堕ちたくない
ユウは、少しだけ歩調を変えた。
北門側へ戻るのではなく、第二区画の奥へ向かう。
白い管理灯が途切れ、店の灯りも細くなる。
ユイはそれに気づいた。
「ユウ?」
「少し外縁を見る」
「外縁……」
「止まるな」
それ以上の説明はなかった。
ラヘルはユウの背中を見てから、手元のSMGを抱え直した。
最下層区画へ近づくにつれて、道の音が変わった。
第二区画では、まだ声があった。
客を呼ぶ声。
笑う声。
札を確認する声。
酒を勧める声。
ここでは、その声が細くなる。
代わりに、扉の軋む音が聞こえた。
どこかで水が垂れる音。
遠くから、誰かが同じ言葉を繰り返している声。
店はまだ並んでいる。
だが、看板の一部が消えていた。
壁の塗装は剥がれ、補修跡も雑だった。
入口の布は汚れ、灯りは暗い。
綺麗に見せるための余裕が、ここには少なかった。
道端に、女が一人座り込んでいた。
店の服を着ている。
けれど、袖口は擦り切れている。
髪はまとめられていたが、飾られているというより、崩れないように縛られているだけだった。
女は膝を抱え、何かを呟いていた。
言葉にはなっていない。
あるいは、言葉だったのかもしれない。
ただ、ユイには聞き取れなかった。
ユイは足を止めそうになる。
「止まるな」
ユウの声が飛ぶ。
ユイは慌てて歩く。
その横で、ラヘルの顔が少しだけ強張っていた。
ここは、第二区画とは違う。
視線が違うのではない。
最初は、視線すら向かない。
店先に立つ女たちは、ユイを見なかった。
ラヘルも見なかった。
ユウだけを見ていた。
ARを持つ若いロスト。
警邏札を持ち、花街の中を歩ける男。
女二人を連れていて、その二人に痣もない男。
その男だけを見ている。
「ロストさん」
最初に声をかけてきた女は、店先の柱に手をついていた。
笑おうとしている。
口元は上がっている。
けれど、目は笑っていない。
目の下に濃い影がある。
「仕事中だ」
ユウは止まらずに答えた。
「少しだけでいいから」
「無理だ」
「話だけ」
「店に言え」
「店じゃ駄目なの」
女は二歩、ついてきた。
ユイの指がSMGの吊り紐を握る。
ラヘルも黙ったまま、ユウのSMGを抱えている。
「隅でいいから」
女の声が少し速くなる。
「飯も少なくていい。何でもするから」
「無理だ」
ユウは振り返らない。
「ついてくるな」
それでも、足音は続いた。
もう一人、別の店先から女が動きかける。
「ねえ、あたしも――」
その瞬間、店の奥から男が出てきた。
用心棒だった。
顔に焦りがある。
「戻れ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、逆らわせない声だった。
最初の女の腕を掴み、店先へ引き戻す。
「警邏に絡むな。店ごと睨まれる」
女は腕を引かれながらも、ユウを見ていた。
「待って」
ユウは止まらない。
「ねえ、待ってよ」
用心棒がさらに力を込める。
「戻れって言ってるだろ」
女の顔が歪んだ。
「いや!」
声が通りに跳ねた。
「最下層には堕ちたくないの!」
一瞬、周囲の音が止まった。
呼び込みの声も。
奥で軋んでいた扉の音も。
誰かの呟きも。
用心棒の顔色が変わる。
「黙れ」
女は口を閉じた。
閉じさせられた、という方が近かった。
用心棒は女を店の奥へ戻そうとする。
女はまだユウを見ている。
けれど、ユウは足を止めない。
届かない。
そのことが見えた瞬間、女の目が動いた。
初めて、ユイを見た。
次に、ラヘルを見た。
それまで二人は、女の目に入っていなかった。
見えていなかったのではない。
見る余裕がなかったのだ。
今は違う。
ユイのSMG。
ラヘルが抱えるユウのSMG。
痣のない手。
怒鳴られずに歩く距離。
女は何も言わなかった。
言えば終わる。
店にも、ユウにも、用心棒にも睨まれる。
だから、口は閉じたまま。
その目だけが言っていた。
そこを、代われ。
ユイは、その視線を受けて足を止めかけた。
「歩け」
ユウが言う。
ユイは遅れて足を出した。
ラヘルは、女から目を離せなかった。
顔色が少し悪い。
「ユウ様」
「止まるな」
「最下層とは、何ですか」
ユウは一拍だけ黙った。
歩調は変えない。
「人が落ちる穴だ」
「穴……?」
「今は聞くな。歩け」
ラヘルはそれ以上聞かなかった。
けれど、口元から血の気が引いていた。
最下層。
その言葉を、ラヘルは知らなかったのだろう。
ユイはそう思った。
女が叫んだ言葉は、ラヘルの中にないものを突き刺したようだった。
「ロストさん」
別の女が声をかける。
今度は笑ってすらいない。
店の入口から半身だけを出し、ユウを見る。
「あたし、まだ使えるよ」
ユウは答えない。
「その子たちの世話でもするから」
「無理だ」
「少しだけ、顔見て覚えて」
「仕事中だ」
女はついてこようとした。
すぐに、店の奥から年嵩の女が出てきた。
「やめな」
鋭い声だった。
その女は若い女の肩を掴み、引き戻す。
叩きはしない。
だが、指の力は強い。
「警邏相手に何してるんだい」
「だって」
「だってじゃない。店が潰れる」
若い女は唇を噛む。
ユウを見る。
見続ける。
その目がまた、ユイとラヘルへ動いた。
今度は若い女だけではない。
店先にいた他の女たちも、ようやく二人を見た。
第一区画の視線とは違う。
第二区画の声とも違う。
羨ましい、という形すら崩れかけている。
ユイはその中を歩いた。
SMGが重い。
いつもより、ずっと重く感じる。
自分が持っているもの。
自分が歩いている場所。
自分が戻れる控室。
その全部が、急に別のものに見えた。
ラヘルは何も言わない。
ユウのSMGを抱えたまま、前だけを見ようとしている。
けれど、視線がわずかに揺れていた。
奥の通路から、低いエンジン音がした。
ユウが足を止めた。
今度は、止まるなとは言わなかった。
小型の回収トラックだった。
荷台には、金属の柵がついている。
その中に、女が三人いた。
一人は座り込んだまま、顔を上げない。
一人は横になっていて、腕だけが荷台の床に投げ出されている。
もう一人は、口を開けたまま何かを呟いていた。
声は出ている。
だが、誰に向けたものでもなかった。
係員が荷台のロックを確認する。
用心棒が札のようなものを端末にかざす。
誰も叫ばない。
周囲の女たちは、目を伏せた。
見ないふりをする。
トラックはゆっくり動き出した。
南門の白い灯りへ向かっていく。
ユイは、息をするのを忘れていた。
ラヘルが小さく口を開く。
「ユウ様、あれは――」
「歩け」
ユウは前を向いたまま言った。
ラヘルは唇を閉じる。
トラックのエンジン音が、遠ざかっていく。
南門の方へ。
白い灯りの方へ。
ユイは、さっきの女の叫びを思い出す。
最下層には堕ちたくないの。
その言葉に、形がついた。
トラック。
金属の柵。
伏せられた目。
南門へ向かう白い灯り。
ユウは歩き出した。
「戻るぞ」
短い言葉だった。
ユイは返事をしようとして、声が出なかった。
一拍遅れて、頷く。
ラヘルも、同じように頷いた。
最下層区画の女たちは、もう声をかけてこなかった。
用心棒や上役が前に出ている。
女たちは店先に戻され、口を閉じている。
けれど、目は残っていた。
ユウではなく。
今度は、ユイとラヘルへ。
そこを代われ。
言葉にはならない。
でも、通りの薄暗い灯りの中で、その目だけが残った。
ユウは歩調を少しだけ上げた。
第二区画の灯りが近づく。
少し明るい看板。
少し整った店先。
客へ向ける笑い声。
さっきまで重く感じた第二区画の声が、今はまだ余裕のあるものに聞こえた。
ユイは、帽子のつばに触れる。
ラヘルはSMGを抱え直した。
「次は控室に戻る」
ユウが言った。
「……はい」
ユイの返事は遅れた。
ラヘルも少し遅れて答える。
「承知しました」
三人は、第二区画の灯りの中へ戻っていった。




