第3話 万世橋のスマートロッカー
万世橋の暗い路地裏。川面から立ち上る湿った風が、微かにドブの臭いとアスファルトの熱を運んでくる。赤く点灯するスマートロッカーのLEDランプを前に、悠作は耳元のスマートフォンから聞こえる通話終了の電子音を聞き届け、画面をタップした。
「……手はずは整った」
悠作はスマートフォンをポケットにしまい、隣で不安げにロッカーを見つめているすずへと視線を向けた。
「アキバ中央署の生活安全課にいる知り合いに連絡を入れた。あいつから真紀ってやつの家族へ連絡を取り、警察と家族の同意のもと、ロッカーの管理会社へ緊急開錠の要請を出してもらう」
「それじゃあ、すぐに開くんですか?」
「いや。深夜だ、管理会社の緊急対応スタッフが現場に到着するまで1時間はかかるらしい。このままここで立っていても事態は進まない。一旦、店に戻ろう」
「でも……」
「ひどい顔をしてるぞ。睡眠不足のうえに、あんな得体の知れない能力で負荷をかけたんだろ。ここで倒れられたら俺の寝覚めが悪い」
食い下がるすずの言葉を、悠作は冷静な視線で遮った。ぶっきらぼうな言い回しだったが、そこに反論を許さない響きがあった。すずは小さく頷き、重い足取りで悠作の後に続いて万世橋を後にした。
★★★★★★★★★★★
深夜の再起堂PCサービスは、静まり返っていた。
シャッターを下ろし、作業場の丸椅子に腰を下ろしたすずは、鈍い頭痛に耐えるようにこめかみを指で押さえた。依頼品の残骸や工具が整然と並ぶ空間は、微かに機械油の匂いが漂い、不思議と安心感がある。
「少し待っててくれ。頭を使うにも、腹に何か入ってないと回らない」
悠作は作業台の奥にある、小さな流し台とIHコンロが置かれた休憩スペースへと向かった。
彼が冷蔵庫を開け、手際よく調理器具を取り出す音が響く。生活管理が不得手だと自称する店主のキッチンにしては、道具の手入れが行き届いていた。
「……鈴木さん、お料理するんですか?」
「俺のためにはろくに作らないがな。……何だその目は。外食ばかりだと胃が荒れるから、気が向いた時にまとめて仕込んでるだけだ。一人暮らしが長ければ、これくらいの自炊は嫌でもやるようになる」
悠作はフライパンに火をかけ、買っておいた鮭の切り身を香ばしく焼き上げた。パチパチと脂のはぜる心地よい音が店内に響く。皮目に焦げ目がついたところで火から下ろし、菜箸で手早く身をほぐして骨を取り除く。
続いて彼が冷蔵庫から取り出したのは、小さな瓶詰めのペーストだった。
「やまうに豆腐だ。豆腐を味噌漬けにして半年発酵させたもんで、ウニみたいなコクがある。鮭の塩気と合わせると悪くない」
炊飯器から湯気を上げる白飯をボウルに移し、ほぐした鮭と、やまうに豆腐をたっぷりと混ぜ込む。悠作は手に薄く塩を振り、無駄のない確かな手つきでふんわりと、それでいて崩れない絶妙な力加減でおにぎりを握っていった。
傍らでは小鍋で出汁が温められ、細かく刻まれた青菜が放り込まれる。
「モロヘイヤだ。夏場はこれで粘りを出した味噌汁が一番胃に優しい」
味噌が溶き入れられ、ふわりと出汁の香りが店内に広がった。
数分後、すずの前の小さなテーブルに、鮭とやまうに豆腐のおにぎり、大粒の梅干し、そして熱々のモロヘイヤの味噌汁が並べられた。
「できた。食べよう」
悠作の言葉に促され、すずは両手でおにぎりを持ち上げた。温かい。
一口かじると、ふっくらとしたご飯の中で、鮭のほどよい塩味と、やまうに豆腐の濃厚でねっとりとした味噌の風味が絶妙に絡み合った。発酵食品特有の深い旨味が、疲労した脳に直接染み渡るようだ。添えられた大粒の梅干しの酸味が、さらに食欲を刺激する。
続いてモロヘイヤの味噌汁をすする。とろみのある汁が、冷え切っていた胃の底をじんわりと温めていく。
「……美味しい、です」
「糖分だけじゃエネルギー切れは防げないからな。ゆっくりでいい」
悠作は自分の分のおにぎりを軽く平らげると、「少し外の空気を吸ってくる」と言って裏口の扉を開けた。
夜の裏路地に出た悠作は、ポケットから煙草の箱を取り出した。
硬質なジッポライターの音が響き、小さな炎が暗闇を照らす。彼は深く煙を吸い込み、ゆっくりと紫煙を夜気へと吐き出した。夏の夜特有の、まとわりつくような空気が煙と混ざり合って消えていく。
客の依頼品や、精密な基板の前では絶対に火をつけない。それが彼のルールだった。しかし今夜は、煙草を口へ運ぶペースが少しだけ早い。
『R-17-03』
真紀のスマートフォンの基板に残されていた、あの識別記号。
かつて、自分が関わってしまったあの苦い過去――。取り返しのつかない失敗と、そこに紐づく検証用媒体の番号帯。なぜ、今になって持ち込まれた見知らぬ客のスマートフォンに、あの悪夢のような記号が刻まれているのか。
悠作は苛立ちと焦燥感を肺の奥に押し込むように、もう一度深く煙を吸い込んだ。過去の亡霊が、現在の秋葉原で再び目を覚まそうとしているような嫌な予感が拭えない。
店舗のガラス越しに、すずが両手で椀を持ち、温かい味噌汁をすする姿が見える。
彼女の異常な感覚を、単なる幻覚として切り捨てることは簡単だった。だが、彼女がスマートフォンから感じ取った光景と、通常データから抽出した物理的痕跡は、確かに符合している。
悠作は携帯灰皿で火を揉み消し、微かな焦燥を夜風に捨てて店内へと戻った。
★★★★★★★★★★★
「『到着したそうです』」
悠作はアキバ中央署の知り合いからの短いメッセージを受け、すずと共に再び万世橋の路地へと向かった。
すでに指定されたスマートロッカーの前には、管理会社のロゴが入った青い作業着を着た、小柄な中年男性が待機していた。深夜の急な呼び出しに少し眠そうに目をこすりながらも、手慣れた様子でタブレット端末を小脇に抱え、こちらの様子を伺っている。
「アキバ中央署からの要請で伺いました。ご家族の同意書と委任状は、システム経由で確認済みです」
男性は事務的だが、手際の良さを感じさせる落ち着いた声で言った。
「ご苦労さん」
悠作は自分のスマートフォンの画面を作業員へ見せた。
「破損した端末のキャッシュから抜いたデータだ。『…cker_PIN_4…』という文字列。それから、利用された時間は3日前の昼だ」
「確認します……なるほど、時間帯とワンタイム暗証番号の末尾『4』が一致するボックスが一つだけありますね。08番ボックスです。今、管理者権限でロックを解除します」
作業員が専用の端末を操作すると、赤いLEDが緑色に変わり、金属の扉がカチリと音を立てて少しだけ開いた。
すずは、自分の喉が酷く乾燥していくのを感じ、固唾をのんでその隙間を見つめた。
悠作はポケットから薄手のニトリルゴム手袋を取り出して装着し、慎重にロッカーの中へ手を入れる。中には、コンビニの小さな紙袋が一つだけポツンと置かれていた。
近くの街灯の下まで移動し、悠作は袋の中身を確認した。
出てきたのは、安価なUSBメモリ、一枚のレシート、そして小さな手書きのメモ用紙だった。
「これ、真紀の字です……」
すずがメモ用紙を覗き込む。そこには、走り書きのような文字が残されていた。
『迷惑かけます。データはリライトから受け取りました』
「リライト……?」
「誰かの名前か、ハンドルのようだな」
悠作は持参していた黒い検証用ノートPCを開き、USBメモリを専用のソケットリーダーに差し込んだ。
「鈴木さん、中を見るんですか?」
「原本は絶対に汚さない。今、このソケットで書き込み防止のライトブロックをかけている。この状態で、中身の作業用イメージを作る。俺たちが調べるのは、その複製データだけだ」
悠作の指がキーボードを叩き、数分で安全なイメージファイルが作成された。
彼がそのファイルを開くと、中には『自分の意思で離れる.txt』という名前のテキストファイルが一つだけ保存されていた。
「……いや、これだけじゃないな」
悠作はバイナリエディタに表示されたファイルのヘッダ領域を睨んだ。
テキストデータの背後に、不自然なシステムコードの残滓が埋もれている。それは、特定の古いデータ復旧支援ソフトが動作した際に、強制的に書き込まれる独自のセクタ署名だった。かつて自分が嫌というほど目にした、あのツールの痕跡が、ここにも残されている。偶然などあり得ない。
しかし、悠作は湧き上がる疑念を一旦奥底に沈め、テキストファイルの中身を表示させた。
そこには、同人サークル内でのトラブル――詳細は伏せられていたが、他人のコードを盗用したと疑われたことへの疲弊と、誰にも会わずに一人で逃げたいという切実な思いが綴られていた。
読み終えたすずの顔から、すっと血の気が引いた。
「真紀が、自分の意思で……? そんな……私には、ひと言も相談してくれなかったなんて」
親友だと思っていた。一緒にゲームを作り、深夜までチャットで語り合った。それなのに、真紀は一人で絶望し、自ら姿を消すことを選んだ。すずは足元が崩れ落ちるような喪失感に襲われ、うつむいた。
だが、悠作は冷徹な目のまま、マウスを右クリックしてプロパティ画面を開いた。
「落ち込むのはまだ早い、高橋さん」
「え……?」
「このテキストファイルの更新日時を見てほしい」
悠作が指差した画面の隅。
そこには、ファイルが最後に上書きされた日時が表示されていた。
「あんたの友達が失踪して、端末が完全に壊れたのは4日前の夜だ。だが、このテキストファイルの更新日時は、その翌日の昼過ぎになっている」
「失踪した、後に……書かれた?」
「あるいは、後から誰かが書き換えたかだ。さらに言えば、一緒にロッカーに入っていたこのレシートを見てくれ」
悠作はピンセットでレシートをつまみ上げた。
「近くのネットカフェの利用票だ。打刻されている日時は、失踪の翌日の夕方。つまり、端末が壊れた後も、本人が生きているか、あるいは本人のふりをした誰かが秋葉原にいた証拠だ」
すずは目を見開いた。絶望に沈みかけていた視界が、悠作の言葉によって再び輪郭を取り戻していく。
「『自分の意思で離れる』って言葉だけを鵜呑みにするのは危険すぎる。本当に本人の意思かどうかは、本人を見つけて直接確認する。それまでは保留だ」
「鈴木、さん……」
「まだ終わってない。探そう」
悠作はパタン、とノートPCを閉じた。
安い慰めの言葉など一つもなかった。だが、その冷徹なまでの事実の積み重ねが、すずにとっては何よりも確かな救いだった。




