もう一周
控室は、花街の中にある部屋とは思えないほど白かった。
店の灯りは届かない。
赤や橙の看板もない。
酒の匂いも薄い。
天井の照明だけが、壁と床を均一に照らしている。
簡易椅子。
古いテーブル。
水の入った容器。
壁際の非常用端末。
隅に置かれた予備の毛布。
扉の向こうには、用心棒らしい足音が時折通る。
そのさらに向こうから、第二区画の声が遠く届いていた。
笑い声。
札を確認する声。
扉が開いて、閉まる音。
さっきまで歩いていた通りの音なのに、扉一枚を挟むだけで別の場所のものみたいに聞こえる。
ユイは椅子に座り、膝の上にSMGを置いていた。
まだ手は離していない。
「休め」
ユウが言った。
短い声だった。
「……はい」
返事はした。
けれど、どう休めばいいのか分からなかった。
ラヘルは向かい側の椅子に座っている。
ユウから渡されたSMGは、テーブルの上には置かず、膝の上に横たえていた。
撃つな。
構えるな。
落とすな。
その言葉を守るように、指は引き金から遠い場所にある。
ラヘルの姿勢は、まだ崩れていない。
それでも、少し疲れているように見えた。
ユイは声をかけようとして、やめる。
何を言えばいいのか分からない。
ユウは二人を見た。
それから、扉の方へ向く。
「俺はもう一周してくる」
「一人でですか?」
思わず聞いていた。
ユウは振り返る。
「その方が早い」
ユイは言葉に詰まった。
一緒にいると遅い。
そう言われたわけではない。
でも、そういう意味でもあるのだと分かった。
ラヘルも、少しだけ目を伏せる。
たぶん、同じことを思ったのだろう。
「中で待ってろ」
「はい」
ユイは頷く。
ユウはラヘルの膝の上のSMGを見る。
「それ、置くなよ」
「承知しています」
「誰か来ても渡すな」
「はい」
「撃つな」
「……はい」
三度目の注意に、ラヘルの眉がほんの少しだけ動いた。
けれど、言い返さない。
ユウはそれで十分だと思ったのか、扉を開けた。
外の音が少しだけ大きくなる。
「何かあったら呼べ」
それだけ言って、ユウは控室を出ていった。
扉が閉まる。
白い部屋に、静けさが戻った。
ユイは、閉まった扉を見ていた。
ラヘルも何も言わない。
遠くで誰かが笑った。
その笑い声が、妙に軽く聞こえた。
ユイは膝の上のSMGの吊り紐を指で撫でる。
大事にされてるじゃない。
第二区画の女の声が、まだ残っている。
軽い言い方だった。
怒っていたわけではない。
責められたわけでもない。
けれど、胸の中で引っかかったまま取れない。
「……さっきの人たち」
ユイは小さく言った。
ラヘルが顔を上げる。
「はい」
「怒っていたんでしょうか」
自分で言って、少し違う気がした。
でも、他の言葉が見つからなかった。
ラヘルはすぐには答えなかった。
白い照明の下で、ラヘルの指がSMGの側面に軽く触れる。
金属を確かめるような動きだった。
「怒りだけではないと思います」
「じゃあ、何ですか」
ラヘルは一度、扉の方を見た。
ユウが出ていった扉。
それから、ユイを見る。
「羨ましかったのだと思います」
ユイは何も返せなかった。
羨ましい。
自分が。
あの人たちに。
そんなふうに思われる理由が、すぐには結びつかなかった。
ラヘルは続ける。
「ユイ様は、傷がありません」
ユイは自分の手を見る。
「痣もなく、怯えてもいません。武器を持ち、ユウ様のすぐ後ろを歩いていました」
「それは……」
ユイは言いかけて、止まる。
当たり前だった。
少なくとも、ここへ来るまでは。
ユウの後ろを歩く。
サエに帽子を直される。
タチバナに外へ出るなと言われる。
レンジが茶化して、でも止める。
ユウが危ない時に前に出る。
それらは少しずつ積み重なって、今の形になっていた。
でも、三花街の女たちから見たら違うのだろう。
「大事にされているように見えたのです」
ラヘルは静かに言った。
その言葉で、ユイの指が止まった。
大事にされている。
さっきの女も、同じことを言った。
ユイは、膝の上のSMGを見る。
これは自分の武器だ。
けれど、自分一人で守るためのものではない。
持たされて、教えられて、外へ出る時に確認されるもの。
その全部が、外からは別の意味を持つ。
ユイは、ようやく少しだけ息を吐いた。
「……そう見えるんですね」
ラヘルは頷いた。
「はい」
「ラヘルも?」
ラヘルは、自分の膝の上のSMGを見る。
それはユウのものだ。
「私も、そう見えると思います」
「でも、ラヘルは昨日来たばかりで」
「それは、外の方々には関係ありません」
ラヘルの声は落ち着いていた。
冷たいわけではない。
ただ、線を引くような言い方だった。
「ユウ様の銃を持ち、ユウ様の後ろを歩いていた。それだけで十分なのでしょう」
ユイは黙る。
そこまでは、考えていなかった。
ラヘルは分かっている。
きっと、もっと早くから。
ユイは、自分の中に置けないまま残った言葉を、ゆっくり探した。
「じゃあ……あの人たちは、ユウに」
言いかけて、止まった。
ラヘルは、続きを急がせなかった。
扉の外を、足音が一つ通り過ぎる。
ユイは少しだけ声を落とした。
「助けてほしいんでしょうか」
ラヘルは、すぐには頷かなかった。
「助け、という言葉が正しいかは分かりません」
「違うんですか」
「分かりません。ただ……」
ラヘルは、少しだけ言葉を選ぶ。
「店よりましな場所を探している方は、いるのだと思います」
ユイは顔を上げる。
「店より」
「はい」
それ以上は言わなかった。
でも、十分だった。
ユイは、さっきの女の笑みを思い出す。
若いのに、いい仕事もらってるね。
そっちの子たち、連れ?
大事にされてるじゃない。
あれは、ただの冗談ではなかった。
でも、責める言葉でもなかった。
では何だったのか。
ユイはまだ、うまく名前をつけられない。
「……ユウは」
口にしてから、迷う。
ラヘルが待つ。
「ユウは、そういうのも断ると思います」
「はい」
ラヘルは頷いた。
「断れる方だと思います」
「冷たい、ですか」
ユイは聞いてしまっていた。
ラヘルは、少しだけ目を伏せた。
「冷たく聞こえることは、あると思います」
ユイはSMGの紐を握る。
「でも」
ラヘルは続けた。
「断らなければ、もっと酷いことになるのだと思います」
その言葉は、静かだった。
ユイは返せなかった。
分かるような気がする。
でも、分かりたくないような気もする。
控室の白い照明が、テーブルの上に置かれた水の容器を照らしている。
その光は、三花街の店の灯りと違っていた。
何かを隠す光ではない。
何かを誘う光でもない。
ただ、そこにあるものを白く見せるだけの光だった。
ユイは、その光の下でしばらく黙っていた。
外では、ユウが一人で歩いていた。
二人を連れていた時より、足取りは少し速い。
店先へ寄りすぎない。
客の流れを塞がない。
女たちの呼び込みには目を向けない。
さっきと同じ通り。
だが、見るものは違っていた。
ユウは第一区画の端で足を止める。
門から入ってきた客が、最初にどこへ流れるか。
酔った客が揉めた時、どこで人が詰まるか。
店の扉が開いた時、内側から何人出てこられるか。
壁を見る。
道を見る。
詰所を見る。
次に、南門側へ向かう。
第二区画の女が声をかけてきた。
「ロストさん、また一人?」
「仕事中だ」
ユウは止まらない。
「さっきの子たちは?」
「控室」
「大事にしてるねぇ」
返事はしなかった。
女も追わなかった。
ユウは通りを進む。
第二区画の先。
白い照明が混じる場所。
南門付近。
床は掃かれている。
壁際に余計なものがない。
台車の跡がまっすぐ残っている。
詰所の扉は、内側から開きやすい位置にある。
ユウは橋の幅を見た。
門の内側へ向かう動線。
門から外へ押し戻す動線。
人が逃げるなら、どこへ寄るか。
何かを追い込むなら、どこで詰まらせるか。
銃座の向き。
壁上からの射線。
内側へ向けられる機銃の角度。
ユウは一度、白い灯りの下で立ち位置を変えた。
ここなら撃てる。
ここでは店の壁が邪魔になる。
こっちは客が逃げ込む。
追い込めるなら、あそこ。
考えたことを口には出さない。
ただ、歩く。
少し戻り、別の角度から見る。
門の詰所にいる男が、ユウを一度見た。
警邏札を確認し、すぐに目を戻す。
ユウはさらに歩く。
店裏へ繋がる細い通路。
荷運び用の扉。
用心棒が立つ場所。
逃げる客が勝手に入れば、すぐ止められる位置。
三花街はよくできている。
綺麗だからではない。
人を動かす場所が決められているからだ。
客。
女。
用心棒。
店員。
警邏。
それぞれの動く線がある。
その線が崩れた時、どこが詰まるか。
ユウはそれを見ていた。
第二区画へ戻る途中、さっきとは別の女が店先から声をかける。
「ロストさん、今度は一人?」
ユウは足を止めない。
「仕事中だ」
「さっきの子たち、ほんとに大事にしてるんだ」
ユウは答えない。
女は笑った。
「いいなぁ」
その声は、軽かった。
軽い形をしているだけだった。
ユウは振り返らなかった。
第一区画へ戻る。
北門側の灯りが近づく。
客の声が少し明るくなる。
店の飾りが増える。
ユウは、通りの端で一度だけ足を止めた。
北門。
南門。
第一区画。
第二区画。
詰所。
壁。
銃座。
控室。
二人を戻すなら、どこが早いか。
通りが詰まったら、どこを通るか。
声が届かなければ、誰に伝えるか。
それだけ見て、ユウは控室の方へ戻った。
中では、ユイとラヘルがまだ向かい合って座っていた。
会話は止まっていた。
ユウが扉を開けると、ユイが顔を上げる。
「おかえりなさい」
「戻った」
それだけ言って、ユウは部屋の中を見る。
二人とも、武器は手元にある。
ラヘルの指は引き金から離れている。
ユイの帽子もずれていない。
「次、少ししたら北側を回る」
ユイは頷いた。
「はい」
ラヘルも答える。
「承知しました」
ユウは水の容器を取り、軽く口をつけた。
外の店の声が、扉越しにまた聞こえた。
ユイはその音を聞きながら、膝の上のSMGを抱え直す。
ラヘルも、ユウのSMGを持ち直した。




