北アフリカ戦線①
第四装甲軍の反撃が成功したことで、戦役の主導権は再びドイツ側が握った。
ドニエプルの渡河地点に殺到していた赤軍兵力は文字通り粉砕された。
まず渡河地点ザポロジュに突進していたヴォロネジ戦線軍先鋒の第6親衛騎兵軍団が燃料切れで身動きがとれなくなった所を、第24装甲軍団に捕捉され撃滅された。
ハリコフ戦区の突破口からもう一つの渡河地点ドニエぺトロフスクに突進していた第6親衛軍、第38軍もSS装甲軍団と第48装甲軍団に挟まれて、壊滅した。
ヴォロネジ戦線軍の損失は甚大であり、1個騎兵軍団、1個機械化軍団、1個狙撃軍団が全滅。
2個戦車軍団、1個機械化軍団、1個砲兵軍団、8個戦車旅団、3個スキー旅団、8個狙撃師団が基幹部隊の過半数を失う壊滅的打撃を受けた。
取り残されたドン戦線軍も2個戦車軍団、7個狙撃師団が壊滅している。
ハリコフから入り込んだ敵を撃滅したことで、南方軍集団司令部は崩れた戦線を回復するため大規模な反撃に乗り出した。
狙いはハリコフの奪還及び、同市に留まる赤軍第1戦車軍の殲滅である。
SS装甲軍団がハリコフ市街を西正面から攻撃し、第48装甲軍団がドネツ河を渡河して南方から背後に回り込む。
余裕があればハリコフ東方に撤退中のヴォロネジ戦線軍主力(第7親衛、第40、第69)の背後を捕捉する。
ヴァトゥーチンは第1戦車軍の撤退を援護するため、第2親衛戦車軍団を南にむけた。
第2親衛戦車軍団は第48装甲軍団の先鋒グロスドイッチュラント装甲擲弾兵師団と激しい戦車戦を繰り広げ、一時的に第48装甲軍団の迂回を阻止した。
その間にSS装甲軍団がまっしぐらにハリコフへと突進、ハリコフから第1戦車軍を押し出した。
南方軍集団司令部の作戦意図では第48装甲軍団が背後を遮断するまでの間、SS装甲軍団はハリコフの第1戦車軍を釘づけにしなければならない。
押し出してしまっては敵が包囲の外にでてしまう。
南方軍集団司令部はSS装甲軍団の暴走を制御しようと懸命に努力したが、総統にハリコフを差し出そうと夢中になっていたSSの戦闘マシーン達には届かず、第1戦車軍は1万2000人の死骸を放棄して退却。
第四装甲軍は第1戦車軍主力の捕捉に失敗した。
追撃して捕捉しようとの声もあったが、すでに激戦に次ぐ激戦で第四装甲軍麾下の各軍団は限界をむかえており、燃料切れで放置される戦車が続出。とても全軍を上げて追撃に転じる余裕はなかった。
グロスドイッチュラント装甲擲弾兵師団だけが限界まで追撃を試みたが、3000人の捕虜を獲得するにとどまり、ヴォロネジ戦線軍主力の第1戦車軍、第7親衛軍、第38軍、第69軍の各軍は整然と撤退することができた。
包囲が完全でなかったこともあり、取り残された赤軍将兵も第2次ハリコフ戦のように小グループごとに分かれて、間隙部から脱出。
相当数の赤軍兵力が包囲網から逃れた。
それでも、一連の反撃で第四装甲軍はハリコフ戦区の回復に成功。
大きな危機を乗り切った。
モスクワ方面でも6個装甲軍団を招致した中央軍集団が大規模な反撃に成功し、入り込んできた第11親衛軍を逆包囲して8個師団を殲滅。
ミウス方面の敵兵力も橋頭保を潰されて退却を余儀なくされ、赤軍の連続攻勢はことごとく失敗に終わった。
ヴォロネジ防衛戦から『クトゥーゾフ』『ブルシ―ロフ』『ルミャンツェフ』までに赤軍が被った損失は目を覆うばかりのもので、攻撃兵力の大半は使い物にならなくなっていた。
・ヴォロネジ防衛戦
戦死者7万5000人 戦傷者10万人
・『クトゥーゾフ』
戦死者7万人 戦傷者18万7000人
・『ルミャンツェフ』
戦死者11万人 戦傷者24万人
・『ブルシ―ロフ』
戦死者1万2000人 戦傷者8万4000人
一方でドイツ軍側の損失も決して小さくはなく、3万8000人が戦死、17万8000人が負傷した。
また目標であった敵戦線軍の完全破壊は達成できず、半数以上を取り逃がしてしている。
西側連合国の欧州反攻前に東部戦線で決定的成果をあげようとしたドイツ軍の戦略はここに潰えることになる。
西方からの脅威は間近にまで迫っていた。
【1943年6月20日~ 北アフリカ・地中海戦域 】
ディエップ強襲以降、長く沈黙を保っていた米英はとうとう本格的な反攻作戦を開始することにした。
目標は北アフリカ・地中海戦域。作戦名は『ジムナスト』
エジプトでロンメル相手に悪戦苦闘する英第8軍の窮地を救うため、アフリカ大陸から枢軸軍勢力を追い出すため、スターリンの要請に答えるため、地中海地域におけるイギリスの覇権を確立させるため、欧州大反攻の予行演習のため。
様々な要因で決行されることになった『ジムナスト』は米英両国が蓄えてきたあらゆる軍事的資源が惜しみなく投じられた。
アメリカ欧州戦域軍の第一陣として北アイルランドに駐留している第1機甲師団、第1歩兵師団、第34歩兵師団が地中海戦域への移動を命じられた。
アメリカ本土からは第2機甲師団、第3歩兵師団、第9歩兵師団が派遣される。
総計12万8000人の上陸部隊を戦艦3隻、艦隊空母1隻、護衛空母7隻、高速巡洋艦4隻、駆逐艦38隻から成る海軍の大艦隊が護衛し、さらに制空権獲得のため艦隊空母4隻、軽空母5隻からなる英国海軍の航空打撃群が援護に加わる。
陸海空全てにおいて枢軸軍を圧倒しうる統合戦力が集められた。
上陸候補地点は当初、ロンメルの主要な補給港の一つとなっているチュニスが選ばれた。
しかし、チュニスは枢軸空軍の大拠点であるシチリア島に余りに近いことから危険視され、枢軸空軍の活動圏外であるモロッコ、アルジェリアに上陸し、陸路からチュニスを目指す侵攻案が採用された。
1943年6月20日、アメリカ東海岸と北アイルランドを出港した揚陸艦隊がジブラルタルで合流。
第2機甲師団、第3歩兵師団、第9歩兵師団から成る西方任務部隊がフランス領モロッコのサフイ、カサブランカ、ポールリョーテへ、第1機甲師団、第1歩兵師団、第34歩兵師団から成る東方任務部隊がフランス領アルジェリアのオラン、アルジェへの上陸を開始した。
この方面を守備している枢軸軍はフランス軍が主力だった。
フランスはドイツへの降伏後も植民地利権を維持するため、各植民地で連合軍の侵攻が確認された際は、ドイツ軍との軍事協力に応じることを約束していた。
一方で植民地利権を維持してくれるならば、後ろ盾は連合軍でもよく、おせじにも戦意が高いとは言えなかった。
少なくともドイツ人のために戦おうと決意するフランス人は一人もいなかった。
連合軍の上陸と同時に各地で親連合派の部隊が蜂起。
蜂起に参加しなかった部隊も出撃を拒むなど、フランス軍は組織的な抵抗をほとんど実行できず、頼みの綱のフランス海軍がカサブランカ沖で壊滅すると、将校達は次々と投降。
上陸開始から3日目で北アフリカ総督のフランソワ・ダルラン提督が連合軍との休戦を宣言。
モロッコ、アルジェリア地域はたいした戦闘もなく占領され、連合軍機甲部隊は主要目標のチュニスへと驀進した。




