第4話 消えた友人の居場所
万世橋から続く深夜の裏通りは、人影もまばらで、時折遠くの幹線道路を走り抜ける大型トラックの低い走行音だけが、硬いアスファルトを微かに震わせていた。立ち並ぶ雑居ビルのネオンサインや看板の照明はすっかり消灯し、昼間の喧騒が嘘のように、街全体が深く重い眠りについているかのようだ。
悠作は早足で歩きながらスマートフォンを耳に当て、低い声で手短に用件を伝えていた。
「……ああ、原本のUSBメモリと手書きのメモは、ロッカーの管理会社に預けてある。お前のほうで家族の確認を取りつつ、警察として正式に回収してくれ。俺が引っこ抜いたのは作業用のイメージファイルだけだ。ああ、分かってる。越権行為はしない」
通話を切り、スマートフォンを無造作にポケットにしまう悠作の横顔を、すずは無言で見つめていた。アキバ中央署の生活安全課にいるという彼の知り合いは、深夜にもかかわらず確実な手続きを進めてくれているらしい。私情に流されず、法的な手続きとデジタル証拠の保全において、悠作が一切の妥協をしない人間であることは、これまでの数時間の行動で嫌というほど分かっていた。
「行くぞ。利用票にあったネットカフェは、ここから歩いて数分の距離だ」
悠作の足取りには一切の迷いがなかった。すずは頭の芯に残る鈍い痛みを瞬きで散らしながら、彼の広い背中に遅れまいと小走りでついていく。夜の湿った空気が頬を撫でるが、すずの心臓は期待と不安が入り混じり、激しく脈打っていた。
「あの、鈴木さん。ネットカフェに真紀がいるんでしょうか」
「分からない。だが、利用票の時間が失踪の翌日夕方だった以上、あそこに本人の足取りが残っている可能性は高い」
目的のネットカフェは、ジャンク通りから一本外れた古い雑居ビルの3階にあった。エレベーターの古びた扉が開くと、薄暗い間接照明と、防音カーペットに足音が吸い込まれるような独特の静寂が広がるフロアに出た。かすかに漂うコーヒーと芳香剤の匂い、そしてどこかのブースから漏れ聞こえる微かなキーボードのタイピング音が、夜更かしをする者たちの存在を静かに主張している。
悠作はまっすぐに受付のカウンターへ進み、若い店員に身分証を明示したうえで、警察の生活安全課から家族経由で照会が入る旨を簡潔に告げた。事前の根回しが効いていたのか、あるいは悠作の威圧感のない理路整然とした態度のせいか、店員は不審がる様子もなく、手元のパソコンのモニターを操作して記録を確認してくれた。
「……あ、その女性なら、数日前からずっと滞在されていたのですが、つい先ほど退店されましたよ」
「先ほど?」
「ええ。長時間の滞在でかなりお疲れのようでしたので、うちが提携している近くの短期滞在施設――ウィークリー形式の個室ホテルなんですが、そちらの空室をご案内しました。手続き上、お名前も確認していますが、沢村さんで間違いありません」
店員の言葉に、すずは小さく息を呑んだ。
真紀は生きている。それも、この秋葉原のすぐ近くに。
悠作は礼を言い、施設への詳しい道順を聞き出すと、すぐさまきびすを返した。
夜明け前の湿った空気が、肌にまとわりつく。空はまだ暗いが、東の空の際だけが微かにインクを滲ませたように白み始めていた。
教えられた短期滞在施設は、古いビジネスホテルを改装したような簡素な建物だった。オートロックのない簡素なエントランスを抜け、指定された階へと階段を上がる。
静まり返った廊下を歩く間、すずの心臓は早鐘のように鳴り続けていた。
あの『自分の意思で離れる』というテキストファイルの冷たい言葉が、今もすずの胸を容赦なく抉っている。サークルの進行管理として、親友として、真紀の力になれなかった無力感。それでも、自分の口から真実を確かめるまでは、もう絶対に退かない。
「……ここだ」
悠作が立ち止まったのは、突き当たりのドアの前だった。
彼はドアノブには手をかけず、一歩退いてすずを見た。
「俺が叩いても警戒されるだけだ。あんたの友達だ。あんたが呼べ」
すずはごくりと唾を飲み込み、震える手を伸ばした。
コン、コン、と硬い音が廊下に響く。
反応はない。
「真紀……私だよ、すずだよ。いるんでしょ?」
声がかすれた。少しの沈黙の後、ドアの向こうで微かに衣擦れの音がした。
「……すず?」
掠れた、ひどく怯えたような声だった。
「真紀……っ」
ガチャリと内側から鍵が外れる音がして、ドアが細く開いた。隙間から覗いた真紀は、着古したグレーの大きめなスウェットパーカーに身を包み、以前よりひと回り小さく萎んで見えた。無造作に後ろで束ねただけのボサボサの黒髪の隙間から覗く顔は、幽霊のように青白く、目の下には濃い隈が落ちている。すずの顔を見るなり、真紀は張り詰めていた糸が切れたように、崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまった。
「真紀!」
すずは慌てて部屋に上がり込み、床にへたり込んだ真紀の肩をきつく抱きしめた。悠作も音を立てずに部屋へ入り、静かに背後のドアを閉めた。
狭い室内には、シーツの乱れたシングルベッドと小さなデスクがあるだけだった。真紀はすずの腕の中で、堰を切ったように泣きじゃくった。すずは何も言わず、ただ彼女の震える背中をさすり続けた。
10分ほど経ち、真紀の嗚咽が落ち着いてから、悠作は部屋の隅の椅子に腰を下ろして口を開いた。
「無事で何よりだ。だが、あんたを探している人間がいる。何があったか、話せるか」
淡々とした、感情を挟まない悠作の声。それが逆に、極限まで張り詰めていた真紀の緊張を少しだけ解いたようだった。真紀は赤く腫れた目を袖口で拭い、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……スクリプト、私が盗んだって、疑われたの」
「盗用疑惑?」
「サークルのメインプログラマーの人と、意見がぶつかって……。そうしたら突然、私の書いたコードが、他のインディーゲームの丸写しだって言いがかりをつけられた。証拠なんてないのに、誰も私の言うことを信じてくれなかった」
真紀の声が微かに震える。彼女は両手で自分のパーカーの裾をきつく握りしめていた。
「あの人たち、すずには内緒で、私を吊るし上げるための裏のチャットグループを勝手に作ってたの。すずは私の味方をするからって、最初から仲間外れにされて……。共有クラウドの編集履歴が全部消された時も、私の仕業だってその裏チャットで一斉に責め立てられた。すずの進行管理アカウントは、メインプログラマーに『システムメンテナンス中』って偽装されてアクセス権をロックされてたから、すずは履歴が消えたことすら見えなかったはずだよ」
「そんな……」
すずは息を呑んだ。自分がシステムの不具合だと思っていた数日間のアクセス障害が、真紀を孤立させるための意図的な工作だったのだ。
「もう、どうしていいか分からなくて……サークル用のスマホを地面に叩きつけて、何度も思いきり踏みにじって壊しちゃって。逃げるしかなかったの」
「ネットカフェに隠れていたのはそのためか。だが、ロッカーにあったあのUSBメモリは何だ」
悠作の問いに、真紀はビクッと肩を揺らした。
「……ネットカフェのパソコンから自分のアカウントにログインしたら、『リライト』って名乗る人からメッセージが届いてたの。私は何も知らない、誰かも分からない。でも、その人は……私にデータを送ってきた」
真紀はベッドの脇に置かれた自分のノートパソコンを開き、画面を悠作に向けた。
「クラウドの履歴からは消されたはずの、私のローカルの制作ログ……それに、上書きされる前の旧版データ。私が最初から自分の手でコードを書いていたって分かる、証明のデータ……」
「それを手に入れたのなら、堂々と突き返せばよかったんじゃないのか?」
「怖かったんだよ!」
真紀が叫んだ。
「また何か理由をつけられて嘘つきにされるかもしれない。データが公開されて、ネットで騒ぎになって、炎上して……もう、あのサークルの人たちと顔を合わせるのも嫌だった! だから、誰にも見つからないように位置共有を切って、スマホが壊れたのも幸いだったから、そのまま全部捨てて離れようと思ったの」
「ロッカーに入れたテキストは、あんた自身がネットカフェのPCで書いたものだな」
「……うん。最初は黙って消えるつもりだったけど、少しだけ落ち着いてから、捜索願いとか出されたら困ると思って……自分の意思で離れるって、テキストを書いてUSBに入れて、万世橋のロッカーに入れた」
すずは、言葉を失っていた。
真紀がそこまで追い詰められていたこと。一人で逃げる決断を下したこと。そして何より、それを自分に一言も相談してくれなかったこと。
「……どうして」
すずの口から、無意識に言葉が零れた。
「どうして、私に言ってくれなかったの。私、親友だと思ってたのに……真紀のこと、信じたのに……」
真紀は痛みに耐えるように顔を歪め、うつむいた。
「言えなかったよ……。すずはいつも一生懸命で、シナリオのことですごく頑張ってた。もし私がすずに相談して、すずまでサークルの中で浮いちゃったらどうしようって。それに……」
真紀の声が小さくなる。
「もし、すずにも信じてもらえなかったら……私、本当に一人ぼっちになっちゃうのが、怖かった」
その言葉に、すずは胸の奥が張り裂けそうになった。親友だと思っていたのは自分だけではなかった。真紀もまた、すずを大切に思うからこそ、関係が壊れる恐怖に負けて一人で抱え込んでしまったのだ。
「……バカ」
すずは真紀の手を強く握りしめた。
「バカだよ、真紀。言ってくれなきゃ分かんないよ。一人ぼっちになんか、させるわけないじゃない……っ」
二人は再び身を寄せ合い、静かに涙を流した。繋いだ手の温もりだけが、夜明け前の薄暗い部屋の中に、静かに熱を持って存在していた。
「感動の再会中に悪いが、少し確認させてもらうぞ」
悠作が容赦なく二人の間を割るように声をかけた。彼は真紀のノートPCを引き寄せ、画面上のファイル群に鋭い視線を落としていた。
慣れた手つきでキーボードを叩き、リライトから送られてきたというデータを開いていく。
「確かに、このローカルの制作ログと旧版データは本物だ。同期される前のキャッシュ差分まで綺麗に拾い上げている。これなら、あんたの潔白は証明できるだろう」
悠作はそこでマウスのスクロールを止め、ある一つのファイルを開いた。
「だが、これは何だ」
画面に表示されたのは、証拠データに同梱されていたテキストファイルだった。そこには、盗用疑惑をかけられた状況への同情と、『このデータを使って彼らに復讐すべきだ。元の生活から離れたいなら相談に乗る』という、ひどく誘導的な言葉が綴られていた。
「これ……データと一緒に入ってたの。リライトさんが書いたみたいで……」
「いいか、よく聞け」
悠作は真紀を真っ直ぐに見据えた。
「この制作ログは、あんたが作った事実のデータだ。だが、このテキストは他人が勝手に後付けしただけの言葉だ。これらが同じフォルダに入っているからといって、一緒に背負う必要はない」
悠作は後付けされたテキストファイルを画面の端に追いやり、事実のデータだけを中央に残した。
「データ公開後の騒動が怖いなら、サークル内の特定の人間にだけこのデータを突きつけて、綺麗に縁を切ればいい。本気で戦うなら、全面に出せばいい。あるいは、このまま全部捨てて別の場所でやり直すのも自由だ」
悠作は立ち上がり、ポケットに手を入れた。
「直せる範囲のものは直して、事実のデータはここに揃えた。この先、このデータをどこまで見せて、どう自分を証明するか。提示する範囲を決めるのは、リライトでも俺たちでもない。あんた自身だ」
その言葉に、真紀ははっと息を呑んだ。
自分の意思を奪われ、逃げるしかなかった彼女に、悠作は「自分で選ぶ権利」を明確に突き返したのだ。
真紀は震える手でマウスを握り、画面のデータを見つめた。そして、ゆっくりと、だが確かな意思を持って顔を上げた。
「私……戦います。ちゃんと証拠を見せて、私がやってないって、証明します。その上で、あんなサークル、私から辞めてやります」
吹っ切れたような真紀の言葉に、すずは安堵の息をつき、小さく微笑んだ。
★★★★★★★★★★★
数時間後。
すずが疲れ切って眠ってしまった真紀をベッドに寝かしつけている間、悠作は部屋の隅で、真紀がリライトから受け取ったデータのプロパティを細かく確認していた。
外はすっかり夜が明け、窓の隙間から秋葉原の朝の光が差し込んでいる。
悠作の目は、バイナリエディタに表示された見慣れない――いや、見慣れすぎている文字列に釘付けになっていた。
リライトが送ってきたファイル群。その圧縮ファイルのヘッダ領域の片隅に、通常なら気にも留めないような微小な処理痕が残されていた。
それは、万世橋のロッカーにあったUSBメモリの作業用イメージから見つけたものと同じ、あの古いデータ復旧支援ソフトの独自セクタ署名。
そして、その横に付随するように書き込まれた、短い識別記号。
『R-17-08』
悠作の背筋に、冷たい汗が流れた。
「……悠作さん」
隣に立つすずが、不安げに悠作の手元の画面と、眠る真紀の顔を交互に見つめていた。
「真紀は、無事でした。サークルのトラブルも、リライトさんのデータで証明できる……。でも、私、どうしても引っかかっているんです」
すずは自分の細い指先を見つめ、微かに身体を震わせた。
「最初にあのスマホに触れた時、私に聞こえた、あの『返して』という声……。あれはやっぱり、真紀の声ではありませんでした。真紀自身の問題は解決したのに、どうして彼女のスマホから、あんなに切実な、別の人の声が聞こえたんでしょうか。あの声の主は、一体誰で……何を『返して』ほしかったんでしょうか」
悠作は息を呑み、作業台に見立てたデスクに置かれた、へし折れた真紀のスマートフォンの基板を見つめた。
真紀の破損したスマートフォンの基板に手書きで記されていた『R-17-03』と、このデータに残された『R-17-08』。
これは単なる修理の管理番号ではない。五年前、あの場所で行われた、二度と取り返しのつかない復旧作業。
すずが感じ取ったあの泣き声は、やはり真紀のものではない。この『R-17-03』という検証用媒体そのものに、五年前からずっと焼き付いたまま流出していた、あの時の依頼人の――。
「偶然じゃない……」
悠作は誰にも聞こえない声で呟いた。
真紀の失踪事件は解決した。彼女の安全は確保され、本人の意思も確認できた。だが、事態は何も終わっていない。
悠作はノートPCを閉じると、無言でデスクから離れた。
「……少し、風に当たってくる」
すずに短く告げると、悠作は逃げるように部屋を出た。
薄暗い廊下の突き当たりにある小さな窓を開け、ポケットから煙草を取り出す。いつもは精密機械のような手つきをするはずの彼の指先が、微かに震えていた。
カチリ、とライターで火をつけ、深く煙を吸い込む。
肺を満たすニコチンでも、背中を伝う冷たい汗を誤魔化すことはできなかった。夜明けの光に照らされた秋葉原の街を見下ろしながら、悠作はもう一度、苦い煙を吐き出した。




