プロローグ 診察室
その存在には名前がなかった。
名前という概念そのものが、ある特定のスケールにおいてのみ意味を持つ符号に過ぎないからだ。しかし便宜上、ここでは「医師」と呼ぶことにする。
医師は患者の容態を診ていた。
患者の体内には無数の器官があり、その器官の中には無数の組織があり、その組織の中には無数の細胞があった。医師が観察していたのは、そのうちのひとつの細胞――ごく小さな、しかし美しい青色をした球形の細胞だった。
問題はその細胞の表面にあった。
拡大してみると、細胞の表面にまばらに散在する微生物の群れが見えた。個々の姿は医師の解像度では判別できない。だが計測器が示すデータは明白だった。微生物群は少数でありながら活動が異常に活発で、細胞の表面温度を上昇させ、化学的組成を変質させ、細胞膜の一部を損ない始めている。
まだ致命的ではない。だが放置すれば周囲の細胞にも影響が及ぶだろう。
医師は処方箋を書いた。
投薬方法:標的送達型ナノカプセル。
薬剤特性:カプセル内の薬剤は標的微生物に接触し、その増殖制御系に介入することで、微生物群の活動を停止もしくは制御可能な状態に移行させる。薬剤は器であり、自律的な意思を持たない。その振る舞いはすべて機能である。
投与上の注意:標的微生物は外来物質に対して強い拒絶反応を示す傾向がある。カプセルから放出された薬剤が微生物に接触する際、拒絶を最小化するため、薬剤の外形を標的微生物の形態に模倣させること。
なお、模倣の精度について完璧を期す必要はない。おおよその形態的類似性があれば十分である。
医師はカプセルの射出を指示した。
患者の体内時間にして、それはほんの一瞬の出来事だった。
しかしその一瞬は、青い細胞の表面に棲む微生物たちにとっては――途方もなく長い時間になるはずだった。




