第3話 女神
俺の記憶は、途切れて空白になった。
そして、そこから気がついた時には、女を襲おうとしていた男は、頭から血を流して倒れていた。男の剣は路上に放り出されて、ぐにゃりと曲がっている。剣に血は付いていない。
では、皆、無事だったのだな。
しかし、そんなことを思う余裕はなかった。
俺の息は切れていた。前世のブラック労働でも、こんなに疲れ果てたことがないような気がした。
ただ、ともかく、生命だけは助かったようだ。異世界なんかで、墓を建てられたくはない。多分、三度目はないのだから。俺は強くそう感じた。
「あの、ありがとうございます……!」
そう言ったのは、さっきの女だ。俺は、自分自身のことに手一杯で、俺が何をしたのかに気が付いていなかった。
女は、乱れた身仕舞いを整え始めた。ずいぶん永く、どこかから逃げ出してきたようだ。
俺は答えた。
「いや、俺のことなら、構わないんだけど……ただ、聞きたいことがあって」
「何ですか?」
「正直、何があったの?」
すると、女は意表をつかれたような顔をして、言った。
「覚えていないんですか?」
「うん」
「渾身の力で、あの男を気絶するほど、殴り付けたではないですか。そして、両手でぐにゃりと剣を曲げたんですよ」
「え、俺が……?」
正直に白状すると、女の証言を聞いただけで、俺は自分のことながら、引いてしまったことを言っておかなければならない。
百歩譲って、男に殴り勝つことはできるかもしれない。しかし、両手で剣を曲げるなど、サーカスの手品ではないのだから、そんなことは不可能である。
しかし、現実に折れ曲がった剣は、投げ捨てられていた。そして、女の目撃証言もある。少なくとも、嘘を述べるような女には見えない。
思い出せ、俺。
何か、重要な鍵があるのに、今の俺はそれを忘れてしまっている。きっとそのはずだ……! 俺は強くそう思った。しかし、記憶の手がかりは霧の中であった。
俺は、別のことを聞くことにした。大切なことなら、いずれ思い出すだろう。
「ところで、さっきから名前を聞いてなかったけど、何と呼べばいい?」
女は答えた。
「ユリア。私の名前はユリアです。あなたは?」
「俺?」
「はい」
どうしよう。この世界で、「村上淳吾」などと答えるのは、不自然かもしれないな。なので、俺はとっさに、
「ジュン。俺の名前はジュンだ」
と、言った。
「ジュンさんね。本当に、ありがとうございます」
もちろん、若い女性から感謝されるのは、悪い気持ちではなかった。
そして、俺はユリアの姿をじっくりと眺めた。
全体的に、その容姿は整っている。ただ、いわゆる彫りの深い感じの顔つきだ。そういう点も含めて、異世界なのかもしれない。
その髪型は、長くまとめたブロンドだ。そして、まとめたところに、リボンの髪飾りを付けている。それを見ていると、なぜかそれがひどく心に残る。風景の中でその一点だけが、まるで鮮やかに浮き彫りになっているようだ。
「……どうしました?」
ユリアはこちらを見た。
「いや、何でもない。ところで、その髪飾りはどうしたんだ?」
「え? リボンですか」
「そう」
すると、ユリアは嬉しそうな顔をした。
「ふふ。このリボンは、教会堂で、神様に清めてもらったんです」
「神様?」
「そう。この一帯で、ご加護を与えてくれると信じられている、神様です」
その言葉を聞くと、俺はつい叫んでしまった。
「これだ、ユリア。これだよ!」
「え、え?」
ユリアは、明らかに戸惑っていた。俺はしまったと思った。
「いや、何でもない。とにかく、神様を信じることは大切だからね」
「ええ」
そして、俺は自分自身の記憶を点検した。
◇ ◇ ◇
俺は確かに、異世界転生をしたのだった。もちろん、乱暴にいきなり、キャッチボールの球のように、異世界へと投げ込まれるのではない。俺の魂(?)には、しかるべき事前説明チュートリアルがなされるのである。
俺の目の前には、ずいぶんと神々しい存在者がいた。身長は二メートルほどか。性別——そんなものがあるとすれば——は、明らかに女性だ。人間にたとえると、絶世の美女。そんなところだ。
「ええと、俺は、死んだんですか?」
すると、その女性——おそらく女神だろう——は微笑んだ。いわゆる「アルカイック・スマイル」だ。昔、教科書で読んだことがあるぞ。
「それを分かってくれるなら、話が早いわ。まさに、その通りです。あなたは死にました。地上的な言い方をすれば、熱中症による多臓器不全ですね」
多臓器不全。この言葉には、嫌なリアリティがあった。
「そうですか。熱中症でそんなことになってしまうのですね」
「要は、あなたの脳は太陽で熱せられて、ゆで上がった玉子のようになってしまったのですね。脳というのは、大部分、タンパク質ですから」
俺は医学をそんなに知らなかったが、女神の説明はだいたい正しそうだった。
「じゃあ、遺体はどうなったんですか。まさか、樹海の中のように、腐乱しているということはないですよね」
「それは違います。裏通りとはいえ、路上で発見され、救急で運ばれました。そこからは、霊安室や葬儀場など、いつもの流れです」
葬儀場、という単語を聞き、俺は大きな心配を思い出した。
「じゃあ、残された両親はどうなったんです。あと、いろいろな親族は」
「『転生法』の条項に差し障るので、そんなに詳しくは教えられませんよ。魂が前世に未練を持つといけませんからね」
「そうなんですか……」
俺はがっかりした。すると、女神は助け舟を出した。
「でも、大まかなところだったら、お伝えしてもいいかもしれません。大丈夫ですよ。両親は、あなたをちゃんとした宗旨で葬儀しました。そして、それぞれの社会生活に戻っています」
「じゃあ、良かった」
俺は女神の前で、胸を撫でおろした。女神の長い髪には、気品のあるリボンで飾られている。
この死後の時空の中で、女神のリボンだけが華やいでいたのである。




