接続
「固定する」
リュンはそう言って、作業椅子の横から器具を引き出した。
金属製ではない。
黒い樹脂と薄い金属フレームを組み合わせた、使い込まれた固定具だった。
ユウは椅子に座ったまま、それを見る。
「必要か」
「必要だ」
リュンは即答した。
「人間は動く」
「動かない」
「動く。怖い時は特に動く」
リュンは淡々と言った。
「お前を信用していないんじゃない。人間の反射を信用していない」
「同じだろ」
「違う。お前個人に興味はない」
それもどうかと思ったが、ユウは黙った。
リュンはユウの頭を左右から固定した。
こめかみの横に、冷たい樹脂の枠が触れる。
顎の下にベルトが回される。
肩と胸も、椅子に軽く押さえられた。
手首も肘置きに固定される。
拘束というより、事故防止だった。
だが、動けないことに変わりはない。
「きついか」
「動かない程度には」
「ならいい」
リュンはユウの側頭部と首の後ろを確認し、端末に何かを打ち込んだ。
「局所麻酔を入れる。少し鎮静もかける。完全には寝かせない」
「なんでだ」
「途中で答えさせるからだ。見えるか、歪むか、吐き気があるか。全部お前の返答が要る」
「分かった」
「分かった奴は、だいたい分かってない」
「どうしろと」
「黙って座ってろ」
リュンは細い注射器を取った。
ユウの首の後ろと、側頭部の近くに冷たい感触が触れる。
針が入る。
痛みは小さい。
だが、目に近い場所を触られているというだけで、身体が勝手に強張った。
リュンはそれを見逃さなかった。
「肩に力を入れるな」
「入れてない」
「入ってる」
「……」
「抜け。固定していても、筋肉が張ると位置がずれる」
ユウは息を細く吐いた。
肩から力を抜く。
抜いたつもりでも、完全には抜けない。
リュンはそれ以上何も言わず、麻酔を続けた。
数分後、側頭部の感覚が鈍くなっていく。
触られていることは分かる。
圧も分かる。
だが、痛みだけが遠い。
リュンはユウの目元へ薄い固定具を下ろした。
視界が狭まる。
左側に、作業灯の白が滲んでいる。
右側はほとんど見えない。
「目を動かすな」
「無茶言うな」
「無茶でも動かすな」
「固定しろ」
「固定してる」
「目は動く」
「だから動かすなと言ってる」
リュンは本気でそう言っていた。
ユウは目を閉じたくなったが、固定具の内側でそれも半端にしかできなかった。
作業灯の白が薄く残る。
「始めるぞ」
リュンの声がした。
器具皿の上で、金属が鳴った。
かちゃ。
小さい音。
それが、妙に近い。
視界が塞がれているせいか、耳だけが勝手に音を拾う。
かちゃ。
少し間を置いて、また、かちゃ。
誰かが器具を渡す声はない。
補助の手もない。
リュンは一人で作業していた。
必要な器具は、すべて自分の届く位置に並べてある。
手を伸ばす。
取る。
置く。
また取る。
そのたびに、耳の横で金属音が鳴った。
「助手は」
ユウが聞く。
「いらない」
「一人でやるのか」
「俺の手順を知らない奴がいる方が邪魔だ」
「そうか」
「喋るな。顎が動く」
ユウは口を閉じた。
側頭部の皮膚が、わずかに引かれる感覚がある。
痛みはない。
だが、何かが自分の頭のすぐ横で開かれていることは分かる。
細い器具が触れる。
金属が皿に戻る。
ケーブルのようなものが擦れる。
視界は白く滲んだまま。
音だけが、近い。
ユウは呼吸を整えようとした。
浅くなる。
自分でも分かった。
リュンの声が降ってくる。
「脈が上がってる。発汗も増えた」
「問題ない」
「ある。汗が側頭部へ流れると邪魔だ」
布が一枚、こめかみの上へ押し当てられた。
「怖くない必要はない。動かない必要がある」
ユウは一度だけ、細く息を吐いた。
「動かない」
「ならいい」
リュンはそれで話を終えた。
安心させる気はない。
ただ、作業に必要な条件だけを告げる。
それは、ある意味では分かりやすかった。
リュンの指先が動く。
何かが差し込まれる感覚。
細い圧。
頭の奥ではなく、皮膚と骨の間を触られているような気持ち悪さ。
痛くはない。
痛くないから平気、とはならない。
耳元で、また器具が鳴る。
かちゃ。
ユウは椅子の肘置きに固定された手を、動かさなかった。
動かせなかった、ではない。
動かさなかった。
動いたら悪くなる。
それだけは分かる。
下層では、怖いからといって暴れても、結果は良くならない。
怖くても、止まる時は止まる。
痛くても、黙る時は黙る。
そうしなければ、余計に悪くなる。
リュンが短く言った。
「接続する」
その直後、視界の奥で何かが走った。
白い作業灯の滲みの端に、細い線が入る。
線。
いや、線というより、情報だった。
色は薄い。
青にも白にも見える。
だが、色として見えているわけではない。
視界の端に、銃口の向きでもない何かが重なる。
ユウは思わず目を動かしかけた。
固定具が、それを止める。
リュンが言う。
「見えたか」
「線」
「色は」
「薄い。白……いや、違う」
「情報として見えてるなら正常だ。歪むか」
「少し」
「どこが」
「右上」
「想定内」
リュンは端末を叩く。
「吐き気は」
「ない」
「頭痛」
「少し」
「それも想定内」
「想定内が多いな」
「想定外を言われたら困る」
リュンはそう言って、また作業へ戻った。
視界の線は、消えたり、薄く戻ったりした。
目を動かしていないのに、視界の奥で何かが勝手に調整されている。
気持ち悪い。
便利かどうかは、まだ分からない。
ただ、自分の目に、自分以外の情報が入ってきている。
その感覚だけがあった。
リュンはさらに何度か確認を続けた。
「線は濃いか」
「薄い」
「今、消えたか」
「消えた」
「戻す」
視界の端に、また線が戻る。
「強すぎると邪魔だ。最初は薄いくらいでいい」
「最初から綺麗な方がいいんじゃないのか」
「最初から綺麗に見える方が危ない。身体が補助を自分の感覚だと勘違いする」
「それで」
「補助に身体を合わせる。そういう奴から死ぬ」
リュンは端末を操作する。
「身体に補助を合わせろ。逆にするな」
ユウは黙って聞いた。
それは、少しだけ分かる気がした。
銃は自分で撃つ。
動くのも自分だ。
線が出るから撃つのではない。
撃つ時に、線を使う。
順番を間違えれば、死ぬ。
リュンは最後の器具を置いた。
かちゃ、と音が鳴る。
「終わりか」
「取り付けはな」
リュンは固定具をすぐには外さなかった。
「初期反応を見る。急に動かすな。目もゆっくり動かせ」
「分かった」
「また分かったと言ったな」
「他に何て言えばいい」
「何も言うな」
リュンは固定具を少し緩めた。
ユウの視界が広がる。
作業灯の白が、強く目に入った。
その白の上に、薄い線が重なっている。
まっすぐではない。
呼吸に合わせて、少しだけ揺れる。
自分の視界ではないものが、そこにある。
ユウは眉を寄せた。
「邪魔だな」
「正常だ」
リュンはそう言った。
「邪魔じゃなくなったら、慣れたってことだ」
「どれくらいかかる」
「人による」
「役に立たない答えだな」
「正確な答えだ」
リュンは固定を外し、ユウの首元と側頭部を確認する。
小さな保護材を貼り、上から薄いガーゼを当てた。
「今日は撃つな」
「撃たない」
「走るな」
「走らない」
「喧嘩するな」
「しない」
「全部、信用してない」
「なら聞くな」
「記録だ」
リュンは端末に入力した。
「二階へ行け。観察用のベッドを使う。夜中に吐き気、視界ノイズ、熱、痺れが出たら呼べ」
「誰を」
「呼び出し端末がある。押せば誰か来る」
「リュンが来るのか」
「症状による。機械なら俺。肉ならクロガネ」
「分かった」
リュンは少しだけ顔をしかめた。
「その返事、やめろ」
ユウは返事をしなかった。
それにはリュンも何も言わなかった。
二階へ上がる階段は、工房の横の通路から続いていた。
リュンに案内され、ユウはゆっくり立ち上がる。
足元が少しだけ浮くような感覚があった。
視界の端に薄い線が残っている。
それが、段差を拾うようにわずかに動いた。
気持ち悪い。
だが、見えないよりはましだった。
二階は病室だった。
正確には、病室というほど整ってはいない。
白い壁。
細いベッド。
簡易モニター。
呼び出し端末。
薄いカーテン。
それだけの部屋が、いくつか並んでいる。
ここは、治すための場所というより、帰すと危ない客を一晩置いておく場所だった。
隣の部屋から、誰かの低い呻き声が聞こえる。
階下からは、器具の音と受付の声がかすかに上がってくる。
静かではない。
だが、下層の外よりは安全だった。
リュンは一つのベッドを顎で示す。
「寝ろ」
ユウはベッドに腰を下ろした。
「明日の朝、先に俺が見る。その後クロガネだ」
「分かった」
「……」
リュンは何か言いかけたが、やめた。
「寝ろ」
そう言って、部屋を出て行った。
ユウは横になった。
天井を見る。
天井の隅に、薄い照明がある。
その周りに、また線が滲んだ。
視界の補助が、物の輪郭を拾おうとしているのかもしれない。
あるいは、ただの初期ノイズかもしれない。
目を閉じる。
閉じても、線の残像が残る。
薄く、奥に。
眠りは浅かった。
何度か目を覚ました。
そのたびに、視界の端に違和感があった。
頭痛は強くない。
吐き気もない。
だが、自分の中に何かが増えた感覚だけは消えない。
夜中、一度だけ呼び出し端末に手を伸ばしかけた。
けれど、止めた。
痛いわけではない。
熱もない。
視界が歪み続けているわけでもない。
呼ぶ理由にはならない。
ユウは手を戻し、また目を閉じた。
次に目を覚ました時、薄い朝の灯りがカーテン越しに入っていた。
下層の朝は、綺麗ではない。
それでも、夜よりは少しだけ明るい。
扉が開く。
リュンが入ってきた。
昨日と同じツナギ姿。
髪は相変わらず雑に束ねている。
手には端末と、細い診断プローブ。
「起きてるな」
「今起きた」
「寝られたか」
「少し」
「吐き気」
「ない」
「頭痛」
「少し」
「視界ノイズ」
「右上が滲む」
「濃さは」
「薄い」
「線は消えるか」
「目を動かすと少し遅れる」
リュンは端末に入力していく。
「想定内」
「便利な言葉だな」
「実際そうだ」
リュンはユウの側頭部に診断プローブを当てた。
冷たい。
小さな電子音が鳴る。
「リンクは通ってる。初期補正は弱め。反射補強との干渉も出てない」
「使えるか」
「撃ってみないと分からない」
「おい」
「ここで銃は撃てない」
リュンは当然のように言った。
「ただ、機械側は問題ない。慣らしは必要だ。最初は補助を信じるな」
「使うなってことか」
「違う。信じるな。使え」
ユウはその言葉を少しだけ考えた。
「分かった」
リュンは顔をしかめる。
「その返事は嫌いだ」
「使う。信じない」
「それでいい」
リュンはプローブを外した。
「次、クロガネ」
「ここで見るのか」
「降りろ。あいつは肉を見る」
ユウはベッドから起き上がった。
立った瞬間、視界の線が床の輪郭を拾う。
一瞬、足元が近く見えた。
ユウは眉を寄せる。
リュンが言う。
「急に頭を振るな」
「振ってない」
「振った」
「少しだ」
「少しでも振るな」
そのまま一階へ降りる。
階段の途中、視界の端に手すりの線が浮いた。
薄い。
邪魔だ。
だが、慣れれば使えるかもしれない。
クロガネの診察室に入ると、匂いが変わった。
機械油ではない。
消毒薬。
薬品。
血を拭った後の匂い。
クロガネは机の横に立っていた。
年齢は分かりにくい。
表情は薄い。
白衣らしいものは着ているが、清潔な病院の医者というより、何度も洗って色の落ちた作業衣に近い。
クロガネはユウを見る。
「座れ」
ユウは椅子に座った。
リュンは壁際に立つ。
クロガネはユウの側頭部と首の後ろを見た。
ガーゼを少し外し、炎症を確認する。
指先で周囲を押す。
「痛み」
「少し」
「どの程度」
「動ける」
クロガネの目が少し細くなる。
「動けるかは聞いていない。痛みを聞いている」
ユウは一拍黙った。
「鈍い。強くはない」
「熱は」
「ない」
クロガネは体温を確認する。
「微熱もない。炎症は軽い。出血も止まっている」
次に、ユウの目の動き、反応、手指の動きを見る。
「痺れ」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「視界の歪み」
「少し」
「リュン」
クロガネが壁際を見る。
リュンは端末を見たまま答えた。
「機械側は想定内。補正は弱め。干渉なし」
「ならいい」
クロガネはガーゼを戻し、新しい保護材を貼った。
「今日一日は無茶をするな」
「分かった」
クロガネはユウを見た。
「分かった顔ではないな」
「……」
「走るな。撃つな。喧嘩するな。酒は飲むな。強い光を見るな。視界が歪んだら戻ってこい」
リュンが横から言う。
「撃つなは無理だ。慣らしは必要だ」
クロガネがリュンを見る。
「今日か」
「弱い補助なら早い方がいい。暴れるのは駄目だ。試射は要る」
クロガネは少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「なら、撃つなら管理された場所で短くやれ。長く撃つな。連射するな。気分が悪くなったらやめろ」
ユウは頷く。
「分かった」
クロガネとリュンが、ほとんど同時にユウを見た。
信用していない顔だった。
ユウは言い直した。
「短くやる。気分が悪くなったらやめる」
クロガネはようやく視線を外した。
「それでいい」
リュンも端末を閉じる。
「機械側は問題ない。保証はしないが、失敗はしてない」
「保証しろ」
「闇医者区画で保証を求めるな」
クロガネが静かに言う。
「保証の代わりに、失敗しないようにやる。それだけだ」
ユウは頷いた。
それは、この場所らしい言葉だった。
クロガネは診察記録を閉じる。
「昼まで様子を見ろ。問題なければ帰っていい」
リュンがユウへ視線を向ける。
「線が濃くなったら呼べ。消えたらもっと呼べ」
「消えた方がいいんじゃないのか」
「繋がってるものが勝手に消えるのは、切れてるか落ちてるかだ」
「分かった」
リュンは顔をしかめたが、今度は何も言わなかった。
ユウは椅子から立ち上がる。
視界の端に、クロガネの机の輪郭が薄く重なる。
まだ邪魔だ。
まだ自分の感覚ではない。
だが、繋がっている。
ユウはそれを確認して、短く息を吐いた。
スマートリンクは入った。
あとは、使えるようにするだけだった。




