼ。
側頭部の保護材。
そして、三花街で何かがあったこと。
それらをまとめて、店主なりに計算している顔だった。
「……まあ、お前がそう思ったなら、そうなんだろ」
店主は椅子の背にもたれた。
「で」
「地下を使いたい。慣らしだ」
「銃は」
「AR」
「弾は」
「通常弾でいい」
「最初は単発。連射するな」
「リュンにも言われた」
「リュンに言われる程度のことなら、守れ」
店主はカウンター下から鍵を出した。
「補助線を見るな」
ユウは少し目を動かす。
「見るな?」
「追うな、の方が近い」
店主は鍵を持って、奥へ向かう。
「見えてるものを使え。追うと遅れる」
「遅れるのか」
「当たり前だろ。見て、考えて、合わせるなら一手遅い」
店主は振り返らないまま続ける。
「撃つ前にはもう決めてろ。線は確認に使え。命令させるな」
ユウはその言葉を黙って聞いた。
リュンも似たようなことを言っていた。
補助を信じるな。使え。
店主はもっと射撃寄りに言う。
線を追うな。
見えているものを使え。
どちらも、同じことだった。
地下へ続く扉が開く。
冷たい空気が上がってくる。
その頃、アジトでは、ユイが端末を見ていた。
通知はない。
ユウからの連絡は、一度も来ていない。
テーブルの上には、飲みかけの水と、開いたままの応急処置のメモがある。
昨日から、何度も同じ画面を見ていた。
「……まだ、何も」
ユイは小さく言う。
サエは向かいで端末を操作していた。
三花街のログ整理はもうほとんど終わっている。
それでも手を止めないのは、ユイの様子を見ているからでもあった。
「あの子、退院できたらそのまま動くわよ」
ユイは顔を上げる。
「連絡くらい」
「しないわね」
即答だった。
ユイは少しだけ唇を尖らせた。
「するかもしれないじゃないですか」
「しないわね」
「二回言わなくても」
「大事なことだから」
サエは端末から目を上げる。
「ユウにとっては、昨日『明日戻る』って言った時点で連絡済みなのよ」
「それは連絡じゃないです」
「ユイにとってはね」
ユイは反論しようとして、できなかった。
ユウなら、本当にそう考えていそうだった。
明日戻ると言った。
だから、戻ればいい。
途中で何か問題があれば動く。
問題がなければ、連絡する必要はない。
そういう顔が、簡単に想像できてしまう。
ラヘルは少し離れた席に座っていた。
何も言わない。
心配していないわけではない。
ただ、自分が何を言えばいいのか分からなかった。
昨日、ユウだけが通された扉。
クロウの横を抜けて、奥へ消えた背中。
自分はその外に残された。
今も同じだ。
ユウがどうなっているのか分からない。
連絡もない。
待つしかない。
ユイは不安そうにしている。
サエは呆れたようにしながらも、ちゃんと見ている。
自分は、何もできない。
その事実を、ラヘルは静かに受け止めていた。
サエが言う。
「まあ、無事ならそのうち帰ってくるわ」
「無事じゃなかったら?」
ユイが聞く。
サエは少しだけ目を細めた。
「その時はクロガネかリュンから連絡が来る」
それは慰めではない。
ただの事実だった。
ユイは端末を握りしめる。
通知は、まだない。
ガンショップの地下射撃場は、相変わらず狭かった。
コンクリートの壁。
防音材。
的を吊るすレール。
硝煙と金属の匂い。
ユウは射撃台の前に立った。
店主は少し後ろにいる。
右腰には、いつもの.357マグナム。
抜かない。
だが、そこにあるだけで、店主の距離が分かる。
ユウはARを構えた。
視界に線が出る。
銃口の向き。
的の中心。
身体の揺れ。
薄い補助が、視界の端から中心へ寄ってくる。
邪魔だ。
だが、使えるかもしれない。
的は近距離ではない。
慣らしには十分な距離。
店主が言う。
「単発」
「ああ」
「補助を追うな」
ユウは頷く。
銃を肩へ当てる。
頬づけ。
右手。
左手。
肩。
足。
いつもの位置へ身体を置く。
だが、視界に線がある。
線が的の中心へ寄る。
そこへ銃口を合わせたくなる。
ユウは一呼吸置いた。
撃つ。
銃声が地下に響いた。
弾は的に当たった。
外してはいない。
だが、中心ではない。
ほんのわずか、遅れている。
店主が言った。
「線を追ったな」
ユウは的を見たまま答える。
「……ああ」
店主は欠伸を噛み殺す。
「だから言った」
ユウはARを下ろさない。
視界の線が、まだ揺れている。
邪魔だ。
だが、今のは線が悪いのではない。
自分が追った。
ユウはもう一度、息を整える。
店主の声が後ろから飛ぶ。
「次は見るな。見えてるまま撃て」
ユウは頷いた。
今度は返事をしない。
的を見る。
線を見ない。
線があることだけを、視界の端で拾う。
撃つのは、自分だ。
ユウは次の弾を込めた。




