第二次モスクワ会戦⑨
【1942年8月30日 北方戦区 第二装甲軍司令部】
反撃は第48装甲軍団のルジェフへの攻撃で始まった。赤軍の進撃ルートはカリ―ニンから西に進み、ルジェフを経由してヴャジマへと南下する一本道しかない。
ルジェフを奪還してしまえば、ヴャジマへ突っ込んだ全赤軍の退路を遮断出来る。
ルジェフで抵抗したのは歩兵とわずかな対空部隊ぐらいのもので、その脆弱な火力が戦車に圧倒されると、それらの抵抗もすぐに消し飛んだ。
市内の制圧が完了すると、第48装甲軍団は最後尾の第4打撃軍に背後から強烈な一撃を撃ちすえた。
ドイツ軍の一撃があまりに迅速だったため、後方の安全を確保する措置は全く講じられておらず、無防備な後方支援部隊が道路一帯に充満していた。
そこへドイツ軍戦車が猟犬のように襲い掛かっていく。
補給部隊は片っ端から吹きとばされ、一方的になぶり殺された。死体や炎上した車両の残骸がそこかしらに散乱し、一通りの殺戮が終わると装甲軍団は新たな標的を求め前進していく。
第4打撃軍が断末魔の悲鳴をあげる中、他の部隊も同様の災厄に襲われていた。
第5戦車軍は西方から襲来したシュヴェッぺンベルク大将の第24装甲軍団と、東方から襲来したレメルゼン大将の第47装甲軍団に、万力のように締め上げられ、猛烈な砲火の中で死に絶えた。
先頭を進んでいた3個装甲軍団も第17装甲師団と第29装甲擲弾兵師団の諸兵科連合戦術によってコテンパンに叩きのめされ、取り囲まれた。
17時間の激闘でほぼ全ての赤軍部隊が、消滅した。ヴャジマを目指し、意気揚々と出陣したカリ―ニン戦線軍第二梯団の鋭鋒はここに打ち砕かれたのだ。
しかし、グデーリアンはこれで満足しなかった。彼は独断でこの戦闘にケリをつける決定的な命令を下した。
「全軍団、南に旋回せよ!」
【1942年8月30日 ゴーリキー 赤軍最高総司令部】
6個戦車軍団、26個狙撃師団、10個独立戦車旅団が全滅した。
進軍中だった第5戦車軍は腹背を叩き破られ全滅。
最後尾の第4打撃軍は背後から追い撃たれ全滅。
先鋒の3個軍団は1個戦車旅団を除き全滅。ソロマーチン少将もポヴェートキン少将も戦死した。カツコフ少将だけが第4戦車旅団を指揮して脱出に成功している。
戦車800両、火砲4500門を喪失。戦死・戦傷者は29万8000人を数える。カリ―ニン戦線軍は赤軍の編制表から完全に姿を消した。
戦線軍司令部には一両の戦車もなく、275人にまで減った1個狙撃師団と100門の火砲だけが残されている。
カリ―ニンもルジェフも奪還され、蓄えた30個師団分の装備も失った。
しかも、勢いにのった第二装甲軍は南に旋回して西部戦線軍の側背に殺到してきている。
このままでは西部戦線軍までもを失い、全滅の憂き目に合うだろう。
ドイツ軍はジューコフの戦略計画をズタズタにしただけでは飽き足らず、作戦そのものに決定打を与え、なにもかもを台無しにしようとしている。
「閣下、撤退されますか?」
「…」
参謀長がジューコフに確認するように尋ねる。
敗北が確定した以上、攻撃部隊の主力である西部戦線軍だけはなんとしてでも逃がさなければならない。
同軍が壊滅すれば、ソビエトの国家戦略そのものが崩れる。
「北方の脅威に対処するには、後退して部隊を立て直し、防支に務めるほかありません。その上で、新鋭兵力の増援を待ち、経験や知識を生かして、あたらしい攻勢計画をたてればよいのです。閣下、ご決断を!」
「閣下っ!」
参謀達に必死の形相で迫られてもジューコフは決断できなかった。
クイビシェフではスターリンが暗い面持ちで吉報を待っている。
恐らくジューコフに三度目の機会はない。敗北が許されるのは一度までだ。
ジューコフほどの地位になると、軍事上の心配だけでなく政治的な気遣いも必要になってくる。
両方の懸念を解消するには勝利しかない。
しかしながら、ドイツ軍は執拗に赤軍を叩き続け、その一発一発が急所を突いてきた。おかげで攻撃参加部隊はすでにボロボロ。新手の装甲軍を相手に出来る余裕はとてもじゃないがない。
勝利の可能性は潰えた。
それでも、ジューコフは勝利の可能性にしがみついた。
――――敵は大きな戦果を得たが、その分消耗も激しい。装甲師団も歩兵師団もすでにボロボロのはず。北の脅威をあと三日抑え込めば、西部戦線軍は南方戦区を突破できる。そうなれば、戦局を一気に巻き返せる。
作戦継続の命令を出そうとしたその時、情報参謀が血相をかえて司令部に飛び込んできた。
「西部戦線軍司令部より緊急報告!南方戦区にて敵第3装甲軍が攻勢に転じましたっ!現在、第29軍が応戦中!」
参謀たちが凍り付く。
全ての希望は打ち砕かれた。
ジューコフは覚悟を決めたようにため息をつくと、凍てついた空気を破るように怒号を飛ばした。
「西部戦線軍司令部に伝達!現時点を持って『火星作戦』を中止。速やかに後退を開始せよっ!」
一瞬の静寂の後、参謀たちは一斉に動き出す。
参謀長と作戦参謀が退却計画を立案、政治委員が各軍司令部に矢継ぎ早に命令を伝達する。
「第5軍は攻撃用陣地からカザフ=ウラル鉄道線に沿って撤退し、味方全軍の撤退路を確保すべし」
「第29軍は第5軍が撤退するまで敵の追撃に備え、さらに第3戦車軍と共同で敵(第三装甲軍)をおさえつつ退却すべし」
「第3戦車軍は麾下全部隊を退却用陣地に収容後、味方全軍の撤退を援護すべし」
「第33軍は北方より圧迫する敵(第二装甲軍)を防ぎ、撤退する味方の側面を援護すべし」
喧噪の中でジューコフは己が敗北したことを改めて実感した。




