見なかったことにはできない
控室へ戻るまで、ユイはほとんど喋らなかった。
ラヘルも同じだった。
第二区画の灯りを抜け、南門側の白い照明を遠ざけ、詰所脇の控室へ戻る。
その間、ユウは一度も振り返らなかった。
ただ、歩く速度だけは少し落ちていた。
ユイとラヘルが遅れない程度に。
控室の扉を開けると、白い照明がまた三人を迎えた。
赤い灯りもない。
香料の匂いも薄い。
酒の声も遠い。
簡易椅子と古いテーブル。
水の容器。
非常用端末。
隅の小型冷蔵庫。
さっきと同じ部屋だった。
けれど、同じ場所に戻ってきた感じがしなかった。
ユウは中に入ると、まず扉の外を一度見た。
廊下。
用心棒。
詰所への通路。
それから、二人を見る。
「座れ」
ユイは頷いた。
「はい」
ラヘルも椅子へ腰を下ろす。
膝の上には、ユウのSMGがある。
ラヘルはそれを置かなかった。
置いていいのか分からない、というより、指がまだ離れていないように見えた。
ユウはそれを見て、短く言う。
「それは持ってろ」
ラヘルが顔を上げる。
「返さなくてよろしいのですか」
「次に出る時も使う」
「……承知しました」
ラヘルはSMGを膝の上で抱え直した。
ユイも、自分のSMGを手放さない。
ユウは水の容器を一瞥した。
「飲め」
「ユウは?」
ユイが聞く。
「回る」
「また、ですか」
「仕事だ」
それだけだった。
ユイは何か言おうとして、唇を閉じる。
休んでください、と言いたかったのかもしれない。
一緒にいてください、と言いたかったのかもしれない。
けれど、声にならなかった。
ユウは扉へ向かう。
「何かあったらサエに言え」
「サエさんは、サーバー室では」
「近くにいる」
ユウはドアノブに手をかけた。
「勝手に出るな」
「はい」
ユイが返事をする。
ラヘルも、少し遅れて頷いた。
「はい」
扉が開く。
外の音が流れ込む。
三花街の声。
遠い笑い声。
札を確認する声。
足音。
ユウはその中へ出ていった。
扉が閉まる。
白い控室に、二人だけが残された。
ユイは膝の上のSMGを見る。
最下層には堕ちたくないの。
声が、まだ耳に残っていた。
叫びだった。
助けて、とも違う。
連れていって、とも違う。
もっとむき出しの、落ちることだけを拒む声。
そして、その後に見た目。
ユイとラヘルへ向いた目。
そこを代われ。
言葉にはされなかった。
でも、そう聞こえた。
ユイは指でSMGの吊り紐を握る。
何も言われていない。
責められていない。
殴られてもいない。
怒鳴られてもいない。
それなのに、どうしていいか分からなかった。
向かいに座るラヘルは、背筋を伸ばしたままだった。
帽子の下の薄い金髪は見えない。
服装も、三花街に入る前に整えたまま。
姿勢だけ見れば、ラヘルはまだ崩れていない。
けれど、返事が少し遅くなっていた。
目も、膝の上のSMGへ落ちている。
ユイは声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
その時、奥の扉が開いた。
サーバールーム側の扉だった。
サエが入ってくる。
肩には端末ケース。
髪はいつもより少し乱れ、目元に疲れがある。
片手で首筋を軽く揉みながら、控室の隅の小型冷蔵庫へ向かった。
「水、もらうわよ」
そう言って、冷蔵庫を開ける。
中からボトルを一本取り出す。
そこで、手が止まった。
サエは冷蔵庫の扉を閉める。
ユイを見た。
次に、ラヘルを見た。
ユイの手は、SMGの吊り紐を握ったまま。
ラヘルは背筋を伸ばしているのに、膝の上のSMGから指を離せていない。
サエは水のボトルを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「……見たのね」
ユイは返事ができなかった。
ラヘルもすぐには答えない。
サエはため息をつかなかった。
驚いた顔もしなかった。
ただ、冷蔵庫をもう一度開けて、水のボトルを二本取り出す。
それを、二人の前に置いた。
「飲みなさい」
ユイはボトルを見る。
「……はい」
手を伸ばす。
キャップを開ける動きが、少しぎこちなかった。
ラヘルもボトルを手に取る。
けれど、飲むまでに一拍あった。
サエは椅子を引いて、二人の近くに座る。
「花街の一番下まで行ったのね」
ユイは小さく頷いた。
ラヘルは、ボトルを持ったまま言った。
「……恐らく、そう呼ばれる場所を」
サエの視線がラヘルに向く。
「知らなかった?」
ラヘルの指が、ボトルの表面を少し押した。
「はい」
声は乱れていない。
けれど、いつもより少し遅い。
「下層については、知識として学んでいました。治安、階層、企業区域との関係、外界との境界……けれど」
言葉が止まる。
サエは急かさなかった。
ラヘルは一度、膝の上のSMGを見る。
ユウのもの。
さっきまで、それが自分を通りに立たせる札だった。
「最下層、という言葉は、聞いたことがありませんでした」
「上では、聞かせないのよ」
サエは静かに言った。
「見る必要がない人間には、存在しないことになっている」
ラヘルは目を伏せた。
その顔に、怒りはない。
まだ、怒れるほど整理できていないのだろう。
サエは水のボトルを置き、少しだけ声を落とした。
「でも、あなたたちが見たのは、まだ花街の中よ」
ラヘルの目が動いた。
「……まだ、なのですか」
「店がある。札がある。用心棒がいる。客が来る。あそこでも、まだ“商品”としては管理されてる」
サエは淡々と言った。
「本当の最下層には、それもないわ」
ラヘルは返事をしなかった。
指だけが、ユウのSMGに触れた。
金属の冷たさを確かめるように。
ユイは水を一口飲んだ。
喉を通る感覚が、やけにはっきりしている。
サエはユイを見る。
「ユイ」
「はい」
「全部は助けられないわ」
その言葉は、優しくはなかった。
でも、突き放すものでもなかった。
ユイはボトルを両手で持つ。
「……はい」
「見なかったことにしなくていい。でも、今すぐ答えを出そうとしなくてもいい」
ユイは顔を上げる。
サエは、淡々と続けた。
「答えを急ぐと、たぶん潰れるわ」
ユイは何も言えなかった。
潰れる。
その言葉が、さっきの女たちと重なる。
道端に座り込んでいた女。
目の下に影を作っていた女。
回収トラックの荷台にいた女。
ユイはボトルを握った。
「サエさん」
「何?」
「ユウは……いつも、ああやって断るんですか」
サエは少しだけ黙った。
「たぶんね」
「冷たく、見えました」
口にした瞬間、ユイは自分の声が小さくなったのを感じた。
責めているわけではない。
でも、そう聞こえるかもしれない。
サエは怒らなかった。
「冷たく見えるでしょうね」
ユイは目を伏せる。
サエは言う。
「でも、あそこで曖昧に優しくしたら、もっと残酷になる」
「……はい」
「ユウは、抱えられないものを抱えられないって言える子よ。言い方は下手だけど」
少しだけ、サエの声が柔らかくなった。
「それができないと、この下では守る側にもなれない」
ユイは、さっきのユウの背中を思い出す。
でも、本当のところは分からない。
ユイにはまだ、分からないことの方が多かった。
ラヘルは黙っていた。
水のボトルは開けられている。
けれど、中身はほとんど減っていない。
サエが気づく。
「ラヘル」
ラヘルは顔を上げた。
「はい」
「飲みなさい」
「……はい」
ラヘルは水を一口飲む。
それから、ボトルを膝の上に戻した。
「サエ様」
「何?」
「私は」
そこで言葉が止まった。
ラヘルは答えようとした。
けれど、言葉より先に、あの声が戻ってきた。
いや。
最下層には堕ちたくないの。
通りに跳ねた声。
用心棒に引き戻される腕。
南門へ向かう回収トラック。
ラヘルは膝の上のSMGに指を置いた。
これは自分の武器ではない。
ユウのものだ。
さっきまで、それが自分を外へ置いておくための札だった。
その事実が、今さら指先から上がってくる。
ラヘルは、息を整えた。
姿勢は崩さない。
声も、崩さない。
「私は、ユウ様がいなければ、外を歩くこともできません」
ユイが顔を上げた。
サエは何も言わない。
ラヘルは続ける。
「タチバナ様のファミリーに匿っていただいていることは、分かっています。銀月にも繋いでいただいている。サエ様も、タチバナ様も、私を見てくださっている」
そこで、ラヘルの指がSMGに触れる。
「ですが、外で私を示す札になったのは、ユウ様の銃でした」
サエは静かに聞いている。
「私は、それを当然のように受け取りました。必要だと判断しました。けれど……」
ラヘルは一度だけ目を伏せた。
「怖いのだと思います」
「何が?」
サエの声は穏やかだった。
ラヘルはすぐには答えなかった。
見下していた。
そう言うことはできなかった。
まだ、そこまで綺麗に言葉へ落とせない。
ユウの言葉は粗い。
所作も上層のものではない。
礼儀もない。
自分とは違う場所の人間。
そう思っていた。
花街に来る直前まで、そういう意識は確かにあった。
今も消えたわけではない。
けれど、最下層区画の女たちの声が、それを考える余裕を奪っている。
ラヘルは、ようやく言った。
「分かりません」
サエは頷いた。
「今は、それでいいわ」
「……よろしいのですか」
「分かったふりをする方が危ない」
ラヘルは口を閉じた。
サエは水のボトルを開け、自分も一口飲む。
「ラヘル、あなたはまだここに来たばかりよ。下層の全部を一晩で分かる必要はない。分かった気になる方が、ずっと危ない」
ラヘルは小さく頷く。
「はい」
「ただ、今日見たものは忘れない方がいい」
サエはそう言って、視線をユイにも向けた。
「二人とも」
ユイは顔を上げる。
ラヘルもサエを見る。
「見なかったことにはできないわ。でも、今すぐ何かを変えられるわけでもない」
遠くで、扉が閉まる音がした。
誰かの笑い声。
札を確認する声。
通りを歩く足音。
三花街は、何事もなかったように動いている。
サエは続けた。
「まずは飲む。座る。武器を落とさない。帽子を直す。返事をする。今できることを落とさないこと」
ユイは、自分の帽子に触れた。
少しずれている。
直す。
ラヘルも、SMGの持ち方を直した。
指は引き金から遠い場所へ。
サエはそれを確認して、少しだけ息を吐いた。
「それでいいわ」
控室の外で、足音が通った。
ユウではない。
別の警邏か、用心棒か。
ユイは扉を見る。
「ユウは、まだ外に」
「仕事中よ」
サエは言った。
「心配?」
ユイは少し迷った。
「……はい」
「なら、戻ってきた時にちゃんと返事をしなさい。立てるなら立つ。無理なら無理と言う。それも仕事の邪魔をしない方法よ」
ユイは頷いた。
「はい」
ラヘルも、水をもう一口飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
それでも、あの声は消えなかった。
最下層には堕ちたくないの。
サエは冷蔵庫からもう一本水を取り出し、自分の端末ケースへ入れた。
「私は少ししたら戻るわ。サーバー側も目を離せない」
「はい」
「二人は、もう少しここで休みなさい」
サエは立ち上がる。
扉の前で一度だけ振り返った。
「見たものを、今すぐ好きにならなくていい。納得しなくてもいい。ただ、忘れたふりだけはしないこと」
それだけ言って、サエはサーバールーム側の扉へ戻っていった。
扉が閉まる。
控室に、また白い灯りが残る。
ユイは水のボトルを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
ラヘルも黙っている。
膝の上には、ユウのSMG。
扉の向こうでは、三花街の声が続いている。
笑い声。
呼び込み。
札の確認。
遠い足音。
そのどこかを、ユウが一人で歩いている。
ユイは帽子の縁を直した。
ラヘルはSMGの重さを確かめるように、指先を添え直した。
二人とも、まだ答えは出ていない。
それでも、さっきより少しだけ、座り方が変わっていた。




