第8話 失踪相談の共通点
夜の裏路地を抜けてきた湿った風が、再起堂のガラス戸を微かに揺らした。秋葉原の喧騒から少し離れたこの通りは、夜になると人通りが絶え、遠くを走る車の走行音だけが低いノイズのように響いている。
悠作は耳に当てたスマートフォンから聞こえる、低い女の声に眉をひそめた。
『鈴木? 今、店か。ちょっと厄介な案件があってね』
アキバ中央署生活安全課、山田しずか。
悠作が店を開いてから、電子機器絡みの相談や近隣トラブルで何度か顔を合わせている警察官だ。互いに仕事の線引きは理解しているつもりだが、この時間に直接電話をかけてくるということは、単なる世間話ではない。
「悪いが、今ちょっと取り込み中でな。明日じゃダメか」
『ダメだ。もう店の裏通りにいる。行くぞ』
有無を言わせぬ強引な宣告と共に、通話は一方的に切られた。
悠作は短くため息をつき、スマートフォンをポケットにねじ込む。
「……悠作さん、誰か来るんですか?」
丸椅子に座ったまま、すずが力なく尋ねた。
先ほど『R-17-05』から他人の強い記憶――雨の窓と荒い呼吸、そして強烈な喪失感――を読み取り、自他感情の境界を失いかけた彼女は、まだ呼吸が浅い。千尋に背中をさすられて意識の混濁からは抜け出したようだが、膝の上で組まれた指先は微かに震え、冷え切っているのが見て取れた。
「ああ。ちょっと面倒な知り合いが来る。あんたは無理に喋らなくていい」
悠作がそう答えた時、足元で「みゃあ」という、ひどく頼りない、擦れたような鳴き声がした。
すずがわずかに目を瞬かせる。
作業台の下、古いマザーボードの空き箱の中に敷かれた毛布から、よちよちと這い出してきたのは、愛らしい毛玉だった。
生後五十日ほどのスコティッシュフォールド。まだ耳がぺたんと折れ曲がっており、丸っこい灰色の体がフローリングの上でおぼつかない足取りを見せている。
「あ……猫……?」
「数日前、近所の常連が猫アレルギーになったとかで、強引に置いていきやがったんだ。飼う暇なんてないと言ったんだがな」
悠作は文句を口にしながらも、作業台の端に置いてあった哺乳瓶を手に取った。慣れた手つきで人肌に温めた猫用のミルクを差し出すと、子猫は頼りない前足を悠作の指に引っかけ、必死に吸いつき始めた。ちゅうちゅうと喉を鳴らす音が、静かな店内に響く。
「名前は、ロムだ」
「ロム……ですか?」
「リードオンリーメモリー。余計な書き込みはせず、大人しくしとけって意味で付けた。まあ、見ての通りちっともじっとしてないがな」
ミルクを飲み終えたロムが、今度は作業台から垂れ下がっていた古いLANケーブルの切れ端にじゃれつき始める。その無軌道でいとおしい命の動きを見つめているうちに、すずの強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
「ふふ……本当に、元気ですね」
すずの唇に、微かな笑みが戻る。
他人の重く暗い感情に塗り潰されかけていたすずにとって、ただそこにあるだけの無垢な体温と鳴き声は、自分自身の輪郭を取り戻すための確かな錨になっていた。悠作はそれを計算して見せたわけではないだろうが、結果的にすずの呼吸は先ほどよりもずっと規則的になり、生気を取り戻しつつあった。
カラン、と入り口のドアベルが鳴った。
「邪魔するぞ」
声と共に現れたのは、紺色のパンツスーツを完璧に着こなした、手足の長いスマートな女性だった。
はっきりとした眉の下に、知的な冷徹さを宿した大きな黒い瞳。艶のある長い黒髪を後ろで一つにまとめ、カチッとした白いシャツの襟元が、彼女の凛とした佇まいをさらに引き立てている。はっとするほど知的で華やかな美貌を持ちながらも、その表情には一切の妥協を許さない険しさがあった。
山田しずかは、作業台のモニターと、その前に座り込んでいるすず、そして足元のロムを順番に見下ろし、露骨に眉をひそめた。
「なんだ、鈴木。取り込み中ってのは猫の世話か? ……いや、そっちの彼女、とてもまともに動ける状態じゃない。貧血か?」
「ちょっと立て込んでてな。こいつは高橋すずだ。すず、こっちはアキバ中央署の山田だ」
悠作が短く紹介すると、しずかは鋭い視線をすずに向けた。
「鈴木から聞いていた高橋、だな。素人を夜中まで連れ回すな。帰して寝かせろ」
しずかの言葉は口が悪く、突き放すような響きがあった。だが、その視線は明確にすずの体調を気遣っている。警察官として、あるいは彼女個人の気質として、事情聴取や情報収集よりも先に、目の前の民間人を保護すべき対象として扱っているのだ。
「私なら……大丈夫です。少し、休ませてもらったので」
「大丈夫な人間の見かけじゃない。無理をされて倒れられては、こっちの仕事が増える。帰れるなら早く帰れ」
しずかは手厳しい小言をすずに向けた後、悠作に向き直った。
「で、鈴木。あんたはどうなんだ。こんな時間までシャッターも下ろさずに、いったい何の悪巧みだ。怪しい取引でもしてるなら、ここでしょっぴくぞ」
悠作はあきれたように鼻を鳴らした。
「人聞きの悪い冗談はよせ。で、厄介な案件ってのはなんだ。生活安全課が動くような不良在庫は抱えてないぞ」
悠作が丸椅子を引き寄せると、しずかは表情を引き締め、スーツの内ポケットから黒い手帳を取り出した。
「ここ数週間で、生活安全課に持ち込まれた成人の家出、あるいは失踪の相談が三件ある。年齢も性別も職業もバラバラだ。共通の知人もいない」
「失踪相談? それはあんたらの本業だろう」
「ああ。だが、成人した人間の自発的な家出となれば、事件性が確認できない限り、警察は積極的に捜査はできない。家族には『探しています』と言い続けるしかないのが現実だ。だが……」
しずかは手帳のページをめくり、悠作の目を真っ直ぐに見据えた。
「その三件には、奇妙な共通点がある。失踪者は全員、いなくなる直前に『故障した端末』か、『復旧データ』を受け取っているんだ」
悠作の指先が、微かにピクリと動いた。
傍らで話を聞いていたすずは、小さく肩を震わせた。冷たいはずの缶コーヒーを握る指先が、いつの間にかぎゅっと強張っている。真紀の身に起きたあの悪夢のような出来事が、いま、目の前で別の誰かの失踪と完全に重なり合おうとしていた。
「家族から提供された置き手紙や、残された私物を調べた。科捜研に回すほどの事件性はないと判断されたから、私が個人的に相談業務の一環として中身を確認したんだがな。三人の失踪者が最後に接触したと思われる古いHDDやUSBメモリの裏側に、同じ規則の管理番号が貼られていた」
「……番号?」
「ああ。『R-17』から始まる番号だ。R-17-02、R-17-06といった具合にな」
その言葉が落ちた瞬間、再起堂の店内に落ちていた沈黙が、一気に質量を増した。ロムがじゃれつくのをやめ、耳を澄ますように動きを止める。
悠作は黙って立ち上がり、作業台の奥、静電気防止マットの上に退けていたベアドライブを手に取った。そして、しずかの目の前のカウンターに置く。
「……鈴木、これは?」
「さっき、近所のレンタルボックスの店長が持ち込んできた、持ち主不明の未回収品だ。外装ケースと中身の製造時期が三年ずれた、いわゆるニコイチの品物でな。中身のドライブには、これと同じ番号が書かれている」
悠作が示したドライブのラベルには、黒い油性ペンで『R-17-05』と殴り書きされていた。
しずかの目が鋭く細められる。
悠作はそのまま、作業台のデュアルモニターを指差した。左には真紀のmicroSD、右にはR-17-05の解析データと、音声ファイルのスペクトログラムが表示されたままだ。
「左は数日前に解決した別の失踪者のデータ。右が、このR-17-05だ。見ての通り、使われている古いデータ復旧支援ソフトの独自署名が完全に一致している。単に同じソフトを使ったというだけじゃない。破損した音声ファイルのノイズの入り方、データが欠落している周期も見事に同じだ」
「……つまり、この二つの媒体は、過去に同じ環境で、同じソフトを使って処理されたと?」
「技術的に断定できるのはそこまでだ。だが、偶然でこうなる確率はゼロに近い。R-17ってのは一台の製品シリアルじゃない。過去のどこかで、何らかの意図を持って複数のドライブに付けられた管理用の符丁だ」
しずかは手帳に視線を落とし、小さく舌打ちをした。
「単発の家出じゃない。この『R-17』という番号で繋がった端末が、複数の失踪事件に関わっている……。事件性がないと切り捨てるには、不自然すぎるな」
そこで、ずっと黙っていたすずが、絞り出すような声で口を開いた。
「あの……私、見ました」
「見た?」
「はい。真紀のスマートフォンから読み取ったものと……同じ、雨の窓を。このR-17-05からも、見ました。見ている角度は違いましたけど、激しい雨の音と、機械の音と、誰かの荒い呼吸が……」
しずかは怪訝な顔ですずを見つめ、次いで悠作を見た。
「鈴木、こいつは何を言ってるんだ。雨の窓? 機械の音? どこからそんな情報が出た」
「こいつは、機械に残った前の持ち主の強い感情だか記憶だかを感じ取れるらしい。オカルトだ。だが、こいつの証言と、物理的な痕跡が一致しているのは事実だ」
「……馬鹿な」
「俺も最初はそう思ったさ。だが、さっきこいつはそのオカルトのせいで、他人の感情に当てられてぶっ倒れかけた。嘘や演技でそこまでやる素人はいない」
悠作はすずを庇うように一歩前に出た。
しずかは、すずとモニターの波形グラフを交互に見比べた。警察官としての現実的な思考と、目の前にある奇妙な一致が、彼女の中で激しくぶつかり合っているのが分かる。
やがて、しずかは短く息を吐いた。
「警察の報告書に、幽霊やオカルトの証言は書けない。私が正式な記録にできるのは、端末の時刻と、物理的なデータの一致だけだ。本人の安全と所在を確認するにあたって、出所不明の霊視を証拠にはできない」
しずかの言葉は冷徹だった。だが、それはすずを頭ごなしに否定しているのではなく、警察という組織のルールとしての限界を明確にしただけだ。
「だが……もしそのオカルトが、事件の点と点を繋ぐ手がかりになるなら、聞いて損はない。私情で警察情報を流す気はないが、出所不明の噂として処理することはできる」
「……山田さん」
すずが安堵したように息をつく。
しずかは手帳を閉じ、再びスーツの内ポケットにしまった。
「実は、もう一件、厄介な相談を抱えている。秋葉原の小規模ライブスペースのスタッフで、新田香織という女が行方不明になっている。その家族から、彼女が使っていたノートPCを預かっているんだ」
「ノートPC?」
「ああ。そいつにも、似たような異常があるらしい。家族の同意は得ている。明日、それをここに持ってくる。お前なら、何か分かるか」
しずかの真っ直ぐな問いに、悠作は口元を皮肉げに歪めて鼻を鳴らした。
「見てみないと約束はできないな」
「それでいい。分かったら教えろ」
しずかはそれだけ言うと、踵を返してドアへ向かった。そして、すずの方を振り返る。
「次会う時までに、もう少し体調を整えておけ。素人が事件に首を突っ込むなら、自分の命くらい自分で管理しなさい」
「……はい。ご迷惑をおかけしました」
すずが深く頭を下げる。しずかは無言で片手を上げ、夜の秋葉原へと消えていった。
静寂が戻った店内。
悠作は足元で寝転がっているロムを軽く撫でてから、すずを見た。
「あいつの言う通りだ。今日はもう帰れ。タクシーを呼んでやる」
「悠作さん……私、まだ手伝えます。この『R-17』が、五年前の何かに関わっているなら、私も」
「駄目だ」
悠作の強い声に、すずは口を閉ざした。
「あんたは証言者であって、使い捨ての道具じゃない。これ以上、自分の限界を超えようとするなら、俺はあんたをこの店には入れない」
冷たい言葉だったが、そこには確かな保護の意志があった。
すずは膝の上で両手を強く握りしめ、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。今日は、帰ります」
タクシーが到着するまでの間、すずはロムの柔らかい背中をそっとなでていた。
ロムは心地よさそうに喉を鳴らし、すずの膝の上で丸くなる。
五年前の、あの二度と取り返しのつかない失敗。その引き金となったはずの番号が、なぜ今になって次々と現れるのか。暗い地下水脈を伝うようにして、秋葉原の街に失踪事件の影を落とす、かつての上司の存在――その暗い記憶の亡霊が、現在の悠作の胸の奥をじわじわと焦がしていた。
夜の裏通りは、まだ何も語らないまま、静かに雨の気配を孕んでいた。




