39. 皇太子は嗤う
『彼女は、何者かに拐われた』
俄には信じがたい、その言葉。
もしや……勢い余ってアレを殺したか?
その事実を隠蔽する為に、このような戯言を?
いや、そうなれば……この男は、隠す事などせず、アレの背中の傷を晒して、城門に吊るしただろう。
では、”拐われた”という言葉が事実であるなら……そこには確かな根拠があるはずだ。
考え込むうちに……男の視線に込められた敵意の理由に、気がついた。
(この男は……私を疑っているのか……?)
思わず、口元が緩む。
まるで見当はずれな、その考え。
(何故、私がそんな危険を犯してまでアレを拐うのか……)
この状況を愉しむ気持ちとは裏腹に……不快感が芽生えた。
「一体誰に?! 拐われたと貴殿は言うが……従妹自らが、貴殿から去ることを選択した可能性は?」
男は、その目をさらに細め、憎々しげにこちらを睨むと、大きく舌打ちをした。
この者は……その感情のままに荒々しく傲慢に振る舞うが……ここではそれが許される。
この男を心底軽蔑し、嫌悪していた理由の一端だ。
皇国では、皇族は、幼少の頃より、自らの感情を抑えるよう、教え込まれる。
感情を露わにするのは、学のない貧しい者たちのする事だと……。
怒りも、不安も、悲しみも、喜びさえ顔には出さず、ただ神の子孫らしく、穏やかに微笑をたたえる事が何よりの美徳とされていた。
だが、この国の竜人族の王たる者は、常に粗暴で冷酷で……人目を憚ることなく怒りを露わにし、残忍に振る舞うことさえ許される。
まるで、その凶悪さが正義であるかのように……。
自分の頬が、引きつっている事に気づく。
沈黙が続く……。
先に口を開いたのは竜王だった。
『貴方と、そして皇国が……この件に関わっていないことを願っている』
脅しを含んだその言葉は、熱をはらみ……竜王が立ち去った後も、部屋に、重苦しく残留した。
窓を開けるよう従者に命じる。
アレが、竜王の元からいなくなった。
自らの意志か……誰かの策略か……。
そして、竜王はアレを見つけ出したらどうするのか。
憎むのか、痛めつけるのか、それとも……。
自らの制御下にないこの現状……そして、理解の及ばない竜王の考え。
苛立ちが湧く。
かつては、アレに関することは……常に自分の手中にあった。
その時、従者に連れられて、妹が姿を現した。
「どうした?」
煩わしく感じるも、表情には出さない。
「兄様、フォルティス卿を見かけませんでしたか? 姿が見えなくて……。どこに行ったのかしら」
(あぁ、アイツか……)
最近妹が侍らしていた、騎士だ。昨夜もエスコートを任されていた。
ふと、小さな疑念が湧いた。
「いつからだ?」
「宴の後に別れて……それきり。いつも朝一番に迎えに来るように言っているのに、姿を見せなくて……」
窓から差し込んだ朝日が、一筋の光となって、我が身に降り注いだ。
天啓のように、降って湧いたその直感……。
つい半年ほど前、皇城の庭園で、目にした光景を思い出す。
庭園など興味もなかった私が、短期間に何度も訪れた理由……。
ゆっくりと通り過ぎながら、いつも目的の場所を見つめた。
アレが授業を受ける部屋の窓辺……。
椅子に腰掛け、書物に目をやるアレの側に、寄り添うように立ち、見下ろしていたもう一人の人物が……あの男か……。
幾つかの事実が重なり合い、明確な結論を導き出した。
あぁ、なんて愉快なんだろう。
この事を……竜王に教えてやるわけにはいかない。
アレの命運はいつも私が握っていた……。
それが宿命であるかのように……。
そして今も。
……アレに関する全ての事は、私の制御下にある。
「国に戻るぞ」
妹が戸惑いの表情を浮かべる。
「問題ない。そいつは、私が見つける」
窓辺に立ち、眼下に広がる景色を見下ろした。
広大な大地が朝日に照らされ、輝いていた。
(さてこの手札を、どう使おうか……)
アレを見つけることは、そう難しくはないはずだ。
ゆっくりと思索を巡らせる。
……考えるべきは見つけた後だ。
竜王に引き渡せば、私が手を煩わせずとも、アレを苦しめる事ができるだろうか……。
いや、あの男の真意は分からない。
それよりも……皇城に連れ戻せば、また、アレを思い通りに出来る……。
窓には、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる男の姿が写っていた……。
それが暗く悪質な意図を含んだ嗤いであることは、当人だけが知っていた。




