第7話 二台に残る同じ雨
検証用PCの冷却ファンが、静まり返った再起堂の店内に一定の低周波を響かせている。
カウンターの奥、薄暗い作業台に据えられたデュアルモニターの放つ白い光が、悠作の無表情な横顔を照らし出していた。
左のモニターには、数日前に沢村真紀のスマートフォンから抽出し、保全したmicroSDの解析データ。右のモニターには、先ほど千尋が持ち込んだ持ち主不明の外付けHDD――中身をすり替えられていた『R-17-05』のベアドライブから読み出した不可視領域のシステムログが、それぞれ黒い背景の上に展開されている。
指先が迷いなくキーボードを叩き、二つの画面に並んだヘキサダンプの文字列を同期してスクロールさせていく。膨大な十六進数の羅列の中から、数千台のストレージを診てきた悠作の目は、特定のパターンを正確に拾い上げていた。
「……やはりな」
低く呟き、悠作はマウスをクリックして両画面の特定のセクタをハイライトした。
少し離れた場所で俯いていたすずが、おずおずと顔を上げる。カウンター越しに身を乗り出していた千尋も、怪訝そうに目を細めた。
「どういうこと、悠作」
「使われている古いデータ復旧支援ソフトの独自署名……いわゆるシグネチャが、二つの媒体で完全に一致している。それだけじゃない」
悠作は別の解析ツールを立ち上げた。黒い画面が切り替わり、今度は音声ファイルのスペクトログラム――音の周波数と時間を視覚化した波形グラフが、左右のモニターにそれぞれ表示される。
どちらのグラフも、所々が虫食いのように欠落し、ひどくノイズまみれの乱れた波形を描いていた。一見しただけではただの破損ファイルだ。だが、並べて比較すればその異常性は火を見るより明らかだった。
「左が真紀のmicroSDに残っていた破損音声の断片。右が、このR-17-05に残っていた音声断片だ。どちらもファイルヘッダが壊れていて通常のプレイヤーじゃ再生できないが、データ構造の欠落パターンを視覚化するとこうなる」
「波形の、欠けている場所が……同じ?」
すずが、息を呑むように言った。
彼女の言う通り、二つの波形グラフは、まるで同じ金型から打ち抜かれた不良品のように、ノイズの入り方とデータの欠落しているブロックの周期が見事に一致していた。
「ああ。偶然でこんな壊れ方をする確率は天文学的数字だ。これらが過去のどこかで、同じ環境、同じソフト、同じエラー条件の下で処理されたという物理的な証明になる」
「ちょっと待ってよ」
千尋が、面倒なものを見るような目で波形を指差した。
「同じソフトで復旧作業をされたってことは分かった。でも、この二つの音声が『まったく同じ音』だとは限らないでしょ? 同じ録音機で録った別のファイルかもしれないじゃない」
「そうだ。技術的に言えるのは、処理痕と破損の規則性が同じだということまでだ。音声の内容そのものが同一かどうかは、修復不可能なこの断片データだけでは断定できない」
悠作は淡々と事実だけを告げ、キーボードから手を離した。
その時だった。
「なら、私が――」
すずが丸椅子から立ち上がり、作業台の上にあるR-17-05のドライブへと手を伸ばした。
「高橋さん、やめろ」
悠作が静止の声をかけるより早く、すずの細い指先が、SATA-USB変換ケーブルの金属コネクタ部分に触れていた。
――ざあっ。
すずの視界が、一瞬にして再起堂の作業場から切り離された。
鼓膜を打つのは、激しい雨の音。
さっき感じた『家庭の食卓』の記憶ではない。薄暗い部屋。窓ガラスを叩きつける水滴。見覚えのある景色だ。真紀のスマートフォンから読み取った、あの雨の窓。
だが、見ている角度が違う。以前は窓を正面から見据えていた。しかし今は、床に座り込み、下から見上げるようにしてあの窓を見ている。
激しい雨音に混じって、くぐもった機械の駆動音と、誰かの荒い呼吸が聞こえる。
違う。これは、私の呼吸じゃない。
喉が詰まる。息ができない。胸の奥から湧き上がってくるのは、得体の知れない喪失感と、強烈な焦燥。自分という輪郭が他人の感情に塗り潰されていく、ぞっとするような感覚。
「……っ、ぁ……!」
すずの膝から力が抜け、床へ崩れ落ちそうになった瞬間、強い力で手首を掴み引き剥がされた。
「おい、高橋さん!」
悠作が、すずの腕を乱暴なまでに引いてドライブから遠ざけ、そのまま丸椅子へと座り直させた。
すずの顔は、先ほど塩飴を舐めて少し戻りかけていた血の気が完全に失せ、まるで白蝋のように青ざめていた。浅く速い呼吸を繰り返し、焦点の定まらない目で宙を見つめている。
「すずちゃん! あんた、馬鹿じゃないの!?」
千尋がカウンターを回り込んで駆け寄り、すずの背中を強くさすった。
「落ち着いて。あんたは今、秋葉原にいるの。ここは再起堂だよ。ね?」
千尋の張りのある声と、背中をさする手の温もりに、すずは何度か強く瞬きをし、ようやく悠作と千尋の顔に焦点を合わせた。
「……ごめんなさい。私……」
「謝るな。何を見た」
悠作の声は低く、感情を押し殺した実務的な響きだった。しかし、すずの顔色を確かめるその視線は、ドライブのログを追う時とは違う切実さを帯びている。
すずは、乾いた唇を舐めてから、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「雨の、窓です。真紀のスマートフォンで見たのと同じ……雨の窓。でも、見ている場所が違いました。床から見上げていて……すごく、苦しくて……」
そこで言葉が詰まり、すずは両手で顔を覆った。他人の強い感情にあてられ、自分自身の感情との境界が揺らいでいる証拠だった。
「……分かった。もういい。それ以上話さなくていい」
悠作は短く告げると、手首を掴んでいた手を離し、作業台の上のR-17-05を静電気防止マットの奥へと無造作に押しやった。
「悠作さん……私、まだ――」
「もういいと言ったんだ」
悠作の強い語気に、すずは肩をビクンと震わせた。
悠作はため息をつき、乱暴に頭を掻きむしる。
「……波形の欠落パターンが同じで、お前が感じた景色も同じだ。なら、この二つの媒体には、元の持ち主の『同じ記憶』が残っている可能性は極めて高い。お前が無理をしてまで確かめる段階は過ぎたんだよ」
「でも……」
「うちの店じゃ、依頼人のデータは守るが、調査員の命までは保証してない。これ以上は物理で追う。あんたはそこで大人しく缶コーヒーでも握ってろ」
突き放すような言葉だったが、これ以上の能力使用を明確に禁止するその態度は、すずの体調を最優先したものだった。すずは小さく頷き、膝の上で震える両手を強く握りしめた。
「……ちょっと、悠作」
すずの背中をさすり終えた千尋が、立ち上がって悠作を睨みつけた。
「あんた、さっきから随分と勝手が分かってるみたいじゃない。R-17だっけ? その番号のこと。あたしはオカルトは信じない。でも、すずちゃんが演技でこんな顔色になってるわけじゃないことくらい、見れば分かる。まったく無関係なはずの二つの機器が、同じ壊れ方をしてるなんて、普通じゃないでしょ」
「ああ、普通じゃない」
悠作は否定せず、作業台の引き出しから煙草の箱を取り出した。
「少し冷やしてくる」
短く言い残し、作業を一時中断して悠作は裏口の扉を開けた。夜の裏路地にジッポライターの硬質な音が響き、深く吸い込んだ紫煙が冷たい夜気へと溶けていく。
背後で足音がし、千尋も裏口のドアから顔を出した。湿った夜風が二人の間を吹き抜ける。
「普通、中古のHDDに前の持ち主のデータが残っていることはある。だが、まったく別々の時期に流通した二つの媒体に、同じ処理痕が残り、中身の壊れ方まで一致するなんてことはあり得ない。偶然じゃないとすれば――」
悠作は煙を細く吐き出し、遠くの街灯を睨みつけた。
「――この『R-17』っていうのは、ただの製品シリアルや機器番号じゃない。何らかの意図を持って、複数のドライブにまたがって刻まれた『管理用の符丁』だ。03や05っていうのは、その枝番号にすぎない」
断言する悠作の言葉に、千尋は目を丸くした。
「なんであんた、そんなことまで――」
「千尋」
悠作は千尋の疑問を遮り、まっすぐに彼女の目を見た。
「お前の店の記録で、このR-17-05が『アキバ・ジャンク・トレード』から買われたことは分かった。そしてそれが、閉店したパソコン修理店の処分品一括仕入れ分だったこともな」
「……うん、まあね」
「この先の流通経路を追いたい。そのジャンク屋が、どこの店から処分品を買い取ったのか。あるいは、同じ一括仕入れ分の中に、他にどんな機器が含まれていて、それが今どこに流れているのか。お前の伝手で探れないか」
千尋はあからさまに嫌そうな顔をした。
「あのねえ。あたしはただのレンタルボックスの雇われ店長だよ? 警察でも探偵でもないの。削除されたオークションアカウントの持ち主を探り当てるなんて、そんな無茶――」
「お前の店が所属してる『秋葉原電脳商店会』のネットワークなら、閉店在庫の横流しや処分業者の噂くらい引っかかるはずだ。お前の実務能力なら、記録の矛盾から当たりをつけることくらいできるだろ」
「……ったく」
千尋は腕を組み、大げさにため息をついた。
だが、その目は面倒くさがりながらも、完全に拒絶している色ではなかった。目の前で限界まで体力をすり減らしているすずと、過去の何かと向き合おうとしている悠作。その二人の本気の空気に、実務家としての彼女のスイッチが入ったのは確かだった。
「言っておくけど、違法なハッキングとか、個人情報の不正取得みたいな真似は絶対しないからね。うちの店や、近隣の付き合いで聞ける正当な記録の範囲内だけ。それでもいいなら、まあ、あたしの仕事のついでに調べておいてあげる」
「恩に着る」
「その代わり、分かったらあんたの抱えてるその『R-17』の秘密、ちゃんと吐いてもらうからね。あたしは預かり物に責任を持てない状態が一番嫌いなの」
千尋は店内に戻ると、首から提げた業務用スマートフォンをポケットにねじ込み、丸椅子に座るすずの方を向いた。
「すずちゃん。今日はもう真っ直ぐ帰って寝な。また何か分かったら、悠作経由で教えるから」
「あ……はい。千尋さん、ありがとうございます」
「いいのいいの。じゃあね、修理屋。せいぜい胃薬でも飲んでおきな」
ひらひらと手を振りながら、千尋は再起堂を出て行った。
入り口のガラス戸が閉まる音が響き、店内には再び、張り詰めた沈黙だけが戻る。
悠作は裏口から戻り、吸い殻を灰皿に押し付けると、モニターに表示されたままの波形グラフをじっと見つめた。
五年前の閉店。
あの時、データ消去済みとして廃棄業者に渡されたはずの検証用媒体の山。それが今、秋葉原の中古市場という静かな海を漂流し、こうして一つ、また一つと自分の足元へ流れ着いてきている。
かつての上司。
あんたは一体、あの時どんなデータを残したんだ。
奥歯を噛み締めた悠作のポケットで、スマートフォンが短く、事務的な振動を放った。
画面に目を落とすと、着信表示には『山田しずか』という名前が光っている。アキバ中央署の生活安全課で、厄介な失踪相談をいくつも抱え込んでいる女だ。
悠作は短く息を吐き、通話ボタンをスワイプして耳に当てた。




