第5話 取りに来ない箱
夜明けの淡い光が、短期滞在施設の薄暗い廊下を少しずつ白く染め始めていた。
突き当たりの窓辺で、悠作は深く息を吐き出し、くわえていた煙草を携帯灰皿へ押し付けた。指先の微かな震えは、ニコチンを肺の奥まで流し込んでも完全には治まっていなかった。
真紀のノートパソコンに残されていた、古いデータ復旧支援ソフトの独自セクタ署名。
あのスマートフォンの基板に残っていた『03』と、先ほどのデータに残されていた『08』。それが同じ系統の検証用媒体であり、五年前のあの取り返しのつかない苦い失敗に直結していることを、悠作は嫌というほど直感していた。引き出しの奥に厳重に封じ込めていたはずの暗い記憶が、現在の秋葉原の街で再び蠢き始めている――そんな不快な予感が、彼の胸をじわじわと焦がしていく。
「……偶然じゃない」
誰にも聞こえない声で呟いた時、背後のドアが静かに開いた。
「悠作さん」
すずが、疲労の色を隠せない顔で廊下に出てきた。彼女の目は少し赤いが、数時間前までの切羽詰まったような表情は消えている。
「真紀、眠りました。少し熱があるみたいですけど……とにかく、今はぐっすり」
「そうか。アキバ中央署の知り合いからさっき連絡があった。万世橋のロッカーにあったUSBの原本と手書きメモは、警察として無事に回収したそうだ。真紀の家族への連絡も、向こうでうまくやってくれる」
悠作は窓を閉め、普段通りの、感情の起伏を感じさせない低い声で告げた。
「あとは本人が起きてから、あのデータをサークルの連中にどう突きつけて、どう縁を切るかだ。そこから先は、俺たちの仕事じゃない」
「はい。……悠作さん、本当にありがとうございました」
すずは深く頭を下げた。
悠作は小さく肩をすくめ、ポケットに両手を突っ込んだ。
「仕事をして、直せるものを直しただけだ。あんたのその頭痛も、家に帰って寝れば治るだろ」
すずの能力が引き起こす頭痛や疲労は、物理的な薬で治るものではない。だが、悠作のぶっきらぼうな一言は、奇妙な怪異に怯えるすずの心を静かに日常の側へと引き戻してくれた。すずは小さく息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いて「はい」と頷いた。
それを見てから、悠作は秋葉原の駅の方角へと歩き出した。
最初の事件はひとまず区切りがついた。だが、真紀のスマートフォンから聞こえた、真紀ではない別の女性の「返して」という声の問題は、悠作の過去とともに未解決のまま残されている。
★★★★★★★★★★★
数日後の午後。
秋葉原の表通りから一本外れた裏通りにある古い雑居ビルの1階、『再起堂PCサービス』の店内には、微かなはんだの匂いと、換気扇の低い唸り声が充満していた。
店舗前方の接客カウンターの奥、雑然と工具や部品が積まれた作業台で、悠作は持ち込まれたノートパソコンの基板と格闘していた。手元のルーペを覗き込みながら、微小なチップ抵抗の焼け具合をピンセットの先でそっと確かめる。無水エタノールを含ませた綿棒でフラックスの汚れを拭き取る手つきには、一切の迷いがない。
「……で? なんであんたは今日もここにいるんだ」
悠作はルーペ越しの視線を基板から外さずに、背後の丸椅子にちょこんと座っているすずに向かって口を開いた。
すずの膝の上には、彼女自身のノートパソコンが広げられている。画面にはサークルの進行管理用のシートが映っていた。
「真紀がサークルの引継ぎと後処理を終わらせるまで、私も進行管理のスケジュールを調整してるんです。家で作業してもいいんですけど、ここだと……その、集中できるので」
「喫茶店代わりに使うな。コーヒーの一杯も出さないぞ」
「来る途中で自分で買ってきましたから大丈夫です。悠作さんの分の缶コーヒーもそこに置いてあります」
すずが作業台の端を指さすと、確かに結露した微糖の缶コーヒーが置かれていた。
すず自身、自分が読み取ってしまった「記憶の幽霊」の正体や、あの真紀のスマホから響いた見知らぬ泣き声に、今も不安を抱えているのは明らかだった。膝の上のノートPCを見つめるすずの視線は、時折、縋るように悠作の背中や手元を彷徨っている。ここにくれば、何か答えが得られるかもしれない。口にこそ出さないが、そんな彼女の焦燥混じりの期待を、悠作は黙って察していた。
悠作が手元のピンセットを置き、区切りをつけるために缶コーヒーへ手を伸ばそうとした時、カラン、と店舗のドアベルが軽い音を立てた。
「相変わらず湿っぽい店だね、悠作」
からかうようなハスキーな声とともに、店舗のドアが開く。
現れたのは、目を引くほど華やかな目鼻立ちと、鎖骨付近で無造作に遊ぶハニーブラウンの髪を持つ女性だった。ラフなシャツに細身のデニムという、その手足の長さが際立つスマートな着こなし。身長は169センチほどあり、少し挑発的な光を宿した瞳がまっすぐに悠作を捉えていた。
彼女は近隣のレンタルボックス店『アキバボックス』の店長代理、渡辺千尋。首から提げた業務用のスタッフ証を片手で弄び、腰のポーチから鍵束をカチャカチャと鳴らしながら、慣れた足取りで接客カウンターに寄りかかった。
「エアコンの除湿は最強にしてる。文句があるなら回れ右して帰れ、千尋」
悠作は作業台から立ち上がり、接客カウンター側へと歩み寄りながら素っ気なく返した。
「つれないねぇ。仕事を持ってきたって言うのに」
千尋はカウンターに寄りかかり、奥の丸椅子に座っているすずを見つけて片眉を上げた。
「おや。悠作の店にこんな若い女の子がいるなんて珍しい。もしかして、最近ここで噂になってる『失踪した同人作家のスマホを直しに来た子』?」
「……高橋すずです」
すずがノートPCを閉じて立ち上がり、軽く頭を下げると、千尋は気さくな笑みを浮かべた。
「あたしは渡辺千尋。そこの無愛想な修理屋の近所でレンタルボックスを管理してる。よろしくね、すずちゃん」
「無駄話なら他所でやれ。仕事ってなんだ」
悠作が話を急かすと、千尋は肩をすくめ、提げていた紙袋から黒いプラスチックの塊を取り出してカウンターに置いた。
「うちの店舗の期限切れ委託品だよ。ポータブルの外付けHDD」
悠作はカウンター越しに、その外装を一瞥した。数年前に流行った、どこにでもある汎用品のケースだ。
「保管期限を三ヶ月も過ぎてるのに、一向に回収に来ないの。委託管理システムに登録されてる電話番号も繋がらないし、電子決済の履歴から追える連絡先にもメールを入れたけど、エラーで返ってくる」
「なら、利用規約に従って処分すればいいだろ。あんたの店はそういう決まりのはずだ」
「そうなんだけどね。ただの同人グッズの余りならともかく、データが入ってそうなHDDはちょっと扱いが面倒なのよ」
千尋はHDDの表面を指先で軽く叩いた。
「もし中身が仕事のデータや、誰にも見られたくない個人情報だったら、勝手に廃棄して後から文句を言われると厄介でしょ。だから、中身の私的なファイルは一切開かずに、連絡先や住所録の手がかりになりそうな部分だけを限定的に復旧してほしいの。もちろん、料金はあたしのポケットマネーから払う」
千尋は毒舌で軽口も多いが、預かった品物と店舗の信用に関しては、一切の妥協をしない人間だ。単なるガラクタとして捨てる前に、持ち主の痕跡を探そうとするのは彼女らしいと言えた。
「なるほどな」
悠作はHDDの外装を再度見下ろし、短く応じた。
「引き受ける。……ちょっと裏で吸ってくる。少し待ってろ」
悠作はポケットから煙草の箱と携帯灰皿を掴み出し、店舗の奥にある勝手口から裏路地へと出た。
夏の生ぬるい空気が淀む狭い路地で、カチリとライターの乾いた音を響かせる。深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、灰色の紫煙が室外機の回す風に巻き込まれて散っていった。
ニコチンが肺の奥に染み渡る感覚を確かめながら、悠作は薄暗い路地の壁に背を預ける。
短い静寂の中で一本を吸い終えると、携帯灰皿に確実に吸い殻を押し込んだ。
数分後、かすかにニコチンの匂いをまとって店内に戻ってきた悠作は、カウンターに置かれたHDDを手に取り、作業台へと向かった。
外装ケースには目立った傷はない。USBケーブルの差込口の摩耗具合から見て、それなりに使用感はある。悠作が検証用PCに繋ぐ準備を始めようとすると、後ろからすずがそっと近づいてきた。
「……悠作さん。あの、少しだけ、触ってみてもいいですか?」
すずの言葉に、悠作は手を止めた。
「あんたの頭痛の原因になるぞ」
「でも……何か、嫌な感じがするんです。ただの忘れ物じゃないような」
悠作は少し迷った後、HDDをすずの前に滑らせた。
「数秒だけだ。無理だと思ったらすぐに手を離せ」
千尋が不思議そうに目を瞬かせた。
「触るって? 静電気で壊さないでよ?」
「大丈夫です、壊したりはしません」
すずは小さく深呼吸をして、HDDの黒いプラスチックの表面に、そっと両手を触れた。
その瞬間、すずの視界がぐらりと揺れた。
――雨の音。
――結露したガラス窓の向こうで、車のヘッドライトが滲んでいる。
――知らない家庭の食卓。並べられた無機質な食器。
――『ママー、これなあに?』
――幼い子供の無邪気な声。
――『ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪かったの……』
――ひどく怯えた、大人の女性が泣きながら謝る声。
「っ……!」
すずは弾かれたようにHDDから手を離し、よろめいて作業台の縁を掴んだ。荒い呼吸のまま、自分の両手を見つめる彼女の指先は、氷のように冷たくなっていた。
「おい、大丈夫か」
悠作が即座にすずの腕を支えた。千尋も驚いた顔でカウンターから身を乗り出す。
「ちょっと、どうしたの急に。貧血?」
「……子供の、声」
すずは荒い息を吐きながら、震える声で言った。
「小さな子供の声と……大人の女の人が、泣きながら謝ってる声が聞こえました。どこかの家で……雨が降ってて……すごく、怖がってて」
ただの黒いプラスチックの塊に触れた直後、いきなりそんなことを口走るすずに、千尋はぽかんと口を開けた。数秒の沈黙の後、すっと真顔になって一歩後ずさる。
「……ちょっと悠作。この子、何言ってるの? 急に怖いんだけど」
千尋は警戒を隠そうともせず、悠作に胡乱な視線を向けた。無理もない。初対面の少女が、ただのHDDを触っただけで幻聴のようなものを訴えて青ざめているのだ。
悠作はすずの震える肩を一瞥し、すずの発言を肯定も否定もせず、冷静に千尋へ向き直った。
「千尋。そのHDDの委託者の登録情報はどうなってる」
「え? ……20代の独身男性だよ。念のため防犯カメラの来店記録も確認したけど、子供連れの女性なんて映ってなかった」
千尋は不審げにスマートフォンを取り出し、画面の委託記録を再確認しながら答えた。
「でも、確かに聞こえたんです……!」
すずは必死に訴えようとした。だが、初対面の千尋に自分の体質をどう説明していいのかも分からず、言葉に詰まる。証拠もない以上、不気味な妄言だと思われても仕方がない状況だった。
「登録情報と、高橋さんの直感が食い違う理由は簡単だ」
痛いものを見るような千尋の視線がすずに注がれる中、悠作はすずを丸椅子に座らせると、手元の精密ドライバーを手に取った。
「外側からの情報だけで完結しようとするから矛盾が出る」
手慣れた動作でHDDケースの隠しネジを外し、プラスチックの爪を割らないように慎重にケースを二つに割る。中から銀色の金属に覆われたベアドライブ――内蔵用のハードディスク本体が現れた。
「ほら、見てみろ」
悠作がベアドライブの表面に貼られたラベルを指さす。
「外側のプラスチックケースの製造ロットは二年前のものだ。だが、中に入っていたこのハードディスク本体のラベルは、五年前のものだ」
「えっ?」
千尋が目を丸くする。
「どういうこと?」
「ケースと中身が別々の時期に組み合わされている。いわゆる『ニコイチ』だ」
悠作の低い声が、静かな作業場に響いた。
「委託者の20代の独身男性が、自分でこのケースに別の中古ドライブを入れて使っていたのか、あるいは最初からジャンク屋でニコイチとして売られていたものを買ったのかは分からない。だが、一つだけ確かなことがある」
悠作の冷たい視線が、銀色のハードディスクの表面を鋭く見据えていた。
「この中身のドライブは、委託者とは違う『前の持ち主』の使い回しだ。こいつが感じた家族の記憶は、今の持ち主の記録じゃない」
そして、悠作の視線は、ドライブのラベルの端に手書きで小さく記された文字列を捕らえていた。
真紀の事件の時と同じ。悠作の脳裏に不吉な影を落として離れない、あの識別記号が、そこには確かに刻まれていた。
――『R-17-05』
スマートフォンに残っていた『03』、真紀に送られたデータにあった『08』。それに続く、第3の番号。悠作は過去の因縁が、無作為に秋葉原の街へ散らばり、確かな広がりを見せていることを実感せずにはいられなかった。




