第5話 拳
俺は改めて、ユリアに大丈夫かと言った。ユリアは、はっきりとうなずいた。俺はいろいろと気になることがあった。
「あの男の正体を、ユリアは知っているのか? 単なるチンピラにしては、裏の事情に通じているようだが……」
すると、その男が再び、路上からゆっくりと起き上がり、こちらを向いたではないか。男は頭から血を流しながら、言った。
「この、ゴミ野郎どもが……! もはや、アイテムなどどうでもいい。二人まとめて、八つ裂きにしてくれる!」
そして、懐からナイフを取り出し、こちらに突進してきた。
俺は、全身全霊の力を拳に込めた。拳が「強化」されたのが、感じ取れた。
肉厚のナイフの切っ先は、猛スピードでこちらに向かってくる。
俺は、己れの拳をナイフにぶつけた。ナイフの金属がめりめりと裂け、砕けるのが分かった。
そして、俺の攻撃は、男の身体にクリーンヒットした。破壊エネルギーが急速に蓄積した。
次の瞬間、男は地平線の果てまで、塵となって吹き飛んでいったのである。
鳴り響く轟音。そして粉砕と消滅。
しかも、拳から発せられたエネルギーは、裏通りの壁や敷石を、大幅に壊してしまった。俺は我に返って、その様子を見た。
「……やり過ぎたかもしれない」
俺はそうつぶやいた。ユリアを巻き込まなかっただけで、もっけの幸いであった。
ともかく、俺は可憐な者を守ることができた。イデアル女神も、そのことを良しとしてくださるだろう。
しかし、それだけでは収まらなかった。
一連の騒ぎを聞いた通行人が、表通りから、ぞろぞろとやって来ようとしてきていたのである。
ユリアは、急ぎ足で言った。
「立ち去りましょう、ここから」
俺はうなずこうとしたが、なぜかそうすることができなかった。身体が鉛のように重かった。エネルギーの明らかな使い過ぎである。
そのため、俺はユリアに肩を助けられて、ようやくその場を後にすることができたのである。
◇ ◇ ◇
ずいぶん、長く眠っていた気がする。
しかし、俺はやがて意識を取り戻した。ただ、そのことは、一概に楽しいことではなかった。
身体全体に、強い痛みを覚えたのである。まず、まともに動けるような状態ではなかった。
まぶたを開けることにすら、億劫さを感じた。
俺は大きく呻いた。すると、意識の外から声がした。
「ジュンさん、……ジュンさん!」
俺はそれに返事しようとしたが、出たのは子供のような、弱々しい声だった。
すると、俺の頭に何か、非常に優しい感触がした。ああ、これはユリアだな。その手だ。ほんとうに、ありがとう。こんな俺を助けてくれて……
その思いに安心したのか、俺の意識は再び、闇の中に沈んでいった。
そして、十日が経った。
満身創痍の俺は、さすがに回復した。本調子ではないとはいえ、動くのには十分である。
これまでの俺は、ベッドに運ばれて、そこに寝かされていたのだ。そこは多分、ユリアの家と思われる。
といっても、それは女一人の家であるから、いくら広いといっても、たかが知れている。
俺を寝かせている間、ユリアはベッドもなく、どうやって寝ていたのだろうか? そういうことすら思う。
さて俺は、元気になって初めて、朝を迎えていた。キッチンではユリアが何か、作っていた。
テーブルの上を見る。
そこには、コップがいくつかあり、その隅にはビラのたぐいが積み重ねられている。ふと、何枚かめくってみると、そこには「ロラン王国 今週の出来事」といった文字が見える。ロラン王国、今週の……
あれ? 俺はいつ、外国語を学んだんだ?
そのような問いが脳裏をよぎったのは、不思議ではない。なぜなら、そのビラは未知の文字・文法で記されていたからだ。なぜ、それが瞬時に分かるのだろう? 俺はヴォイニッチ手稿の解読者じゃないぞ。
そんな思いに駆られていた時、俺はイデアル女神のことを思い出した。女神はこんなことを言っていた。
俺を「あなたの本質にぴったりとするような世界」へ転生させる、と。
とするなら、言語文化の壁はひとりでに解決しているということか。完全無欠な翻訳プログラムでも、世界の背後で走っているのかな。イデアル女神の世界に、「プログラム」があるかは分からないが。
俺は、合点した。
ここまで俺が思いを巡らせている時、ユリアが料理をテーブルの上に置いた。匂いが来る。
「パン、バター、そしてスープです。そんなに豪華ではないですが……」
「まあ、食べようじゃないか」
そう言って、俺はスープを口にした。病み上がりには、えもいわれぬ味わいだった。バターを塗った丸型パンも、同様である。
ユリアも食事をしていた。少しずつ、パンの端をかじっている。そして、黙々とスープをすすった。
十分後、食卓は空っぽになっていた。満腹だった。それが偽らざる感想だった。
俺は、改めて言っておかなければならないことがあった。
「ユリア、助けてくれて、ありがとう」
すると、ユリアは首をかしげて、笑い始めた。シンプルに、疑問そうな顔をしたのである。
「助けてくれたのは、私なのに?」
「まあ、なんというか、困っていそうだったから」
水樹莉奈に少し似ているから、助けたのだとは、もはや言えなかった。




