第9話 報告書に書けない声
昼下がりの秋葉原。表通りの喧騒は相変わらずだが、路地裏にある再起堂PCサービスの周辺は嘘のように静かだ。時折、パーツを抱えた客や台車を押す業者が通り過ぎる程度で、シャッターが半分だけ開けられた店内には、くぐもった排気音と検証用PCの駆動音が一定のリズムで響いている。
作業台の上に広げられた静電気防止マット。悠作はその前に座り、持ち込まれた古いグラフィックボードのコンデンサを目視で確認していた。基板の焼け焦げた匂いと、くわえた煙草からジリとヤニが燃える音が微かに混ざり合う。
足元では、古いマザーボードの空き箱に敷かれた毛布の上で、子猫のロムが丸くなって眠っている。時折、小さな寝息と共に灰色の毛玉が上下に揺れる。
入り口のドアベルがカランと控えめに鳴った。
「……こんにちは」
顔を出したのは、高橋すずだった。
ブラウスにカーディガンといういつもの落ち着いた服装だが、トートバッグの持ち手を両手できつく握りしめている。昨夜、他人の記憶に当てられて倒れかけた彼女に、悠作が言い放った厳しい警告。その冷たい言葉の余韻が、今もすずの細い肩を強張らせているのは、誰の目にも明らかだった。
悠作は手元のボードを静電気防止マットの上に置き、ルーペをデスクライトの横に避けた。
「顔色はマシになったな」
「はい。昨日は……ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
すずは深々と頭を下げる。
昨夜の出来事が、まだ彼女の身体に重くのしかかっているのだろう。他人の強烈な記憶――喪失感、雨の冷たさ、そして恐怖。それらに飲み込まれ、自分という輪郭が溶けかけるような感覚は、一夜明けた今も完全には拭い去れていないはずだ。それでも彼女は、逃げずにこの場所へ戻ってきた。
「俺は事実を言っただけだ。あんたが自分の限界を理解して線を引けるなら、ここに来るのを止める権利は俺にはない」
「……はい。今日は、絶対に無理はしません。約束します」
すずの言葉に嘘や誤魔化しはない。悠作は小さく鼻を鳴らし、「勝手にしろ」とだけ返して作業台に向き直った。
それから10分ほど後。
今度はドアベルが勢いよく鳴り、紺色のパンツスーツに身を包んだ山田しずかが店に入ってきた。外の熱気を切り裂くような凛とした足取り。手には黒いビジネスバッグが提げられ、肩にかけられたストラップが細い身体に沿っている。
「約束通り、持ってきたぞ」
しずかは挨拶もそこそこに、カウンターの上にバッグを置いた。中から取り出されたのは、一般的なビジネス向けの15インチのノートPCだった。天板には細かな擦り傷があり、持ち主が日常的に持ち歩いていたことを示している。
「行方不明になっている小規模ライブスペースのスタッフ、新田香織のノートPCだ」
しずかはそう言いながら、黒い手帳を開いた。
「家族からの捜索願は出ている。PCの中身を調べることについて、家族の同意書は取った。加えて、彼女の勤務先であるライブスペースの管理者にも確認を入れ、『業務上の機密データ以外であれば、所在確認のために調査しても構わない』という言質も取ってある」
悠作はノートPCの底面を確認しながら、口元を皮肉げに歪めた。
「手回しがいいな。要するに、警察の令状代わりってわけか」
「正式な捜査令状が出る段階じゃないからな。あくまで家族の依頼を受けた民間の技術者が、所在確認のために修理・解析を行うという体裁だ。鈴木が私的データをネットにばら撒くような三流なら、初めから頼んでいない」
しずかの真っ直ぐな言葉に、悠作は短く息を吐き、手元の工具箱を引き寄せた。
「高橋、お前も少しは落ち着いたようだな。だが、昨日の今日だ。無理はするなよ」
しずかが視線を向けると、すずは小さく頷いた。
「はい。ありがとうございます、山田さん」
悠作はノートPCには一切通電させず、バッテリーを取り外した。精密ドライバーで底面のネジを素早く、かつ正確に外していく。裏蓋を開けると、基板の一部を覆うように配置されたM.2 SSDが姿を現した。
ネジを外し、ストレージを基板から抜き取る。それを外付けのデュプリケーターに接続し、手元の検証用PCに繋いだ。
「まずは原本のセクタバイセクタで、作業用のクローンを作る。原本を直接弄って証拠を壊すような真似はしない。解析はこっちの複製を使う」
悠作は画面にコマンドを打ち込み、複製プロセスのプログレスバーが動き出したのを確認して、キーボードから手を離した。
ストレージの完全なコピーは、物理的な証拠保全の基本だ。これを怠れば、ちょっとした操作ミスで消されたはずのデータが上書きされ、二度と復元できなくなるリスクがある。
「完了まで少し時間がかかる。……で、あんたはどうするんだ」
悠作の視線は、作業台の端に置かれた取り外されたばかりのノートPCの本体と、すずに向けられていた。
すずは少しだけ戸惑うように視線を泳がせたが、やがて真っ直ぐに悠作を見た。
「……触らせて、ください」
「まだ体が完全に元に戻ったわけじゃないんだぞ」
「分かっています。でも、何もせずに待っているだけでは、私がここにいる意味がありません。5分……いえ、3分でいいです。少しでもおかしいと思ったら、自分で手を離します」
すずの声には、恐怖を押し殺した強い意志があった。悠作は静かに息を吐き出し、しずかを見た。しずかは腕を組み、口出しせずに悠作の判断を待っている。
「……2分だ」
悠作は手元の精密ドライバーをコトリと置いた。
「2分経ったら強制的に止めさせる。少しでも吐き気や混乱を感じたら、すぐに手を離せ。いいな」
「はい」
すずは深く深呼吸をし、作業台の上に置かれたノートPCのパームレスト部分に、両手の指先をそっと触れた。
持ち主である新田香織が、最も長い時間、肌を触れ合わせていた場所。プラスチックの微かな冷たさが指先から伝わってくる。
目を閉じる。
――冷たい暗闇の奥から、チューニングの合わないラジオのような不規則なノイズが流れ込んでくる。
視覚的な映像は薄い。だが、音と感覚が異様に生々しかった。
『パチパチパチパチ……』
まばらな拍手の音。どこかコンクリートの壁に囲まれた、閉鎖された空間で反響しているような、乾いた音だ。
それに重なるようにして、鈍い摩擦音が聞こえてきた。
ズズ……ズザッ……。
何か重いものを、硬い床の上に引きずるような音。機材だろうか。
すずの額に、じわりと冷や汗が浮かぶ。
持ち主の感情の波が押し寄せてくる。強い焦燥感。息苦しさ。急がなければ取り返しがつかなくなるという、切羽詰まった決意。そして、誰にも見られてはいけないという強い恐怖。
耳元で冷たい風が吹くように、誰かの声が響いた。
『二度目は、消せる』
「っ……!」
すずは弾かれたようにノートPCから手を離した。
肩で大きく息をし、作業台の縁を掴んで体を支える。視界が少し揺れたが、昨夜のように自分自身の感情が他人のそれに塗り潰されるような感覚はなかった。約束通り、彼女は自分の意志で境界線を引いて戻ってきたのだ。
「大丈夫か、高橋」
しずかが鋭く問いかける。足元で寝ていたロムが、不穏な空気を察したのか「みゃあ」と鳴いて悠作の足首にすり寄った。
「はい……大丈夫、です。長く入りすぎないように、気をつけましたから」
すずは乱れた呼吸を整えながら、見たもの、聞いたものを言葉にし始めた。
「拍手の音がしました。あまり多くない、まばらな拍手です。それから、重いものを床に引きずるような音。……それと、声が」
「声?」
悠作が眉をひそめる。
「はい。『二度目は、消せる』って。女性の声だったか、男性の声だったかは分かりません。でも、とても焦っていて、何かを無かったことにしようとしているような……そんな強い感情がありました」
しずかは手帳を開き、黒いボールペンを走らせた。
「ライブスペースのスタッフなら、拍手の音や機材を引きずる音が残っていても不自然じゃない。だが、『二度目は消せる』……。何か不都合な記録を削除した、あるいはしようとしていたという意味か」
しずかの態度は、すずの言葉を「オカルトの戯言」として切り捨てるものではなかった。幽霊の証言を調書には書けないが、現場の環境音や関係者の発言といった「現実の確認可能な手がかり」に置き換えて整理しているのだ。
「オカルトの解釈はそこまでだ。こっちを見ろ」
悠作がモニターを二人に向けて回転させた。
画面には、クローン作成が完了したSSDのディレクトリ構造と、いくつかのログファイルが表示されている。
「警察の報告書に書ける現実の話をしてやる。ストレージの中身自体は、比較的綺麗だ。ウイルスや外部からの遠隔操作の痕跡はない。だが……」
悠作はキーボードを叩き、特定のフォルダをハイライトした。
「メッセージアプリの履歴と、ローカルの特定のドキュメントフォルダが、ごっそり消されてる。普通ならクラウドと同期されていて、ほかの端末からでも見られるはずだが、同期を切った上でローカルから削除したらしい」
「復元できるか?」
しずかが身を乗り出す。
「通常のファイルシステム上では復元が難しいように、ランダムなデータで上書き処理されてる。だが、人間が完全に証拠を隠滅するのは難しい。アプリケーションのキャッシュファイルの中に、消されたデータの断片が残っていた」
悠作はヘキサダンプの画面から、テキストデータとして抽出できた部分を別ウィンドウに表示した。
そこには、文字化けした無数の文字列の中に、規則的に並んだいくつかの数字と単語が残っていた。
「出演者の連絡表の残骸だ」
悠作がモニターを指差す。
「香織って女は、失踪する直前にこの連絡表を端末から完全に消そうとした。さっきあんたが聞いた『二度目は消せる』ってのは、一度クラウドから消し、二度目にローカルの原本も消すという、この隠蔽作業のことかもしれないな」
「肝心の連絡先は分かるのか?」
「名前の部分は破損して文字化けしてる。だが、電話番号の一部と、相手の所属先らしいメモの断片が残ってる」
悠作が指し示した画面の隅。
そこには、『090-XXXX-8821』という一部が欠けた電話番号と、『ルミナス』というカタカナのメモが残っていた。
その文字列を見た瞬間、すずは小さく息を詰まらせ、モニターに顔を近づけた。
「……悠作さん、そのメモ」
「どうした、高橋」
しずかが振り返る。
「私、その名前に見覚えがあります。……『ルミナス』って、私が週に何度か裏方のお手伝いに行っているメイドカフェ、『カフェ・ルミナス』のことじゃないかと」
「お前のバイト先か?」
「はい。それに、この『8821』で終わる番号……お店の予約管理用の端末で、何度か見たことがあります。うちの常連のお客さんの番号です」
新田香織のノートPCから見つかった、削除された出演者連絡表。
そこに残されていたのは、すずが働くメイドカフェの常連客の連絡先だった。全く無関係に見えた秋葉原の二つの場所が、見えない線で繋がった瞬間だった。
「面白い偶然だな」
悠作がモニターから視線を外し、顎を引いた。
「その常連客の名前は分かるか?」
悠作の鋭い問いに、すずは少し戸惑うように視線を泳がせ、やがて頷いた。
「はい。西尾さん、という方です。物静かで、いつも一人で来店されるお客さんなんですけど……でも……」
すずは言い淀み、悠作としずかを交互に見た。
「西尾さん、昨日からお店に、自分のスマートフォンを忘れたままなんです。閉店作業の時に見つけて、連絡を待っていたんですが……取りに来る気配もなくて。あのお店で、携帯を忘れたまま丸一日以上放置するなんて、普段の西尾さんならちょっと考えられないんです」
秋葉原のライブスペースの失踪者。彼女が消そうとしたリストに乗っていたメイドカフェの常連客。そして、その客が店に残していったスマートフォン。
全く無関係の点と点が、R-17という見えない線、あるいは『リライト』という得体の知れない存在を媒介にして繋がり始めている。事態は単なる単発の家出などではない。秋葉原の街の裏側で静かに連鎖する、奇妙な構造を持ち始めていた。




