ゲオルギー・ジューコフ
【1941年3月30日 ソビエト社会主義共和国連邦 モスクワ 国防人民委員部 参謀本部】
赤軍参謀総長ゲオルギー・ジューコフ上級大将は憂鬱だった。
参謀本部の会議室に100人以上の将官がスターリンに集められ戦略会議が開かれたのはつい先日。
議題はもちろん国境で不穏な動きを見せるドイツへの対応策だ。ここ一か月でドイツは100個師団を超える大戦力を独ソ国境に集結させている。なんらかの軍事作戦に備えているのは間違いない。一方でモスクワ指導部の見解はひどく楽観的だ。
呆れたことにドイツ側の「東部での兵力集中は対英軍事作戦の実施中に背後を突かれないための防衛措置である。独ソ開戦の噂はイギリス情報機関が流した欺瞞情報にすぎない」とする説明はスターリンを含めた多くの党高官に支持されている。
「これはイギリス帝国主義の狡賢い謀略に違いありません!我が人民とドイツの友人が仲たがいして最も喜ぶのはかの国ですから。ここはヒトラーを挑発するような行動は慎むべきです」
「イギリスと戦争中に我が国相手に戦端を開くなど軍事戦略上ありえません。先の大戦で痛い目をみたドイツが再びニ正面作戦の愚を犯すでしょうか?これはイギリス情報機関の謀略の可能性が高いかと」
党高官達が次々と自説をアピールするが、これは自論を述べているというよりスターリンの意向を知った上で追従しているだけだ。スターリンは我が軍と我が国の困難な現状を最も理解しており、今、開戦すれば勝てないことも熟知している。故に彼は可能な限りドイツとの戦争を先延ばしにしようと躍起になっている。
たしかにドイツ軍は将卒ことごとくイギリスにむいており、国内でも盛んに対英戦を喧伝している。GRU(赤軍情報部)の調査でも対英戦を示す兆候は無数に見つかっており、1941年5月には新たな対英上陸作戦を実施するとの情報も入ってきている。東部に集結した部隊も国境沿いに要塞を建設し、攻勢というよりは守勢を重視し我が軍の攻勢を恐れているような様子だ。前年のバルカン作戦もイギリス軍から油田を守る作戦だと考えればおかしな点はない。
だが、もしこれら全てがドイツ軍による計画的な欺瞞作戦だったらどうなる?
我が国を油断させ完璧な戦略的奇襲を成功させるための。もしそうだとすればドイツ軍のこれまでの行動には首尾一貫した戦略が見えてくる。
対する我が国は明確な防衛戦略すら定まらず、軍の配置すら完了していない。一応部分動員は実施され、国境への兵力移動が開始されているが、部隊を守るべき要塞も陣地も未完成で、各軍司令部と師団司令部をつなぐ無線機能すらなく、急に動員を開始した影響で定員割れした師団が大半を占めている。装備品も転換期にあるので旧式装備と新式装備が入り混じっており、粛清の影響で将校の不足も著しい。国境を守るNKVD部隊と赤軍の連携も不十分で、侵入者を効果的に迎撃する防衛システム自体が存在しない。部隊の配置も遅々として進まず、360個師団が配置につく予定だったがこの分だと4月末までに171個師団が限界だ。
我が軍は制度、装備、戦略、配置、防衛計画と全ての面で過渡期、転換期にある。もし開戦が一~ニ年後ならば苦戦することもなく、容易に返り討ちにできただろう。それまでファシスト共が待ってくれればの話だが。
今、奇襲を受ければ間違いなく建国以来最悪の大惨事になる。
にも関わらずモスクワ指導部は願望にすがる余り現実が見えていない。自身の願望にとって都合のいいイギリス諜報機関の謀略という妄想に逃避してしまっている。
防衛計画自体もかなり杜撰だ。
我が国は大戦が勃発してから西部ポーランド、バルト三国、北部ルーマニア、カレリア・フィンランドを併合し、西に領土を拡大してきた。国境線が西に大きく伸びたことにより従来の国境防衛線「スターリン線」に代わって「モロトフ線」が建設されている。だが、このモロトフ線は建設開始から今だに日が浅く、要塞の半分も完成しておらず配置についた守備兵もまばらでしかない。中には西に240km突き出たヴャリストク突出部のような包囲殲滅してくださいと言わんばかりの危険地域も複数ある。
我が軍は伝統的に攻勢を最重視し、全ての軍事教範は敵地における機動戦と包囲殲滅戦を前提とし、国内での防衛戦を想定していない。その影響で軍内部では攻勢論者が根強い。
私自身は国境線を放棄し完成した旧来の防衛線スターリン線に下がって防ぐべきだと考えているが、戦う前に領土を放棄するのか!と猛反発された。
国土に敵を入れたくないのはわかる。国土に敵が深く侵入すればするほど戦場になる範囲は広がり被害は大きくなるからだ。しかし、我が軍の現状ではドイツ軍相手に普通に戦っても勝てない。いや、我が軍だけではない。ポーランド、フランス、ノルウェー、ギリシャ、ユーゴスラビアと国境で迎撃した国はことごとく電撃戦で葬り去られている。
電撃戦を破る手段は一つしかない。
それは広大な戦略的縦深を確保し、縦深を最大限利用して戦うことだ。
ドイツの電撃戦は攻撃の主力となる装甲師団の兵站と航空支援をいかに継続させ、兵站基地の近くで敵を殲滅するかが肝になる。兵站基地から離れれば離れるほど、航空支援は薄くなり補給は途切れ打撃力は低下していく。
ドイツ軍の補給と航空支援が限界に達するラインまで防衛線と兵力を下げ、縦深にひきこみ疲弊を狙う。装甲師団が最強の力を発揮できる国境近くで戦うなど愚の骨頂。その上で決戦に持ち込むのが最適解だ。
かつて帝政ロシアがナポレオンを破ったように戦力を温存しながら、国土の奥深部までひきずりこむ。
「同志スターリン。参謀本部の見解を述べてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。自由に胸の内を開陳してくださいジューコフ上級大将」
「ありがとうございます」
スターリンは部下の話をよくきく。温和で礼儀正しく声を荒げることもない。並外れた記憶力を持ち、あふれんばかりの教養と理知的な思考力で多くの人を魅了する。暴力と諜報だけで独裁者に成り上がった男ではない。
一方で思い込みが激しく嫉妬深く陰湿で冷酷非情な一面ももちあわせている。そこを読み間違えるとかつてのトハチェスキーのように物理的に抹消されることになるだろう。
「モロトフ線の完成率は現在のところ30%ほど。物資、人員、計画、通信機能と全てが不足しています。もしドイツ軍の奇襲を受ければ現状の防衛体制ではまず防ぎきれません。ここは装備も軍事施設も充足したスターリン線を防衛線とし、NKVD国境守備隊を除く戦力は国境から下げるべきかと」
スターリンの横にいるクリメント・ヴォロシ―ロフ元帥が反論を口にする。
スターリンの友人である彼は最高指導者との縁故、政治的な信用度という点だけを評価されて元帥号を授与された。本来なら騎兵小隊の指揮官がようやく勤まる程度の男でしかない。
「参謀総長。それでは我が国が大戦以来獲得してきた領土を放棄することになるのではないかね?兵力を後方に下げればファシストはなし崩し的に我が国の領土を侵犯し併合してしまうだろう。そもそもドイツは我が国と戦争する気はない。ここで我々が弱気になれば彼らを増長させかえって戦争を誘発してしまうのではないかね?国境での兵力集中はあくまで抑止力なのだ。本格的な防衛計画など無用だよ」
正気か?いくらお前が無能とはいえ頭を使えばわかるだろう。奇襲を受ければ新領土どころかソビエト体制、いやロシアという国家そのものが失われるということに。
「ジューコフ上級大将。あなたはドイツとの戦争は避けられないと考えているのですか?」
スターリンが静かに問いかけてくる。
「はい。現在ドイツ軍は東部に大兵力を集結させています。にも拘わらずドイツ国内からは我が国との戦争をにおわす情報が一切なく、対英戦の情報のみがあふれています。私にはなにか作為的な意図があるように思えます」
「我が国を欺き奇襲をたくらんでいると?」
「そうでなければ説明がつかないかと」
スターリンは頭の中を整理するように考えこんでいたが、五分ほどで結論を口にした。
「参謀本部の見解はよくわかりました。ですが配置を変えることは認められません。私はまだ外交交渉でドイツとの戦争は避けられると考えています。上級大将、あなたの危惧は理解しますが決定的な根拠に欠けます。憶測で外交方針を変えるわけにはいきません」
「わかりました。ならば、せめて予備師団を参謀本部の直轄兵力としてドニエプル=西ドヴィナ川の第二線に配置することを許していただけないでしょうか?予備兵力を温存すれば奇襲を受けてもある程度の組織的な反撃は可能になります」
幸いなことに装備も人員も充足した精鋭師団32個は予備兵力として今だに配置が決まっていない。
奇襲を受ければ真っ先に壊滅することになる国境に送っても無駄になる。
予備師団はドイツ軍の第一撃が及ばない後方に決戦兵力として温存する。国境部隊を下げれないのは痛いが予備兵力だけはなんとしても下げておきたい。この兵力まで国境で失うことになれば我が国と赤軍が勝利する可能性は0になる。
「いいでしょう。予備師団の取り扱いは参謀本部に任せます」
よかった。軍事的には無能な最高指導者とはいえ完全に頭が腐りきってるわけではないらしい。
国境部隊が壊滅した後、予備師団は決戦兵力の中核となり反撃計画は予備師団を握る参謀本部が主導することになるだろう。
スターリンや国防人民委員に割り込まれることもなく私の采配でドイツと戦える。
赤軍に人材多しとは言ってもドイツ軍相手にまともに立ち回れる将官は私しかいない。
これはうぬぼれでもなんでもない。れっきとした事実だ。私は参謀将校としても野戦指揮官としても全軍の最高司令官としても結果をだせる。マルチな才能を持つ唯一の人材だ。赤軍どころかドイツ軍にも私のように多彩な才能に恵まれた人材はそうそういないだろう。
祖国とソビエト体制を守るのはこのゲオルギー・ジューコフだ。戦争になればスターリンも党高官も、そしてドイツ軍も思い知ることになる。




