第2話 記憶
俺が目撃したのは、若い女が追いかけられている光景だった。
女は、俺の横をすばやくすり抜けて、逃げようとした。大げさに言えば、その首筋に流れる汗が見えるほどだ。スカートの形が崩れている。
俺は、すぐに全体の状況を把握した。
女は長髪の美人である。そして、それを追いかけているのは、いかにも悪辣そうな、図体の大きい男であった。そういう構図が、すぐに目に入った。
男は、邪魔そうに俺の隣を通り抜けた。そして、女の方向へと全力でダッシュして行く。
もちろん肺活量や体力は、比較にならない。ついに男は、建物の壁際に、女を追い詰めてしまった。それが少し離れた場所に見える。逃げ場はない。そして、よく見ると、剣すら持っている。放っておくと、何をしでかすか、知れたものではない。
それから、男の声が聞こえてきた。
「いけませんねえ、お嬢さん。私どもの貴重なアイテムを盗んでくれるとは。さあ、今すぐ返してください。返してくれさえすれば、乱暴なことは致しませんから」
いやいや、ちょっと待て。
じゃあ、「アイテム」とやらを、きちんと返さなかったら、正真正銘、乱暴なことをするというのか? 首筋もこんなに細い、か弱い女相手に?
一見すると、「盗んだものを返せ」とは、道理もあると思われた。
しかし、ここまで来たら、ただ返すだけでは済むまい。それに、何かしらの「裏事情」もあると思われた。ずいぶんと下衆な声が、それを暗示していた。
何より、顔つきが悪人面そのものだ。
とにかくこのままでは、まずいことになりそうだ。
それに——あの男は、気に入らないな。
俺はそう思った。
道理が何であれ、この世界の官憲が何と言おうと、俺は女の側に味方することに決めた。つまり、あの男をやっつけることにしたのである。アイテムが何なのかは定かではないが、あっさりと、くれてやれば良かったのだ。
それに加えて、小声で言うが、あの若い女は、「水樹莉奈」に少し似ていたからだ。だから、是が非でも助けたいと思った。
しかし、そうはいっても、俺はこの世界に来たばかりで、何も知らない。先立つものもない。
ええと、こういう世界では剣や魔法が使えるはずだが。何かこう、呪文とか、必殺技とか……しかし、俺はそんなものをそもそも、覚えているのか? いつ覚えたのか?
すると、俺の記憶の中に何か、バネのような引っかかりが生まれた。引っかかり? 俺の心の声が、何かを叫んでいるのである。ただ、その正体までは、まだ分からなかった。
そうこうしている間にも、悪い男は、女にじりじりと距離を詰めている。一対一で、女は丸腰であるから、武器を持った男に勝てるわけがない。あの位置取りでは、左右から逃げ出すことも不可能だ。
俺は、誰かの助けを呼ぼうとした。助太刀があれば、有利な局面に持ち込める。しかし、あいにく裏通りであるため、人の気配はない。辺りはしんとしている。大通りに馬車が走り抜けている様子が、遠くに見えるだけだ。
俺は意を決した。理屈はどうでも、絶対に俺自身が助ける他はない。
しかし、次に俺が取った初めての行動は、率直に言うと、笑うべきものであった。たとえレベル1の勇者でも、こんな間抜けなことはしないだろう。
俺は男へと近づき、それから明らかに腰が引けた調子で、こう言ったのだ。
「お、おい。そこのお前……! 悪いことは言わない。と、とにかく、その女から、手を離すんだ」
すると、男は俺に気がつき、ゆっくりと振り返った。そして言った。
「あ? 何だお前? どうやら、さっきの奴みたいだが、何を言っているんだ?」
「だから、手を離せと言っているんだ。き、貴重なアイテム。それが、何かは知らない。知らないが、とにかくそれはくれてやれ。そして、さっさとこの場から立ち去るんだ」
俺がアイテムの一件を口に出した途端、呆れ顔の男の表情が、明らかに変化した。凶悪なものに変わったのである。男は口笛をひゅうと、軽く吹いた。
「くれてやれ、か。そんなことを言い出すからには、吐いた唾は飲み込まないでいただきたいですね?」
そして、男は帯びていた剣を抜いた。その刃が陰険に光っている。まるで、いくつもの人間の血を吸ってきたかのようだ。
当たり前であるが、俺は丸腰である。女と力を合わせても、形勢は芳しくない。いや、出発点から敗色濃厚であった。
俺は、死の危険を感じた。しかし、その場から動くことができなかった。
動け、俺の足……! そして、可憐な女をその腕で助け出すんだ!
そのような思いが、俺の脳裏を駆け巡った。にもかかわらず、俺の行動はそれを裏切っていた。いわば、回路が断ち切られていたのだ。
男は、俺の方へと一歩ずつ、迫ってくる。すると、向こう側にいた女が、その隙に逃げようとした。
しかし、それを察した男は、振り向きざまに女へと追い付いた。そして、剣の柄の部分で、女の頭を勢いよく殴りつけた。女は叫んで倒れた。
「あの男はともかく、お嬢さんは、命まで奪うわけにはいかない。さて、ここからはお楽しみのお時間だ。きちんと制裁を加えてやらねばなるまい。そして、拉致して海の藻屑としてやろう」
そして、男は改めて、俺の方へと向かってきたのだ。十秒後、あの剣は俺の肉体を突き刺しているだろう。その可能性は大だ。
ああ。俺はここに来る前に、恐らく死んでしまった。そして、やっと二度目が与えられたのに、再び死んでしまうのか。もはや、三度目はあるまい。
こんなことなら、俺はそもそも、要らぬ正義感を出さなければ良かった。
そのような後悔に見舞われていた時のことである。
それは気のせいではなかった。
次の瞬間、俺の身体にあり得ないエネルギーが、みなぎったのだ。
なぜそのようなエネルギーがもたらされたのか、そこまでは分からなかった。
ともかく、俺は一秒もたたない間に、次の動きを開始していた。その動きは高速であった。俺は真っ直ぐに男へと向かって、間合いを詰めて行く。
そして、俺の記憶は途切れる……




