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銀月のロスト  作者: taka
第16章 残った傷跡

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足りる理由

 三花街を出る頃には、外の空気が少しだけ変わっていた。


 花街の中にあった管理灯の白さ。


 店の看板の赤。


 香料と酒の匂い。


 それらが、車の扉を閉めた瞬間に一枚遠ざかる。


 代わりに入ってくるのは、下層の湿った空気だった。


 レンジが運転席に座り、エンジンを入れる。


 タチバナは助手席。


 後部には、サエ、ユイ、ラヘル、ユウが乗った。


 ユウは扉側に座っていた。


 頬にはまだガーゼがあり、腕の包帯も残っている。


 けれど本人は、それを気にした様子もなく、窓の外を見ていた。


 車が動き出す。


 三花街の壁が後ろへ流れていく。


 堀。


 橋。


 門。


 詰所。


 その上のサーチライト。


 一週間近く見ていた景色なのに、外へ出ると少し違って見えた。


 ユイは膝の上で手を重ねていた。


 任務が終わった。


 その言葉には、少しだけ安心がある。


 でも、それだけではない。


 補助扉の傷。


 白い布。


 ユウの血。


 用心棒たちの声。


 報酬額。


 いろいろなものがまだ頭の中でほどけずに残っている。


 ラヘルは静かだった。


 車の振動に合わせて、わずかに肩が揺れている。


 けれど、視線は窓の外ではなく、自分の膝のあたりへ落ちていた。


 サエは端末を閉じ、軽く目を揉んだ。


「……しばらくログは見たくないわね」


 レンジが前から答える。


「俺もしばらく壁上はいいっす」


「次も呼ばれたら?」


「行きますけどね」


「でしょうね」


 サエは短く息を吐いた。


 タチバナは黙って外を見ている。


 疲れていないわけではない。


 ただ、それを顔に出しても何も変わらない。


 そういう顔だった。


 車内に少しだけ沈黙が落ちる。


 その中で、ユウが口を開いた。


「レンジ」


「何すか」


「闇医者区画の前で降ろしてくれ」


 ユイが顔を上げた。


「え」


 レンジも、少しだけミラーを見る。


「怪我、開いたんすか?」


「違う」


 ユイの手が、反射的にユウの腕へ向きかける。


「傷、痛むんですか」


「違う」


「でも、闇医者って」


「リュンに用がある」


 ユイは少しだけ眉を寄せた。


「リュンさん……?」


 サエが答えた。


「サイバネ屋よ。クロガネの奥にいる」


 ユイの顔が変わる。


「サイバネ……?」


 ユウは窓の外を見たまま言った。


「スマートリンクを入れる」


 車内が、一瞬だけ静かになった。


 レンジが小さく口笛を吹く。


「報酬、右から左じゃないっすか」


「必要だ」


「まあ、昨日みたいなの見た後だと、否定はできないっすね」


 タチバナがユウを見る。


「今か」


「金がある」


「一晩泊まれ」


「分かってる」


 サエがすぐに言った。


「分かってない顔ね」


「泊まる」


「術後すぐ動く気なら止めるわよ」


「動けるなら動く」


「止めるわよ」


 ユウはそれ以上言わなかった。


 ユイは、話についていくのが少し遅れた。


 スマートリンク。


 銃と身体を繋げるための改造。


 照準補助。


 視界との連動。


 銃口の向きと、自分の感覚を合わせるためのもの。


 言葉としては、聞いたことがある。


 けれど、それを今からユウが身体に入れるのだと理解すると、喉の奥が少し詰まった。


「危なく、ないんですか」


 ユイが聞く。


 ユウは短く答える。


「危ない」


 その答えに、ユイは言葉を失う。


 サエが補う。


「何を入れてもリスクはあるわ。拒絶反応、視界ノイズ、頭痛、吐き気、リンク不良。だから一晩見るのよ」


「でも」


「入れないリスクもある」


 タチバナが言った。


 ユイは助手席の方を見る。


 タチバナは前を向いたまま続ける。


「昨日みたいな相手がまた出た時、撃てる一瞬が増えるなら、その分だけ生き残る目が増える」


 ユイは唇を噛んだ。


 反論できなかった。


 ラヘルは黙って聞いていた。


 スマートリンク。


 サイバネ。


 身体に入れる改造。


 上層では、そういうものは管理された医療と企業規格の中にあった。


 許可。


 検査。


 証明。


 安全性の説明。


 家の承認。


 少なくとも、ラヘルの知る範囲ではそうだった。


 けれど、ユウは違う。


 報酬を受け取った。


 数字を見た。


 足りるな、と言った。


 その意味が、今になって分かる。


 あの金は、服でも食事でも、安全な寝床でもない。


 娯楽でもない。


 飾りでもない。


 次に生き残るための改造費だった。


 命を張って得た金を、また命を繋ぐための能力へ変える。


 それを、ユウは当然のようにしている。


 ラヘルは、膝の上で指を重ねた。


 自分が何かを迷っている間に。


 自分がまだ上層の感覚を捨てきれずにいる間に。


 自分が見下していた相手は、次の一手をもう決めている。


 その事実が、胸の奥に沈む。


 レンジが車を曲げた。


 三花街の壁はもう見えない。


 代わりに、ガレージストリートの表通りへ近づく。


 雑貨屋の看板。


 古着屋のシャッター。


 修理処の灯り。


 油と鉄と、少し焦げた匂い。


 飯屋の前では、まだ湯気が上がっている。


 昼とも夜とも言い切れない下層の時間の中で、通りはそれなりに動いていた。


 三花街の管理された灯りとは違う。


 ここはもっと雑だ。


 物音も多い。


 匂いも混ざる。


 誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが荷物を引きずって歩いている。


 車は表通りを抜け、さらに奥へ向かう。


 少しずつ、人通りが減った。


 看板が減る。


 灯りが減る。


 壁の汚れが濃くなる。


 表の店とは違う空気が近づいてくる。


 闇医者区画。


 ユイはそこに来るのが初めてではない。


 それでも、近づくたびに身体が少し固くなる。


 ここは、ただ怪我を治す場所ではない。


 痛みを隠す場所。


 身体を直す場所。


 壊れたものを繋ぐ場所。


 そして、余計なことを聞かない場所。


 レンジは建物の手前で車を止めた。


「着きましたよ」


 ユウはすぐにドアを開ける。


 ユイも反射的に降りようとした。


「私も」


「駄目だ」


 ユウが言った。


「でも」


「入れない」


 その言葉は、ユウが決めたというより、この場所の決まりを告げているだけの響きだった。


 タチバナも車を降りる。


「降りるだけにしろ。奥には入れない」


 ユイは唇を噛んだが、車を降りた。


 ラヘルも続く。


 闇医者区画の入口には、男が立っていた。


 クロウ。


 立っているだけで、通路の幅が半分になったように見える男だった。


 身体の輪郭は重い。


 ただ太いのではない。


 改造された密度がある。


 目だけが、静かに動く。


 ユウを見る。


 顎だけを少し上げた。


「怪我か」


「違う。リュン」


「金は」


「ある」


 短い。


 それだけで、話はほとんど終わった。


 クロウは一度だけユウを見て、次にタチバナを見る。


 タチバナは何も言わない。


 クロウは入口を半歩空けた。


「入れ」


 ユイが一歩出かける。


 クロウの視線が、そちらへ移った。


「そっちは駄目だ」


 声は変わらない。


 低くも高くもない。


 ただ、線を引く声だった。


 ユイは思わず言う。


「でも、ユウが手術を」


「駄目だ」


 同じ言葉。


 それ以上の説明はなかった。


 ラヘルは、その声だけで理解した。


 ここは、頼めば通る場所ではない。


 身元を説明する場所でもない。


 家名を出す場所でもない。


 事情を話せば配慮される場所でもない。


 知っているか。


 知られているか。


 それだけで線が引かれる場所。


 ユウは通る。


 自分たちは止められる。


 それは、三花街でユウの横に立っていた時よりも、もっとはっきりした境界だった。


 ユイはまだ何か言いたそうだった。


 サエが車の中から声をかける。


「ユイ、戻るわよ」


「でも」


「ここで待っても入れない。邪魔になるだけよ」


 言い方は少し厳しい。


 でも、嘘ではなかった。


 タチバナも言う。


「帰るぞ」


 ユイはユウを見る。


 ユウは入口の前で振り返った。


「明日戻る」


 それだけだった。


「……はい」


 ユイは小さく頷く。


 ユウはクロウの横を抜け、建物の奥へ入っていく。


 通路の灯りは薄い。


 奥には、闇医者クロガネの領域があり、そのさらに奥にサイバネ屋のリュンがいる。


 ユウの姿は、すぐに暗がりへ消えた。


 クロウは何も言わず、また入口に立つ。


 扉が閉まる。


 ユイとラヘルは、外に残された。


 車のエンジン音が、まだ低く続いている。


 ユイは扉を見ていた。


 不安そうに。


 悔しそうに。


 でも、もう踏み込もうとはしない。


 ラヘルも同じ扉を見ていた。


 ユウは通れる。


 自分は通れない。


 また一つ、そういう場所を見せられた。


 上層の礼儀でも、言葉でも、家名でもない。


 この下で積んだ信用が、扉を開ける。


 その事実だけが、入口の冷たい空気の中に残っていた。


 タチバナが車の方へ戻る。


「乗れ」


 ユイは、もう一度だけ扉を見た。


 それから、車へ戻る。


 ラヘルも続いた。


 クロウは、二人にはもう視線を向けなかった。


 通すべき者は通した。


 止めるべき者は止めた。


 それで終わり。


 闇医者区画の入口は、また何事もなかったように閉じた。

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