第二次モスクワ会戦⑤
轟々たる砲声と共に赤軍の第二次攻勢が幕を開けた。
先陣を切ったのは西部戦線軍第二梯団。55個狙撃師団、7個戦車軍団、2個突破砲兵軍団、2個航空軍の膨大な戦力が南方戦区の要塞陣地群に殺到する。
次いでカリ―ニン戦線軍第二梯団が火蓋を切った。
赤軍は温存してきた全ての砲兵を第二梯団の攻撃に投入した。
支援砲撃部隊を失った第一梯団に一門の火砲も割かず、第二梯団投入時までひたすら温存したのだ。
代償に第一梯団のほぼ全てを失ったが、流血と引き換えに得られた戦略的効果は絶大だった。
突破地点には1キロあたり150門の火砲が配置され、放たれた砲弾が豪雨のように要塞陣地に降り注ぐ。
鉄と火の災厄はトーチカを粉砕し、陣地に潜むドイツ兵を消し炭に変えて吹きとばす。
3時間近く続いた準備砲撃の規模はまさに空前絶後であり、各要塞陣地は炎と煙と土埃の中に沈められた。場所によっては10キロ平方メートルに2万発もの砲弾が降り注いだ。
一方的な破壊の暴風がやむと、地表を埋め尽くさんばかりの戦車と歩兵の群れが怒涛のように押し寄せる。
第一梯団時の攻撃を遥かに凌ぐ規模の津波が、要塞陣地に直撃し、その衝撃にドイツ軍は打ち震えた。
【1942年8月8日 北方戦区 オレニノ 第九軍司令部】
北方戦区は最大の危機をむかえている。
赤軍は26個狙撃師団、3個戦車軍団、3個突破砲兵師団、1個航空軍からなる巨大戦力をひっさげ、ズタボロの要塞陣地に強烈な一撃を打ち下ろしてきた。
消耗し、疲れ果てた数個師団の兵力で防ぎきれるものではなかった。これまでにない圧倒的な力を前に、第九軍は最後の力を振り絞り絶望的な防衛戦に突入した。
戦車、突撃砲、装甲車両が道を塞ぎ、各師団の砲兵連隊が全砲門を赤軍に向けた。
正確な照準で殺到してくる攻撃部隊をなぎ倒し、接近した敵歩兵は塹壕線の機関銃座が次々と血祭に上げる。赤軍も突破砲兵師団群を先頭に敵砲火の10倍に匹敵する報復の砲火を轟かた。位置が特定された火点は片っ端から集中砲撃を浴びせられ爆砕されていく。
危険な突破口が何度も形成されたが、そのたびに後続の2個装甲擲弾兵師団が叩き潰し、防衛線に開けられた穴を埋めた。
両軍の死闘は月曜、火曜、水曜、木曜と一週間に渡って続き、第九軍は懸命な防戦で30回に渡って赤軍の総攻撃を撃退した。赤軍は大損害を受けて一時的に後退、撃破され戦場に遺棄されたT-34は270両を数える。しかし、味方の被害も破滅的で、8月8日の時点で第8師団の生存者はわずか170人。第28師団も生存者は200人を切り、まともに稼働している師団は第67師団しかなかった。
重火器の60%も失われ、軍全体で使える戦車はわずか25両しかない(装甲擲弾兵師団を除く)。
第九軍司令部は今後の方針を決めるため、オレニノ市内のホテルで作戦会議を開いた。
「参謀長、君は戦況をどう見る?」
「攻勢の標的となった要塞陣地の地上兵力は3割に落ち込んでいます。また、要塞陣地も8割が破壊されています。戦線の穴を埋める予備兵力もなく、これ以上の戦闘は望めません」
第九軍司令官上級大将の問いかけに対して参謀長は冷徹に事実を告げる。
「つまり、要塞陣地におけるこれ以上の防衛戦は不可能ということだな?」
「はい。このまま要塞陣地で固定防御を実施すれば、間違いなく北方戦区は突破されてしまいます。ここは、余力があるうちに撤退すべきでしょう」
参謀長の発言に多くの部隊指揮官が賛同を表明する。常識的に考えて、この状態で作戦を継続するのは不可能に近い。
「・・・やむをえんな。第九軍は現時点をもってカリ―ニン要塞陣地を放棄。撤退行動に移る」
第九軍司令部の方針は決した。
早速、中央軍集団司令部に撤退を申し入れ、30分後、撤退を許可する通信が送られた。
【1942年8月10日 北方戦区 ホリト機動集団司令部】
第九軍は撤退を開始したが、ホリト機動集団(第31装甲梯団兵師団、第34装甲擲弾兵師団)だけは殿として戦線に残った。
稼働している戦車は181両。野砲も四十数門しか残っていない。
この脆弱な戦力で赤軍の追撃を防がなければならない。
第九軍の撤退開始から二日後、斥候部隊が赤軍の追撃部隊を確認した。
戦車の数は280両。3万~4万の歩兵部隊が戦車の後ろに続いている。しかも、これは第一波に過ぎず、後方には400両近い戦車群と8個~10個の狙撃師団群が集結中とのこと。戦力差は余りに隔絶している。
「今回、各戦車大隊には遅滞戦闘を行ってもらいます」
アリスはなるべく感情をこめずに淡々と告げる。
「無茶だ!そんなことをすれば瞬く間に戦力を消耗してしまう!」
大隊長の一人が叫ぶ。
「はい。ですので、戦う相手を選びます。敵追撃部隊の根幹を担うのは戦車を主力とする機甲部隊です。
これを止められなければ、撤退中の第九軍は全滅するでしょう。ですが、逆を言えば敵機甲部隊さえ、止めれば味方は救われます」
「戦闘計画の具体案は?」
ホリト大将が確認の意思を込めて尋ねる。
「敵は機甲兵力を正面攻撃部隊と側面攻撃部隊に二分しました。よって我々は、この戦力分散を利用して各個撃破を狙います。4個戦車大隊、4個装甲擲弾兵大隊を基幹に打撃部隊を編成、敵側面攻撃部隊に対して、奇襲攻撃をかけ、これを撃滅。その後、速やかに迂回して、敵正面攻撃部隊の背後を突きます」
アリスは作戦地図上を指先でなぞりながら、説明する。カリ―ニンからルジェフ、ヴャジマへと続く幹線道路は一本しかなく、ホリト機動集団は道路を封鎖するように布陣している。
道路の北は丘陵地帯、南は森林地帯であり、戦車を埋伏させるには絶好のポイントだ。
打撃部隊を森林に待機させ、敵が攻撃を開始した段階で、敵側面攻撃部隊を潰し、正面にひしめく主力部隊を陣地守備隊と挟撃する。
「なるほど。これならば敵の第一波は殲滅できる。だが、第二波はどうする?第一波を潰しても、我々の戦力はさらに消耗するだろう。第一波より強力な第二波に抗するすべがないのではないか?我々はいつ後退するのだ?」
「・・・敵の第一波を迅速に殲滅し、第二波の到着前に撤退を完了させるしかありません。時間との勝負になるでしょう」
殿で最も難しいのは離脱のタイミングだ。適切な時期に離脱出来なければ、背後を突かれて、踏みつぶされてしまう。
第二波が来る前に第一波を殲滅し離脱する。口で言うのは簡単だが、現実問題として不可能に近い。
兵力で勝る赤軍は間断なく攻撃を仕掛けてくるはず。そうなれば、否応なくその場に踏みとどまり防衛戦を継続するしかない。
離脱の好機をつかめないままズルズルと戦い、全滅するということも十分にあり得る。
それがわかっているだけに、司令部の空気は暗い。
もはや、戦術や作戦で覆せるような物量差ではない。
しかし、誰かがやらなければならない。成功すれば6万5000の将兵の命が救われる。
今はそれでよしとするしかなかった。




