ウィストン・チャーチル
【1940年9月20日 グレートブリテン連合王国 ロンドン 首相官邸】
連合王国首相ウィストン・チャーチルは各方面の情報機関が精査した一級情報を丹念にきいていた。
ドイツは世界各地で大英帝国の覇権に挑戦すべく、軍事的圧力をかけてきている。
「ヒトラーはギリシャへの攻撃を決めたようです。先日、ルーマニアに駐留するリスト陸軍元帥とブルガリア軍参謀本部が秘密協定を結び、ブルガリア領内の軍事通過権が認められました。リストの先遣隊はすでにブルガリア領内に入り、橋梁の強化や道路の補修を開始しています。ルーマニア政府もギリシャ作戦への協力を表明し、黒海の港湾都市コンスタンツァに貯蔵された70万トンの石油を提供するとドイツ外務省に申し出ています」
「ギリシャ政府はなんといっている?」
「サロニカに連合軍を迎え入れる用意があるとギリシャ国防相から連絡がありました」
サロ二カとクレタ島に王立空軍が駐留すれば、ルーマニアの油田地帯を爆撃で叩くことができる。
先の大戦でもサロ二カに上陸した連合軍が戦争の趨勢を決めた。
ヒトラーはルーマニアと南ドイツに対空火器を送り、さらに陸軍を用いてギリシャそのものを押さえ、石油利権を防衛しようとしている。
ギリシャ方面に兵力を送ればドイツ軍を一定期間ひきつけることは可能だろう。ただし今の連合王国がギリシャに送れる兵力は一~ニ個師団が限度。
生半可な戦力では返り討ちにあう可能性が高い。
「イタリア方面はどうかね?」
「ミルヒ空軍元帥が9月10日にローマを訪問。イタリア軍参謀本部と会談し、南イタリアとシチリア島に急降下爆撃機二個中隊をそれぞれ配置、シチリア海峡を封鎖する作戦を決めたようです。同時にイタリアに派遣した空軍戦力で我が国の地中海拠点を叩く作戦が進行中とのこと」
「アレクサンドリアの海軍司令部に警戒態勢への移行を命じたまえ。陸軍にはマルサマトルーフの防衛強化を急がせろ」
ヒトラーの狙いはアレクサンドリアに駐留するH艦隊とスエズ運河だろう。イタリア領リビアから最も近い港湾都市マルサマトルーフが落ちれば、ドイツ空軍はそこからアレクサンドリアを直接叩ける。ただギリシャ作戦にはイタリア軍も動員されるとのこと。ギリシャが片付くまでエジプト方面に本腰を入れることはないだろう。
「ドイツ軍参謀本部はジブラルタルへの攻撃計画もたてているようで、スペインのフランコ総統にあらゆる方面から参戦を呼びかけています」
「スペインが枢軸国に加盟した場合、わが国は直ちにカナリア諸島を含む海外植民地を占領するとフランコに伝達するのだ。ヒトラーに協力しても捨て駒にされるだけだとわからせろ」
ジブラルタルはスエズ同様に地中海の出入り口となる。スエズかジブラルタルのどちらかが落ちれば、連合王国の世界戦略は甚大な被害を受けるだろう。
「ブリテン島への上陸作戦の可能性は?」
「アシカ作戦以降、国防軍最高司令部ではアイルランドへの侵攻計画『アルビオン作戦』が進行しているとの情報が入ってきています。すでにダブリンにアプヴェーアの諜報員を複数確認しています」
アイルランドは1938年に連合王国の支配から離れ、大戦でも中立を宣言した。とはいえ反英感情が根強い同国は枢軸陣営を影ながら支援しており、ダブリンは枢軸側諜報員の楽園となっている。ブリテン島と隣接しているアイルランドがドイツ陸軍に制圧され、ドイツ空軍とUボートの拠点となった場合、連合王国最悪の脅威となる。
「海軍の見解はどうだ?実現可能な作戦なのかね?」
「不可能とのことです。制空権も制海権も我が軍が握っている状況での上陸作戦は無謀でしかありません。おそらくギリシャ作戦を成功させるための陽動ではないでしょうか?」
他にも連合王国の石油供給源でもあるイラン、イラクで反英活動を活発化させる計画、フランス領シリアに空軍基地を置き、スエズを脅かす計画や同盟国日本にシンガポールを叩かせる計画など、ドイツは世界規模で戦争を仕掛けてきている。
しかし、これら全てを真面目に受け取る必要性はない。あらゆる方面で圧力をかけなんとしてでも対英講和に持ち込もうとするヒトラー一流の恫喝でしかないのだ。連合王国の抵抗が健在な限り、ドイツはソ連を打倒して欧州の征服に乗り出すことも、統一ヨーロッパを形成してアメリカに対抗することも出来ない。喉元に刺さった棘のように連合王国の抵抗そのものがヒトラーの野心を粉砕する鍵となる。
例えスエズが落ち地中海から締め出され、中東の油田地帯を失いあらゆる資源の補給を断たれても抵抗をやめるつもりはない。アメリカが参戦しドイツとソ連が開戦するその日まで粘れば、勝ちなのだ。
連合王国の世界戦略はアメリカとソ連という二本の支柱が要となる。
新大陸は対英支援には動いているが、参戦するにはまだまだ時間がかかる。
現在ドイツを脅かす軍事力を欧州で保持しているのはロシア人だけだ。だがロシア人との連携は苦渋の決断だった。反共鷹派のチャーチルからすればスターリンとの同盟は悪魔との契約に等しい。ロシア革命がおこった時、革命政権撲滅に最も尽力したのが自分だった。
そうした葛藤を乗り越え、チャーチルは左派労働党のクレープスをモスクワ駐在大使に任命。
スターリンに親書を渡させた。しかし、結果は最悪だった。
チャーチルはスターリンに欧州におけるドイツの危険性を訴えたが、クレムリンの主は冷淡でドイツに対していかなる危険は感じてもいないと返答がきた。
あげく、外務人民委員モロトフがチャーチルの親書をドイツのモスクワ駐在大使に渡したとの情報も入ってきている。
対ソ外交は完全に失敗した。
こうなれば、アメリカが参戦するまで連合王国は独力で持ちこたえなければならない。
とにかく時間が必要だ。
複数ある脅威の中で最も脅威度と優先度が高いのがギリシャだ。ギリシャが落ちればバルカン半島の全てが帝国の手に落ち、地中海における連合王国の拠点が深刻な危機に瀕する。まずはギリシャ作戦を遅延させることに全力を尽くす。
「トルコは動かせないか?」
トルコは黒海をめぐってブルガリアと長年争っており、ブルガリアがドイツ軍の駐留を認めた際にトルコ軍参謀本部は枢軸国との戦争計画を立案したとの情報も入ってきている。トルコが連合国に味方すればバルカン半島の後方基地は乱れ、ギリシャ作戦に遅れを生じさせられる。
トルコ、ギリシャ、ユーゴスラビアで連合国主導のバルカンブロックを形成し、ドイツの南東ヨーロッパにおける覇権を阻止するプランは戦前から考えられてきた構想でもある。
「残念ながら不可能かと。トルコ政府は国内で活動する我が国の諜報員を一斉摘発する一方で、帝国側の諜報員は放置しています。これは明らかに帝国との戦争を恐れている行動かと思われます。帝国がルーマニア、ブルガリアを押さえたことで、トルコへの侵攻は現実味を帯びるようになり、外交方針を転換したのかと」
「ユーゴスラビアはどうだ?パブレ・カラジェルジェヴィチ摂政は以前、連合軍の駐留に前向きだったはずだが?」
ユーゴスラビアは若い国王のパーペル二世に代わって、摂政のパブレ・カラジェルジェヴィチが実権を握っている。パブレは親英派の代表格であり、連合王国との縁も深い。
「それがルーマニア、ブルガリアの動向に影響を受けたのかここの所、外交方針を転換し、ドイツへ接近しているようです。親独派のミラン・ネディッチ将軍が復権し、陸海軍大臣に就任するなど、人事も親独派に置き換わっています」
「つまりバルカン方面でうつてはないということか…。」
「いえ。それが対ソ諜報中に面白い情報を耳にしました。どうやら一部のセルビア人グループがGRU(赤軍情報部)の支援を得てクーデターを計画中とのことです」
「それは本当かね?」
「はい。大スラブ主義の代表的人物であるドゥシャン・シモヴィチ空軍司令官を中心とするグループがGRUと接触しているのを確認しました。間違いありません。また首都ベオグラードを中心に王国各地で反独デモがおこり、社会一般の気分はドイツに対して険悪です。スウェーデン大使がドイツ大使と間違えられて殴打される事件も生じています」
国内では親英派、親ソ派が依然として力を持っているということか。彼らを支援してユーゴスラビアを味方にひきこめればバルカン情勢は一変する。
そしてなによりソ連の秘密工作を掴めたのは大きい。独ソ関係を悪化させる絶好の材料になるはずだ。
「よし。我々もロシア人に乗っかってやれ。合衆国の参戦はもうじきだとクーデター派に伝えてやるのだ。そしてドイツ方面にもソ連の関与を臭わせる情報を流せ」
ユーゴスラビアが連合国に参加したとなると、間違いなくギリシャ作戦は延期となる。
そしてソ連との関係悪化は連合王国への圧力を軽減させるはず。
時間稼ぎとしては十分だろう。
議会の非戦派の中にはアメリカやソ連の時間稼ぎに連合王国が利用されているだけではないかとの声もある。このまま勝利しても我が国は新大陸に覇権を奪われるだけではないかと。
だが、チャーチルはドイツとの戦争を単なる国家間戦争だとは思っていない。たんなる国家間戦争ならばチャーチルもとっくの昔にドイツと講和し、戦争から離脱していただろう。
今回の大戦は前回の大戦とは違う。ファシズムとファシズムへの隷属を拒むあらゆる政治勢力による国際的なイデオロギー戦争であり存亡をかけた絶滅戦争なのだ。連合王国がファシズムという政治体制を許容できない以上、ドイツと妥協することは決してない。例え祖国が焼野原になり未来を支える若者が数万人死のうともだ。ファシズムは平和と自由を愛する全人類の敵であり、全ての自由市民の共通した脅威なのだから。
必ず貴様を地獄におくってやるぞヒトラー。その日がくるまで私と帝国臣民はどんな辛苦にも耐え抜いてみせよう。