普通の揉め事
駐屯任務に入って、二日目の夜。
三花街の灯りにも、少しだけ目が慣れてきた。
慣れた、というより、最初のように一つ一つへ足を止めなくなっただけだ。
ユイはユウの少し後ろを歩いていた。
自前のSMGを胸の前で抱える。
帽子のつばは下げたまま。
視線は通りの先と、ユウの背中と、店先の女たちの足元を行ったり来たりしている。
隣ではラヘルが、ユウのSMGを持って歩いていた。
初日よりも、持ち方は少しだけ安定している。
撃つな。
構えるな。
落とすな。
その三つを守るための形が、ラヘルの身体に少しだけ入ったのだと思う。
中央通りは、夜の音で満ちていた。
札を見せる客。
店先で笑う女。
酒を勧める声。
用心棒の短い注意。
どこかで椅子が引かれ、どこかで扉が閉まる。
第一区画寄りの中央通りは、三花街の中ではまだ明るい。
店の看板も整っている。
女たちの服にも、髪にも、手が入っている。
客も多い。
それでも、銀月やアジトとは違う。
ここにある笑い声は、全部が仕事の中にあった。
ユイは、それを前より少しだけ分かるようになっていた。
分かる、というより、分からないまま通り過ぎることができなくなっていた。
通信が入ったのは、北門側へ戻る途中だった。
ユウの耳元の端末が短く鳴る。
『中央通り、第一区画寄り。客同士の殴り合い。店側対応中、警邏補助を要請』
ユウは足を止めた。
「行くぞ」
「はい」
ユイが返事をする。
ラヘルも頷いた。
「承知しました」
ユウは歩く速度を上げた。
走るほどではない。
けれど、通りの人の流れを縫うように真っ直ぐ進む。
ユイは遅れないようについていく。
ラヘルも半歩後ろで続いた。
騒ぎはすぐに分かった。
中央通りの少し開けた場所で、人だかりができている。
店の前。
看板の赤い灯りの下。
男が二人、殴り合っていた。
殴り合い、と言っても、綺麗な喧嘩ではない。
片方は足元がふらつき、拳が大きく空を切る。
もう片方は鼻血を出しながら、相手の襟を掴んで引っ張っている。
どちらも呂律が回っていなかった。
「ふざ、ふざけんなよ、おま――」
「お前が、さき、先に――」
言葉にもなっていない。
周囲の客が笑ったり、距離を取ったりしている。
店の用心棒が二人、すでに間に入っていた。
片方の男を押さえ、もう片方の肩を掴んで引き離そうとしている。
だが、酔っている分だけ力の方向が読みにくい。
男は用心棒の腕を振り払おうとして、逆に自分でよろめいた。
「警邏です」
ラヘルが小さく言うより早く、ユウが前へ出ていた。
「どっち」
ユウが用心棒へ聞く。
用心棒の一人が、鼻血を出している方を顎で示した。
「そっちはこっちで押さえる。もう一人、頼む」
「分かった」
ユウは男の横へ回った。
男はまだ怒鳴っている。
「お、おれはなぁ、客だぞ、客――」
「客なら札出せ」
ユウが言う。
「なんだ、おま――」
男が振り向く。
その腕が大きく動いた。
ユウは避けずに、手首を取った。
一瞬だった。
手首を外へ流し、肘を押さえ、足を払う。
男の膝が落ちる。
「ぐ、え」
顔から落ちる前に、ユウが襟を掴んで止めた。
用心棒がすぐに背後から男を押さえる。
「助かる」
「詰所」
「分かってる」
用心棒は男の腕を後ろに回し、別の店員へ合図した。
もう一人の男も、別の用心棒に押さえられている。
大きな事件ではなかった。
銃はない。
刃物もない。
封印された銃を抜こうとした形跡もない。
ただの酔っ払い同士の喧嘩。
詰所で酔いが覚めるまで座らされ、表通りで一晩遊ぶくらいの罰金を取られて終わる。
そういう処理になるのだろう。
ユイにも、それは分かった。
分かったから、少しだけ息を抜きかけた。
その時だった。
押さえられていた男の一人が、急に身体をひねった。
用心棒の手が一瞬だけ滑る。
男はふらつきながら、ユイたちの方へ倒れるように寄ってきた。
「お、お嬢ちゃん、なに持って――」
笑っている。
悪意より、酔いの方が強い顔だった。
けれど、手は伸びてくる。
ユイは半歩下がろうとした。
遅かった。
男の手が、ユイの肩の方へ伸びる。
ユウの手が先に入った。
男の手首を掴み、下へ落とす。
そのまま肩を押し込み、男を用心棒の方へ戻した。
「離れろ」
声は低かった。
男は何を言われたのか分かっていない顔で、にへらと笑う。
「いいじゃねえか、ちょっとく――」
最後まで言えなかった。
用心棒が男の首根っこを掴み、壁際へ押しつける。
「終わりだ。詰所に行け」
「お、おい、まだ飲んで――」
「終わりだ」
用心棒の声に、笑いはなかった。
別の男も押さえられ、二人まとめて詰所側へ引かれていく。
騒ぎは、すぐに小さくなった。
周囲の客が、また店へ戻り始める。
笑い声も戻る。
札を確認する声も戻る。
三花街は、こういう揉め事を長く残さない。
残せば商売に響くからだ。
ユイは、肩に残った感覚を見下ろす。
実際には触られていない。
ユウが止めた。
だから何も起きていない。
それなのに、周囲の視線が刺さった。
店先の女たちが、ユイを見ている。
怒っているわけではない。
心配しているわけでもない。
冷たい。
そのくらい、自分で払えないのか。
そういう目だった。
一人の女が、別の酔った客の手を軽く叩き落とした。
ぱしん、と乾いた音がする。
「触るなら札、ちゃんと通してからね」
女は笑っていた。
客も笑って、ごまかすように手を引く。
それで終わりだった。
ビンタですらない。
手を払う。
距離を取る。
笑って流す。
それだけのことを、その女は当然のようにやっていた。
ユイは、自分の手元のSMGを見る。
武器を持っている。
ユウのすぐ後ろを歩いている。
それなのに、酔っ払いの手に一瞬遅れた。
視線が痛かった。
ロストに守られているくせに。
武器を持っているくせに。
その場所にいるなら、その程度は自分で捌け。
言葉にはされない。
けれど、視線だけで十分だった。
ラヘルも、それを感じたのかもしれない。
横で、ユウのSMGを抱え直している。
顔は崩していない。
でも、目が少しだけ硬い。
「怪我は」
ユウが聞いた。
ユイははっと顔を上げる。
「ありません」
「ラヘル」
「ありません」
「そうか」
ユウは二人を見た。
責める顔ではない。
ただ、現場を確認する目だった。
「近すぎる」
ユイの指が、SMGの吊り紐を握る。
「はい」
「下がるなら半歩早く下がれ」
「はい」
「手を伸ばされたら、銃じゃなく肘を見る」
ユイは瞬きをした。
「肘、ですか」
「手首は遅い。肘が動いた時点で来る」
ユウは自分の腕を少し動かして見せた。
「肩を見ると遅れる。手を見るともっと遅れる。肘を見ろ」
ユイは頷いた。
「はい」
ラヘルも小さく頷く。
「承知しました」
ユウはそれ以上言わなかった。
用心棒の一人が戻ってくる。
「助かった。詰所に送った」
「銃は」
「封印済み。破ってない。酔いが覚めたら罰金だ」
「そうか」
「表通り一晩分くらいは取る。店の椅子も壊したしな」
用心棒は肩をすくめた。
「騒がせた」
「仕事だ」
ユウは短く返す。
用心棒はユイとラヘルへも一度だけ目を向けた。
丁寧な視線ではない。
だが、馬鹿にする目でもなかった。
現場を知らない同行者を見る目。
それだけだった。
「次は少し下がらせた方がいい」
用心棒が言う。
ユウは頷いた。
「ああ」
ユイは何も言えなかった。
その助言は正しい。
正しいから、余計に胸に残る。
ラヘルも口を閉じていた。
騒ぎが収まると、中央通りはすぐ元に戻った。
店の女たちは客へ笑う。
店員は札を見る。
用心棒は元の位置へ戻る。
酔っ払い二人の喧嘩など、三花街ではただの小さな汚れだった。
拭けば終わる。
跡も残らない。
ユウは周囲をもう一度見る。
喧嘩が起きた場所。
人だかりができた場所。
客が逃げた方向。
用心棒が離れた入口。
店員の視線が外れた裏口。
それから、通りの端にある細い通路へ目を向けた。
何もいない。
だが、今の騒ぎの間、見られていなかった場所はある。
ユイはそれに気づかなかった。
ラヘルも、まだ自分たちに向けられた視線を受け止めきれていないようだった。
ユウの耳元で、通信が鳴った。
サエの声だった。
『ユウ、聞こえる?』
「聞こえる」
『今の騒ぎの間に、南側の裏口ログが一つズレた』
ユウの目が細くなる。
「故障か」
『まだ分からない。確認中。センサーの遅延かもしれないし、誰かが通したのかもしれない』
「場所は」
『第二区画寄り。荷運び用の裏口。今、履歴を追ってる』
ユウは中央通りの奥を見る。
さっき壁上から見た線が、頭の中で重なる。
客の流れ。
店の扉。
裏口。
南側へ向かう細い通路。
「分かった。近くを見る」
『無理に入らないで。タチバナにも回す』
「分かった」
通信が切れる。
ユイがユウを見る。
「何かあったんですか」
「ログがズレた」
「ログ……?」
「出入りの記録だ」
ラヘルの顔が少しだけ引き締まる。
「今の騒ぎに紛れて、どこかの出入りが動いた可能性がある、ということですか」
「まだ分からない」
ユウはそう言った。
だが、足はもう動いていた。
「二人とも、半歩後ろ。通りから外れるな」
「はい」
ユイは返事をする。
ラヘルも続いた。
「承知しました」
中央通りでは、さっきまでの喧嘩などなかったように、客の声が戻っている。
酔っ払い二人は詰所へ送られた。
椅子の破片も片づけられた。
店の女は笑い、用心棒は立ち、札はまた確認される。
普通の揉め事は、もう終わっていた。
けれど、ユウは通りの端を見ていた。
騒ぎの間に、一つだけ動いた記録。
それが本当にただのズレなのかを、まだ誰も知らなかった。




