モスクワ会戦②
【1941年7月5日 ソビエト社会主義共和国連邦 ロシア社会主義共和国 モスクワ防衛軍司令部】
首都モスクワは三重の障壁で守られている。第一防衛線のルジェフ=ブリャンスク防衛線、第二防衛線のモジャイスク防衛線、第三防衛線のモスクワ最終防衛線。
ジューコフはどこまで下がり、どの地点で踏みとどまって反撃に転じるかを決めかねていた。防衛線にはたいした兵力を割かず、防衛線の合間に主力を置いた。どんな攻撃をされても柔軟に対応するためだ。
適切な地点に兵力を集中するには敵が準備している攻撃の兵力と方向とを正確に把握する必要がある。今の時点では全ての戦況を読めない以上、こうした配置で対応するしかない。
各防衛線では対戦車障害地帯の設置が進んでいる。障害地帯といっても直接照準可能な位置に45ミリ対戦車砲と76ミリ野戦砲を設置して、周囲を塹壕で覆った程度の簡易的なものでしかない。これを縦深に拡大していくことで、進撃するドイツ軍装甲師団に耐え難い損害を与える予定だ。
後方では医療施設や通信設備が整えられ、各種補充品や装備品も集積されつつある。あと三か月もあればどのような敵もよせつけない堅陣を作ることができただろう。だが、今の赤軍にそんな余裕はない。
ドイツ軍の動きは想定よりもはるかに速い。ジューコフはスモレンスクで包囲された味方が殲滅されるまで、ドイツ軍が進撃を再開することはないだろうとにらんでいた。
ところが、ドイツ軍はスモレンスクの包囲を本隊に任せ、装甲部隊だけでモスクワに突っ込んできた。
航空支援も歩兵による支援も捨ててスピードを優先したのだ。常識的に考えればありえない行動だが、その蛮勇さが、ジューコフにとっては恐ろしかった。
ドイツ軍は全てを失う覚悟で賭けを挑んできている。自身を死地にさらしてでも、赤軍とソビエトに致命傷を与える選択をしたのだ。
「同志ジューコフ。貴官に尋ねたいことがある」
「なんでしょう。ブジョンヌイ元帥」
セミョーン・ブジョンヌイ元帥。ロシア内戦時に騎兵を指揮して大活躍した赤軍の英雄で、軍最古参の一人だ。ジューコフ自身も騎兵将校時代、ブジョンヌイにはよく世話になった。
指揮系統上、彼はジューコフの指揮下にあるが階級も経歴も上の元上官という立場は正直言って面倒だった。
「貴官は一体どこでファシストを止めるつもりなのだ?ルジェフ=ブリャンスク防衛線は放棄するつもりなのか?」
「まだ決めていません。今の時点で私が言えるのはルジェフ=ブリャンスク防衛線とモスクワ絶対防衛線の間で敵を撃破するということだけです」
「そんな消極的な作戦で大丈夫なのか?すでに敵は1000キロ以上我が国の領土を侵犯している。これ以上、敵を進ませないためにもルジェフ=ブリャンスク防衛線で決戦を挑むべきだ」
ブジョンヌイは前線指揮官として二個軍を統率し、ルジェフ=ブリャンスク防衛線の守備を任されている。その彼からすればスモレンスクの予備戦線軍のように囮にされることが一番恐ろしいのだろう。
ルジェフ=ブリャンスク防衛線で決戦という事になれば、その心配も消える。
かつての英雄も、今では保身に凝り固まった哀れな老人というわけだ。
「心配しなくても元帥を囮に使ったりはしませんよ。それは約束します。ただですね元帥。同志スターリンから軍権を与えられているのはこの私なのです。そこはご理解いただけないと困ります」
「わかっている」
スターリンの名を出すとブジョンヌイはそそくさとひきさがった。
彼の自論は軍内部では主流の意見だ。ジューコフの作戦案を支持する者はワシレフスキー中将を除くと古巣の参謀本部にすらいない。誰もがはやく戦いたがっている。
強大な敵を相手にした時ほど軍人は単純で手っ取り早い戦い方にはしりたがる。身を焼くような恐怖と勝焦燥感から逃れるには敵と戦うのが一番はやいのだ。じっと耐え凌げる人間は意外と少ない。
押し込まれれば押し込まれるほど押し返す力も強くなるのだ。あとひとおしかふたおしされれば負ける。そういう状況になるまでジューコフは待つつもりでいた。
【1941年7月10日 ソビエト社会主義共和国連邦 ロシア社会主義共和国 ヴャジマ 第二装甲軍司令部】
第二装甲軍はエリニャから真っすぐヴャジマを突いた。ヴャジマはルジェフとブリャンスクの中間に位置し、ここを落とせば防衛線を分断できる。赤軍の抵抗は予想していた程ではなかった。
三重の対戦車陣地帯を抜くと、ヴャジマ守備軍は抵抗せず、あっさりと後方に撤退した。ルジェフとブリャンスクの赤軍もとくに抵抗することなく下がっている。
第一防衛線をはやくも突破したわけだが、スモレンスクやミンスクの時と違って赤軍は整然と撤退している。
防衛線を破ったというよりもたわませたという方が正確かもしれない。弾力のあるボールに指を突き立てているようなかんじだ。押し込めば押し込むほど押し返そうとする反動のパワーも強くなる。
ただ、補給は順調だった。鉄道と幹線の交接点であるヴャジマは兵站基地として利用できる。すでに、おびただしい数の物資が同地に集積されていた。史実と違ってモスクワ攻略を担当する中央軍集団に補給が最優先されているのも大きい。
「このまま押し上げますか?」
「まてハーネ大尉。赤軍に動きがないのがきになる」
「それは私もです閣下。ですが、時間は赤軍に味方します。ここは予定通りボロジノまで兵を進めて様子を見るべきではないでしょうか?」
普通に考えれば赤軍はモジャイスク防衛線で踏みとどまるはずだ。
防衛線の近くには戦車の障害となる河川が多くあり、しかも、川岸は東に切り立っていて防衛側に有利だ。後方にはモスクワ直通の幹線道路や鉄道が充実し、補給や兵力移動の面でも都合がいい。史実のジューコフもここに重点を置いた。
アリスの案ではボロジノを攻略して敵の主抵抗線であろうモジャイスク防衛線を分断することになっている。ここをへし折ればモスクワまでの接近路で障害になるのはモスクワ最終防衛線しかない。赤軍になにか策があっても出来ることは限られている。
ただ相変わらず嫌な予感はぬぐえなかった。単純にモジャイスク防衛線で食い止める気とはとても思えない。赤軍の防衛線には得体の知れない禍々しいなにかが潜んでいるような気がする。
「貴官はどう考えるヴェステンハーゲン少佐」
「赤軍は後退していますが、それにしては乱れがありません。恐らく予定していた撤退行動かと思われます。今一度、敵の配置を探るべきかと」
「私も貴官に賛成だ。だが、ハーネ大尉の言う通り我々には時間がない。せいぜい一日止まるのが限度だ」
配置を確認した所で敵の意図がわかるとは限らない。それも、一日で探るとなればなおさらだ。
時間をかけられないのも仕方はない。防御にむいたモジャイスク防衛線に時間を与えれば、その分味方の損失は増える。
油断は禁物だが慎重になりすぎて敵に時間を与えるのはもっとだめだ。もしかしたら、赤軍を恐れすぎているのかもしれないが、ジューコフがなにかを仕掛けているのは間違いない。
フランス戦が終わった時から入念に欺瞞工作を重ね史実でのネガを潰してここまできた。やれることは全てやってきた。ここでつまずけば今までの努力は全て水泡にふす。自分の命だけではない。ドイツ国民8000万の命運がかかっている。
その判断は慎重かつ大胆かつ迅速かつ正確に。それはわかっていても、どうしたらいいかという具体的な策はどれだけ考えてもわいてこない。不安だけが際限なくわきでていた。




