第一章 異常
二〇二七年の春、東京大学の物性研究所で奇妙なデータが観測された。
量子コンピュータの基礎実験を行っていた大学院生の守屋遥は、超伝導量子ビットの状態を計測しているとき、あり得ないパターンに出くわした。量子デコヒーレンスが発生するはずの条件下で、量子もつれが崩壊しなかったのだ。それどころか、もつれは強化されているように見えた。
守屋は装置を疑った。センサーのキャリブレーションをやり直し、遮蔽を確認し、配線を一本ずつ調べた。三日間かけて、考えうるすべてのハードウェアの不具合を排除した。
四日目、同じ実験を走らせた。結果は変わらなかった。
量子もつれは壊れやすい。環境からのノイズが量子系に干渉すると、もつれは崩壊する。これをデコヒーレンスと呼ぶ。量子コンピュータの実用化が困難な最大の理由がこのデコヒーレンスであり、守屋の研究テーマもまさにその抑制手法の開発だった。
にもかかわらず、もつれは崩壊しなかった。コヒーレンス時間が理論的予測値の三倍に延びていた。量子ビットの重ね合わせ状態が、壊れるはずの条件下で、何かに支えられるように維持されている。
守屋は指導教官の蒲生宗一郎教授にデータを見せた。
蒲生は日本における量子情報理論の第一人者で、六十三歳。白髪混じりの髪を無造作に後ろに流し、コーヒーの染みがついたシャツを常に着ていた。学生からは「シミ先生」と呼ばれていた。
蒲生はデータをプリントアウトし、ソファに深く腰掛けて二十分ほど無言で数字を追った。
「コヒーレンス時間が三倍。しかも崩壊のカーブが理論と違う。途中で減衰が止まり、回復している箇所がある」
「はい。私もそこが引っかかっています」
「これが本物なら、開放量子系の理論にまだ知られていない項が存在することになる」
蒲生は書棚の最上段から古びた箱を下ろした。
「守屋。このデータ、絶対に外に出すなよ。追試を重ねろ」
箱の中から出てきたファイルの表紙には「八神研究室 実験記録」と手書きされていた。
「私の恩師、故・八神正彦先生の遺したものだ。七〇年代に量子光学の実験で同じような異常を観測していた。発表しようとして黙殺された」
ファイルの余白に赤ペンの走り書き。
「七月十五日。甲府市上空、未確認飛行物体の目撃報告多数。同日の実験データに顕著な異常。偶然か?」
守屋はファイルを閉じた。
UFO。守屋にとってそれは、まともに考える対象ではなかった。ロズウェルやエリア51といった名前は聞いたことがある。ネット上の写真や動画はほとんどが偽物だろう。仮に正体不明の飛行物体が実在するとしても、それはアメリカやロシアや中国の軍が開発した実験機であって、宇宙人の乗り物などではない。むしろ軍事技術の機密を守るために「宇宙人だ」というデマを流して撹乱させている——そう考えるほうが、はるかに妥当だった。
八神先生はそのデマに引っかかったのだ。優れた科学者だったかもしれないが、晩年の疲弊がそうさせた。そうに違いない。
しかし、その夜は眠れなかった。
三ヶ月の追試。異常は特定の日時にのみ集中し、他の日時には出現しなかった。温度でも電磁環境でもない。唯一のパターンは時間だった。
八神先生の一九七三年のデータは、守屋のデータと周期構造が類似していた。五十年以上の隔たりを超えて。




