奥の工房
クロウの横を抜けると、外の音が一段遠ざかった。
扉が閉まる。
それだけで、ガレージストリートの雑音が薄くなる。
代わりに、消毒薬の匂いがした。
古い建物だった。
外から見れば、ただの薄汚れた雑居ビルに近い。
だが中は、下層の建物にしては余計な物が少なかった。
入口のすぐ奥には、受付がある。
薄い樹脂板で区切られた窓口。
その奥に、三十代ほどの女が座っていた。
白衣ではない。
黒い上着。
端末用の薄い手袋。
耳に小さな通信端子。
顔色の悪い客が入ってきても、驚くことも眉をひそめることもない顔だった。
待合の両側には、数人の怪我人が座っていた。
腕を布で吊った男。
腹を押さえて浅く息をしている女。
顔の半分を包帯で巻いた若いロスト。
誰も、互いを見ない。
目が合いそうになる前に逸らす。
知っている顔がいても、見なかったことにする。
ここでは、それが礼儀だった。
何をされたのか。
誰にやられたのか。
どこで怪我をしたのか。
何を入れに来たのか。
聞かない。
聞かれない。
そういう場所だから、人が来る。
ユウは受付へ歩いた。
受付の女が端末から目を上げる。
ユウの顔を見る。
次に、頬のガーゼと腕の包帯を見る。
「診察?」
「違う」
「じゃあ」
「リュン」
受付の女は、それ以上聞かなかった。
端末に何かを打ち込む。
それから、顎だけで奥の通路を示した。
「奥」
ユウは頷き、通路へ進む。
背後で、待合の誰かが咳をした。
湿った音だった。
それでも、誰も振り向かない。
通路は狭い。
壁には古い配管と、後から増設されたケーブルが這っている。
床は清掃されているが、染みは消えきっていない。
消毒薬の匂いの奥に、血と焼けた樹脂の匂いが混じっていた。
手前に、クロガネの診察室がある。
扉は半分閉まっていた。
中から、金属の器具を置く硬い音が漏れる。
それから、低い声。
「動くな。縫いにくい」
短い悲鳴が上がった。
すぐに止まる。
クロガネの声が続く。
「叫ぶなら終わってからにしろ。今動くと曲がる」
ユウは足を止めなかった。
診察室の前を通り過ぎる。
その奥で、匂いが変わった。
消毒薬が薄くなる。
代わりに強くなるのは、機械油。
金属粉。
焼けた基板。
樹脂と古いケーブルの匂い。
医療の奥にある、整備の匂い。
リュンの工房だった。
扉は少し開いていた。
中では、作業灯だけが白く点いている。
ユウは扉を押して入った。
リュンは作業台に向かっていた。
くすんだ灰色のツナギを着ている。
袖は肘までまくり、胸ポケットには細いドライバーと端子ブラシ。
腰には工具ポーチ。
片目には、跳ね上げ式の拡大レンズが下りていた。
髪は長い。
だが、整えた長髪ではない。
切るのを後回しにしているうちに伸びたものを、作業の邪魔にならないよう後ろで雑に束ねているだけだ。
ところどころ跳ね、油と金属粉の匂いが染みついている。
医者には見えない。
人間を診る者ではなく、人間に入った部品を診る者の格好だった。
作業台の上には、開かれた義手が置かれていた。
外装を外され、関節部を露出している。
細いケーブルが何本も浮き、指の基部に小さな端子が並んでいた。
リュンはピンセットで、その端子の汚れを取っている。
ユウが入っても、顔を上げない。
作業台の端で、小さなモーターが低く唸っている。
ユウは少し待った。
リュンは気づかない。
「リュン」
声をかける。
そこでようやく、ピンセットの先が止まった。
リュンは顔を上げないまま言う。
「……反射補強のガキか」
「ユウだ」
「知ってる。俺の棚では反射補強だ」
「名前で覚えろ」
「必要ならな」
リュンはピンセットを置いた。
拡大レンズを跳ね上げ、ようやくユウを見る。
視線は顔ではなく、まず首筋、腕、肩、歩き方へ向かった。
「前の反射補強は生きてるな。歩幅も崩れてない。腕は怪我か」
「掠っただけだ」
「それはクロガネに言え。俺は線を見る」
リュンは椅子を少し回した。
「今日はどこを壊した」
「壊してない」
「じゃあ、どこを増やす」
ユウは短く言った。
「スマートリンク」
リュンの目が少しだけ動いた。
興味を持ったというより、棚の中の部品配置を思い出したような反応だった。
「銃は」
「AR」
「SMGは」
「使う」
「メインを変える途中か」
「必要になった」
「昨日の件か」
ユウは答えなかった。
リュンも深くは聞かない。
聞く必要がないことは聞かない。
ここでは、それが普通だった。
リュンは端末を引き寄せ、指でいくつかの項目を払った。
「身体側の端子は前に入れたやつで足りる。反射補強と干渉しないように補正を弱める。視界投影は薄くする。強く出すと邪魔だ」
「邪魔なのか」
「最初はな。自分の目と銃の目が喧嘩する」
リュンは端末をユウへ向けた。
そこに、古い企業ロゴと型番が表示されている。
「企業製の型落ちだ」
「最新じゃないのか」
「最新が欲しいなら中層へ行け。金も桁が増える」
リュンは淡々と言う。
「これは新しくない。だが枯れてる」
「枯れてる?」
「動作が安定してるって意味だ。変な癖が少ない。部品もまだ拾える。下層で使うなら、最新よりこっちの方がマシなこともある」
ユウは端末の表示を見る。
スマートリンク本体。
視覚補助モジュール。
銃器認証パッチ。
神経接続調整。
一晩観察。
項目が並んでいる。
「値段は」
リュンは数字を出した。
下層なら、二ヶ月は暮らせる額だった。
安くはない。
だが、払えない額ではない。
三花街の報酬がある。
ユウは数字を見て、短く息を吐いた。
「足りるな」
「足りないなら帰れ」
「払う」
「先払いだ」
「分かってる」
ユウは端末を出し、キャッシュデータを送る。
リュンは着金だけ確認した。
金額。
認証。
完了。
それ以上、何も言わない。
端末を脇へ置く。
「足りてる。じゃあ座れ」
ユウは作業椅子へ座った。
リュンはその周囲にある器具を動かし始める。
作業台の義手は、布をかけられて横へ押しやられた。
代わりに、細い接続ケーブル、視界投影用の小型モジュール、神経診断用の針のような端子が並ぶ。
「入れる場所は首の後ろと、側頭部の補助線。目は弄らない。視界には電脳側から載せる」
「撃てるようになるか」
「勘違いするな」
リュンは即座に言った。
「撃つのはお前だ。これは銃と目と神経のズレを減らすだけだ。下手な奴が入れても、下手なままだ」
「それでいい」
「ならいい」
リュンはユウの首元を見る。
「前の反射補強、変な熱は出てないな」
「ない」
「頭痛」
「ない」
「視界ノイズ」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「感情減衰は」
ユウは少しだけ目を動かした。
「分からない」
「周りに聞け。本人は気づかない」
リュンはそう言って、端末に記録した。
「お前は減りにくい方だったな」
「そうらしい」
「下層にしては珍しい。部品が喧嘩しにくいのは助かる」
「俺じゃなくて部品か」
「身体も部品だ。違うのか」
ユウは答えなかった。
リュンにとっては、冗談でも挑発でもないのだろう。
そう見ている。
人間を、肉と神経と端子と補助線の集まりとして見ている。
だから腕は信用できる。
余計な感情を挟まない。
リュンは引き出しを漁り、何かを取り出す。
下層では、部品は袋に詰めて引き出しへ放り込まれていても珍しくない。
だが、それは黒い樹脂製のケースに収められていた。
内側には古い緩衝材が入り、端子には小さな保護キャップまで付いている。
型落ちではある。
それでも、ジャンクではないことが分かる。
「これか」
「型落ちだが、悪くない」
「何年落ちだ」
「聞いてどうする」
「聞いただけだ」
「聞くな。使える」
リュンはケースを閉じる。
「入れるだけならすぐ終わる」
ユウを見る。
「使えるようにするなら、一晩だ」
「泊まる」
「二階に観察用のベッドがある。入院ってほどじゃない。帰すと倒れるかもしれない奴を置く階だ」
「分かった」
「術後、視界に線が出る。最初は気持ち悪い。吐く奴もいる」
「吐かない」
「吐くかどうかは身体が決める。口で決めるな」
リュンは器具を並べ終えた。
「あと、明日はクロガネの確認も通せ。熱、炎症、神経の過負荷。俺は部品を見る。あいつは肉を見る」
「クロガネが聞いたら怒るぞ」
「クロガネが客に優しかったことがあるか」
ユウは一拍置いた。
「ないな」
「なら問題ない」
リュンはそう言って、作業灯の角度を変えた。
白い光が、ユウの首元を照らす。
工房の外から、かすかに診察室の音が聞こえる。
器具を置く音。
低い声。
誰かが息を詰める音。
その上には、二階の病室がある。
重傷者。
縫合後の客。
サイバネ調整後に熱を出した客。
帰せば死ぬかもしれない人間を、一晩だけ置いておく場所。
その下の一階奥で、ユウは椅子に座っていた。
リュンが手袋を片方だけ替える。
「最後に確認する」
「何を」
「金は払った。戻さない」
「分かってる」
「スマートリンクは万能じゃない。お前の目と銃のズレを減らすだけだ。反応が上がった気になる奴ほど死ぬ」
「分かった」
「分かってない奴はだいたいそう言う」
「じゃあ何て言えばいい」
「黙って座ってろ」
ユウは黙った。
リュンは満足したように、小さく頷く。
「よし」
作業灯がさらに白くなる。
リュンは器具を手に取った。
「始めるぞ」




