穴を埋める
ユウは、裏口から通り側へ戻る前に足を止めた。
泥の跡は、細い通路の奥へ続いている。
小さい。
靴跡ではない。
荷台の車輪でもない。
床の端、荷物の影、管理灯の届きにくいところを選ぶように、点々と奥へ伸びている。
ユウは一度だけ、その先を見た。
「下がるぞ」
ユイが顔を上げる。
「でも――」
「ここから先は違う」
それだけだった。
ラヘルは膝の前で、ユウのSMGを抱え直す。
さっきまで、その言葉を聞けば反射的に反論を探していたかもしれない。
けれど、今は違った。
裏口。
映像の欠け。
泥の跡。
何かが入ったかもしれないという事実。
ここから先は、客の喧嘩ではない。
ラヘルにも、それだけは分かった。
ユウは二人を見る。
「控室。サエが駄目なら詰所」
「はい」
ユイが頷く。
ラヘルも少し遅れて答えた。
「承知しました」
ユウは一瞬だけラヘルを見た。
「今のは助かった」
ラヘルの指が、SMGの側面に触れる。
「でも、ここからは下がれ」
「……はい」
今度は、反論しなかった。
ユウは通信を開く。
「サエ。二人を戻す」
『了解。控室側の扉は開けておくわ。無理なら詰所に回して』
「分かった」
ユウは用心棒の一人へ目を向けた。
「二人を控室まで」
「分かった」
用心棒はすぐに頷いた。
馬鹿にする顔ではない。
警邏の邪魔者を見る顔でもない。
現場から下げるべき同行者を、ちゃんと下げる顔だった。
「こっちだ」
用心棒が言う。
ユイは一度だけユウを見た。
「ユウ」
「行け」
短い。
それでも、今は十分だった。
ユイは頷いて、用心棒の後に続く。
ラヘルも続いた。
二人の足音が白い管理灯の下を離れていく。
ユウは、それを最後まで見送らなかった。
見送る前に、通路の奥へ視線を戻す。
泥の跡。
裏口から入って、奥へ。
まだ、どこかにいる。
通信が鳴った。
タチバナだった。
『状況は』
「痕跡あり。小さい。裏口から奥へ」
『数は』
「分からない」
『追ったか』
「追ってない」
『いい判断だ』
それだけ言うと、タチバナの声が少し近くなる。
『今そっちへ行く。店側の用心棒を二人連れていく。お前は動線を見ろ』
「分かった」
通信が切れる。
ユウは通路の入口から半歩だけ下がった。
追わない。
今一人で奥へ入れば、相手の選んだ場所で戦うことになる。
狭い。
暗い。
荷物がある。
店の裏口がいくつもある。
客や女がどこにいるか分からない。
追うなら、閉じてからだ。
少しして、タチバナが来た。
後ろに用心棒が二人。
一人は大柄で、顔に古い傷がある。
もう一人はやや細いが、腰を落とした立ち方をしている。
どちらも、酔っ払いを押さえるだけの男ではなかった。
三花街で用心棒をする人間だ。
客の荒れ方も、女の逃げ方も、店の壊れ方も知っている。
無能では務まらない。
タチバナは泥の跡を一瞥した。
「裏口からか」
「ああ」
「店裏の地図は」
細い用心棒が端末を出す。
「この辺りです。荷運び通路が二本。奥で店の裏に繋がります。南側へ抜ける細道もありますが、普段は施錠しています」
タチバナは端末を受け取らなかった。
画面を見るだけで、すぐに通路へ視線を戻す。
「北側を閉じろ」
大柄な用心棒が頷く。
「了解」
「表へ出すな。客を流すなら中央通り側へ戻せ。店裏へは入れるな」
「分かった」
「追うな。見つけたら呼べ」
その言葉に、用心棒二人の表情が変わる。
不満ではない。
意味を理解した顔だった。
相手が酔っ払いなら、追って押さえる。
客なら腕を捻って詰所へ送る。
店の女なら、戻して終わる。
だが、今は違う。
何がいるか分からない。
分からない相手を、知らない通路で一人で追うのは悪手だった。
タチバナはユウを見る。
「ユウ」
「ああ」
「穴を見ろ」
「分かった」
それだけで、役割は決まった。
タチバナと用心棒は、道を閉じる。
店裏へ抜ける線を潰し、人を通さない。
ユウは、閉じ切れない隙間を見る。
荷物の影。
店と店の間。
白い管理灯が届かない細い角。
用心棒の視線が切れる場所。
抜けるなら、そこだ。
サエの声が通信に入る。
『右側の裏口、いま閉めた。店側の端末で確認。左奥の扉はまだ開閉履歴が古いまま』
「左奥は抜けられるか」
『店内へは繋がる。表には出ない。でも、店の裏部屋へは入れる』
タチバナが聞いていた。
「左奥を押さえろ」
細い用心棒がすぐ動く。
「了解」
ユウは反対側へ入った。
低い姿勢で荷物の間を見る。
酒のケース。
布袋。
古い木箱。
掃除用のバケツ。
壁に立てかけられた折れた看板。
匂いが濃い。
酒。
埃。
湿った布。
古い油。
そして、少しだけ泥の匂い。
ユウは足を止める。
床の端に、新しい跡。
小さい。
奥へ向かっている。
「こっち」
タチバナが振り向く。
ユウは指で示すだけにした。
声を大きくしない。
タチバナが用心棒へ手で合図する。
大柄な用心棒が入口側を塞ぐ。
細い用心棒が店裏の扉を閉じる。
タチバナは中央に立つ。
ユウは横へ回った。
細い通路の先に、低い物音がした。
かたり。
木箱が少し動く音。
用心棒がそちらを見た。
その瞬間、反対側の荷物の影が動いた。
ユウは走った。
影は低い。
子供ほどの背丈。
だが、子供ではない。
細い腕。
汚れた布を巻いた身体。
歪んだ顔。
ゴブリン。
そいつは用心棒の足元を抜けようとしていた。
大柄な用心棒は反応していた。
足を出し、通路を塞ぐ。
だが、低い。
小さい。
酔っ払いを止める動きでは間に合わない。
ユウが横から入った。
ゴブリンが手に持ったものを振った。
工具だった。
錆びた短い金属棒。
先端が削られ、刃のようになっている。
ユウは腕を引き、身体をずらす。
金属棒がジャケットの前をかすめた。
そのまま、ユウは膝を入れた。
ゴブリンの身体が横へ折れる。
倒れない。
小さい身体が床を転がり、すぐに起き上がろうとする。
ユウは足で距離を潰した。
ARは使わない。
この距離で撃てば、抜ける。
壁。
荷物。
扉の向こう。
人が近い。
ユウはゴブリンの手首を踏んだ。
金属棒が落ちる。
ゴブリンが口を開けた。
甲高い声。
叫びか、呼び声か。
その前に、タチバナが動いた。
足音は一つ。
次の瞬間、ゴブリンの頭が床へ叩きつけられていた。
鈍い音。
動きが止まる。
タチバナは片手でゴブリンの首筋を押さえたまま、もう片方の手で用心棒へ合図する。
「袋」
用心棒がすぐに処理用の袋を出した。
慣れている。
驚きはある。
だが、固まらない。
花街の用心棒は、こういう場所で生きている。
タチバナはゴブリンを袋へ押し込ませる。
「一体」
ユウが言う。
「まだ分からん」
タチバナは短く返した。
その通りだった。
ユウは床を見る。
泥の跡。
一つではない。
重なっている。
少なくとも、もう一つ。
「奥」
ユウが言う。
サエの声が飛ぶ。
『左奥の小扉、今、開閉反応』
「閉じたんじゃないのか」
細い用心棒が顔を上げる。
「閉めました!」
『閉めた後に、内側から触られてる』
タチバナの声が低くなる。
「表へ出すな」
「了解!」
用心棒が走る。
ユウは逆方向へ走った。
正面から追わない。
ゴブリンは小さい。
狭い場所へ逃げる。
正面から追えば、荷物の間に潜られる。
抜ける先へ回る。
ユウは店と店の間の細い隙間へ身体を入れた。
壁に肩が擦れる。
配管が邪魔になる。
足元に空き瓶がある。
蹴らないように跨ぐ。
奥で、何かが走る音。
小さな足音。
ユウは先に出た。
白い管理灯の切れ目。
そこに影が飛び出してくる。
二体目。
ゴブリンは、ユウが先にいると思っていなかった。
一瞬だけ止まる。
その一瞬で足りた。
ユウは踏み込む。
ゴブリンが手を振る。
今度は刃物ではない。
布に包まれた何かを投げた。
ユウは横へ弾く。
布が壁に当たり、湿った音を立てて落ちる。
中から割れた瓶の破片がこぼれた。
目くらまし。
足止め。
子供の悪戯ではない。
殺すための小細工だ。
ユウはゴブリンの胸を蹴った。
小さな身体が壁へぶつかる。
それでも、逃げようとする。
しつこい。
ユウは腰の拳銃に手を伸ばしかけて、やめた。
近い。
音が大きすぎる。
代わりに、落ちていた木箱の蓋を蹴り上げる。
板がゴブリンの足元を塞いだ。
転ぶ。
ユウが上から押さえる。
ゴブリンは歯を剥いた。
人間の形をしている。
子供の大きさに近い。
だが、ユウの手は迷わなかった。
首を押さえ、床へ叩きつける。
一度。
動きが鈍る。
二度目を入れる前に、背後から用心棒が来た。
「押さえる!」
「噛まれるな」
「分かってる!」
用心棒は革手袋をした手でゴブリンの腕を掴み、首元へ膝を当てた。
荒いが、慣れた押さえ方だった。
ユウはすぐに周囲を見る。
一体目。
二体目。
泥の跡は。
まだある。
「サエ」
『見てる。裏口ログは一つ。でも内部扉の反応が三つ。数は二以上』
「三か」
『断定しないで。けど、そう見た方がいい』
タチバナが通路の奥から来る。
「こっちは一体処理」
「こっち二体目」
「まだいるな」
「ああ」
その時、通路の奥から女の悲鳴が上がった。
高い。
短い。
店の中ではない。
店裏。
タチバナの目が動く。
「場所」
サエが即答する。
『第二区画裏、南寄り。洗い場側』
「ユウ」
「行く」
「用心棒、ここを閉じろ。誰も通すな。追うな」
「了解!」
ユウは走った。
タチバナは別方向から回る。
用心棒は通路を塞ぐ。
それぞれが同じ場所へ突っ込まない。
網を絞る。
ユウは狭い通路を抜けた。
洗い場側。
水の匂い。
洗剤。
汚れた布。
薄い明かり。
女が一人、壁際に座り込んでいた。
店の女だった。
腕から血が出ている。
深くはない。
だが、床に血が落ちている。
その前に、小さな影。
ゴブリンが女の髪を掴んでいた。
引きずろうとしている。
女は足で床を蹴り、必死に抵抗していた。
ユウは迷わず突っ込む。
ゴブリンがこちらを見る。
歯を剥く。
手には、小さな刃物。
女の喉元へ向ける。
ユウは足を止めなかった。
刃物が動く前に、横の水桶を蹴った。
水が跳ねる。
ゴブリンの視界が一瞬だけ潰れる。
女が目を閉じる。
その間に、ユウは距離を詰めた。
腕を取る。
刃物を持つ手を壁へ叩きつける。
落ちない。
もう一度。
落ちた。
ユウは肘で顔面を打つ。
ゴブリンの身体が揺れる。
背後から、タチバナが来た。
「下がれ」
ユウが女へ言う。
女は動けなかった。
ユウはゴブリンを押さえたまま、足で女との距離を作る。
タチバナがゴブリンの首を取った。
一撃。
骨の軋む音。
ゴブリンの身体が動かなくなる。
水の音だけが残った。
ユウは女を見る。
「噛まれたか」
女は首を横に振る。
声が出ていない。
「切られただけか」
女は腕を押さえながら頷く。
ユウは通信を開く。
「負傷一。洗い場。噛み傷なし、切創」
『救護回す』
サエが答える。
用心棒が遅れて駆け込んできた。
女を見ると、顔色を変えた。
「リコ!」
「知り合いか」
「店の子だ」
用心棒はすぐに女の前へ膝をつく。
「立てるか」
女は首を振る。
「担げ。表へ出すな。救護へ」
「分かった」
用心棒は女を抱え上げる。
手荒ではない。
だが、迷いもない。
こういう時に動けない用心棒は、三花街では用心棒をしていない。
タチバナは周囲を見る。
「三体」
ユウは頷く。
「泥跡は」
「まだ確認する」
サエの声が入る。
『開閉反応、いま止まった。内部扉も全部閉鎖済み。壁上のレンジから外周に動きあり』
タチバナが顔を上げる。
「外か」
『遠いけど、動いてるって。近づいてはいない。見てるだけ』
ユウは、洗い場の床に残った水と血を見る。
見ている。
外でも。
中でも。
「ここで終わりじゃないな」
タチバナが言った。
ユウは返事をしなかった。
言う必要がなかった。
三体は処理した。
だが、入った理由はまだ分からない。
何を探っていたのか。
何を待っていたのか。
誰が見ているのか。
そこまでは、まだ見えていない。
タチバナは用心棒へ指示を出す。
「店裏を全て封鎖。女を表へ出すな。客も裏へ回すな。詰所へ連絡、南側の警戒を上げろ」
「了解!」
「ユウ」
「ああ」
「お前は通り側を見る。こっちは俺が閉じる」
「分かった」
ユウは洗い場を出た。
通路へ戻る。
白い管理灯の下に、処理袋が二つ置かれている。
三つ目もすぐに運ばれてくる。
用心棒たちが動いている。
誰も騒がない。
誰も英雄のように振る舞わない。
ただ、通路を閉じ、扉を押さえ、人を下げる。
三花街は、もう一度秩序を取り戻そうとしていた。
ユウは中央通り側へ出る。
店の灯りが見える。
客の声が聞こえる。
何も知らない客が、まだ笑っている。
その向こうに、控室へ続く白い通路がある。
ユイとラヘルは下げた。
それでいい。
ユウは一度だけ、その通路を見た。
すぐに、視線を戻す。
今はそちらではない。
通りの奥。
南側。
さっき騒ぎが起きた場所とは別の、細い影。
ユウはARの吊り紐を直し、半歩だけ位置を変えた。
穴は、まだ残っているかもしれない。
だから、そこに立つ。




